February 02, 2012

アプリケーション価値の時代を生きる(3)−−お金の発明を起点にして

「貨幣価値からアプリケーション価値へ」

これもまたシンクロニシティ。貨幣価値とはなんぞや。この本質を読み解く記事があるのであります。

岩井:3年ほど前のことです。お金についての小さな国際会議がベルリンでありました。非常に学際的で、経済学者の他、社会学や歴史、哲学などの専門家が15人ほど集まって三日間ほど集中的に議論しました。そのなかで私がもっとも刺激を受けたのが、イギリスから招かれたギリシャ古典の大家であるリチャード・シーフォードさんの発表でした。

 彼の研究の発端となった疑問は「なぜ我々は、古代ギリシャ人を近い存在に感じるのか。なぜ古代ギリシャは現代なのか」というものでした。具体的に言えば、ギリシャ神話の悲喜劇は、今読んでも、古さを感じさせず、現代の文芸作品と同じような感動を与えてくれる。そしてギリシャが紀元前の世紀に実現した民主主義の仕組みは、現代の民主主義の原型ですし、さらに、ギリシャにおいて、現代につながる哲学や科学が始めて生まれました。

池上:なるほど。古代ギリシャの市民社会文明は、まさに現代社会とそっくりだ。
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岩井:ただ、古代ギリシャと現代社会には共通項が多いぞ、という話自体は聞き覚えがあるはずです。私が衝撃を受けた、というよりは歓喜したのは、シーフォードさんが出した解の方にありました。なぜギリシャと現代はそっくりなのか? 彼の結論は「ギリシャは世界史上で最初に、完全な貨幣経済を実現した社会だったから」というものでした。

池上:何と、お金の発明がギリシャ文明の前にまずあった、ということですか!

岩井:ギリシャでは紀元前7世紀ごろから、貨幣が流通するようになりました。ユーロ統合まで使われていたギリシャの通過単位ドラクマが既にこのとき誕生しています。貨幣はコインで、その素材は、金と銀の合金でした。ただし、当時はまだ金と銀の合金を安定して製造する技術はありませんでした。ですから、最初から金と銀