正心誠意に大阪市問題を解く

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いやはや、日本語のレベルも地に堕ちたものであります。

 おみごと。私は琴奨菊の正直さに好感を抱いた。これに反して、もし安物の政治家や知識人どもであると、秘(ひそ)かに『四字熟語』級の安物の実用書をめくってめくって何か探し当て、いつも心がけていると言わんばかりに「座右の銘」と重々しく述べるところである。

 その典型が野田佳彦首相の所信表明演説の中にあった。すなわち「正心誠意」ということばだ。

 伝えられるところではこうである。原稿では「誠心誠意」であったのを、「正心」のほうがいいと言って自ら修正したという。

 なぜそうしたのかと言えば、「正心誠意」は勝海舟の『氷川清話』の中にあり、歴史小説ファンの首相は、勝海舟が政治の要諦として語った「正心誠意」を取ったのだと諸報道は伝えている。おそらく所信表明演説下書きに関わった首相周辺からの説明であろう。

 驚いた、私は。「正心誠意」ということばは、現代でもすこし漢文を学んだ者ならば、まして江戸・明治期ならば5歳の幼児でも知っていることばである。

 すなわち、「正心誠意」は、四書の一つである『大学』のはじめあたりに出てくる超有名なことばなのである。

 勝海舟はそれを引いたまで。そのころの人は「正心誠意」ということばを知っていたので、勝はわざわざ「『大学』に曰(いわ)く」などと出典を示す必要はなかった。読む側も「ああ、『大学』のことばね」と思いながら読んだのである。
(中略)
 では、『大学』とは何なのか。

 儒教古典は大量なので、ここが分かればいいということで、四書が選び出された。『礼記』という古典から大学篇・中庸篇を抜き出し、『論語』『孟子』と併せて四書とした。学庸論孟とも略称し、この四篇の学習を必修とした。日本で言えば、平安時代のころである。

 『大学』は政治の目的を「道徳的社会を作ること」とした。そこに至るためには、八項目(八条目)を連関づけながらしっかりと究めることとした。順を追って言えば、こうである。

 国を治めようと思えば、まず家を斉(ととの)えよ。家を斉えようと思えば、身を修めよ。身を修めようと思えば、心を正せ。心を正そうと思えば、意思を誠実にせよ。意思を誠実にしようと思えば、知識を磨け。知識を磨くには、物の道理を感得せよ、と。

 皆さん御承知の「治国・斉家・修身・正心・誠意・致知・格物」である。この「治国」の上が「天下平らか」。この「平天下」と併せて八条目。

 国際社会(天下)に貢献しようと思えば日本国をきちんと治めよ(治国)。そのためには民主党内を秩序づけよ(斉家)。そのためには内閣に疑惑ある者(例えば山岡賢次氏)を入れるな(修身)。となって、そこから「正心誠意」が始まるのである。「正心誠意」だけを突出させても、それは『大学』の趣旨ではない。首相はもっとしっかり基本から学び直せ。(かじ のぶゆき)
立命館大学教授・加地伸行 「正心誠意」を海舟作とした浅学

知ったかぶりの赤っ恥。まことにお恥ずかしいかぎりであります。

日本と言う国を代表するリーダーからして、これであります。KAIが「バカ」国民と連呼するのも、これでご納得いただけるものと確信するのであります。

それにしても、なんでこうなってしまったのか。

もちろんこれはご説明するまでもないのであります。戦後の大間違いの、道徳価値を否定した勘違い民主主義教育の結末以外の何者でもないのであります。

もはや、この「道徳価値」の重要性を理解すらしようとしない人々で、この日本と言う国は埋め尽くされてしまったのであります。嘆息。

そもそも「道徳価値」とは、なんであるのか。

これを一言で言うと、「垂直価値」であります。

「垂直価値」とは、価値観の次元を超えた価値観、上の次元から下の次元まですべてのレイヤの価値観を縦断する価値観であります。

 国を治めようと思えば、まず家を斉(ととの)えよ。家を斉えようと思えば、身を修めよ。身を修めようと思えば、心を正せ。心を正そうと思えば、意思を誠実にせよ。意思を誠実にしようと思えば、知識を磨け。知識を磨くには、物の道理を感得せよ、と。

一番下の道理が、物の道理。すなわち物理であり、物理法則に則り身を格せ、格物であります。これと、治国、すなわち政治が、どのように繋がるのか。これこそ、「垂直価値」、「道徳」の意味であります。

これをご理解いただく格好の事例があるのであります。

大阪都構想「そのもの」について私は別に反対ではない。
大阪府と大阪市の二重行政を一元化しようという動きはすでに40年前からあり、前任者の太田府知事もその唱道者であった。
それが40年間はかばかしい成果を上げていないのは、大阪市がその権限と財源を府に委譲することによって、どのような「よきこと」が大阪の地に起るのか、その見通しがはっきりしなかったからだろう。
政策の適否はつねに計量的なものであって、「絶対に正しい政策」とか「絶対に間違った政策」というようなものはない。
(中略)
大阪都構想を単独の政策として議論することにはあまり意味がない。
どういう文脈の中にその政策を位置づけるかの方に意味がある。
構想がめざしているのは、大きな文脈の中で言えば、社会の「効率的再編」と「地域経済の活性化=需要の喚起」である。
「効率」と「成長」が端的に「よいもの」とされる時代においては適切な政策だったかも知れない。
それは東京府東京市が統合されて東京都に再編されたのが1943年の戦時下すなわち、中枢的で効率的な上意下達システムが何よりも求められていた状況においてであったという歴史的事実からも推察される。
けれども、高度成長期からバブル崩壊まで、「効率と成長が端的によいものとされた時代」においてさえ、この「効率と成長」を求める政策は採択されなかった。
どのような事情があったかはつまびらかにしないが、「二重行政」の非効率よりも優先されるべき「何か」があったというふうに考えるのが合理的である。
大阪都構想では、この「何か」を「既得権益」と同定している。
この指摘はその通りであるが、「既得権益」の受益者は別にごく一部の「ワルモノ」(悪代官や越後屋)であるわけではない。
しばしば既得権益、すなわち非効率なシステムの受益者は住民自身である。
役場や出張所が狭い地域にいくつも点在しているのは管理コスト上は非効率であるが、住民にとっては利便性が高い。
(中略)
「社会システムが非効率的であり、経済活動が停滞して、市民が自己利益の追求に専念できないこと」を危機と考えるか、「市民が砂粒化し、自己利益の追求を優先して、公共システムが空洞化すること」を危機とみるか、その違いである。
リスク評価の適否は未来予測に依存するから、ここでいくら議論しても、どちらが正解であるか、結論は出ない。
私が経験的に知っているのは、「ハイリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものと、「ローリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものは、「桁が違う」ということである。
そのことを私たちは福島原発事故で骨身にしみて学習したのではないのか。
効率とリスクヘッジについて

「効率」、「成長」、「ハイリスク」、「ローリスク」。いずれをとっても、同次元の中の価値観にすぎないのでありますが、これを「水平価値」と呼ぶのであります。

大阪市の問題は、水道局の問題であります。

大阪市と大阪府がそれぞれまったく独立して水道局と言う水道事業を行っているのであります。

ウチダ先生は、個人的な大阪市長との繋がりからまったくもって目が曇っているとしかいいようがないのでありますが、これを「二重行政」とは決して言わないのであります。

「役場や出張所が狭い地域にいくつも点在している」なら、それはそれでまったくもって問題ないのであります。

そうではなく、大阪市の水道は、大阪府の水道から完全に切り離され、大阪市民(府民も)はとんでもない高額の水道代を毎月払っているのであります。

これを大阪に本社のある産経さえも、報道しない。コワイからであります。

ですから、橋下が市長になって水道局を解体するだけで、府民、市民あわせて年間数百億の税金が節約されるのであります。

これこそ「正心誠意」なんであります。

みなさん、そうは思いませんか? KAI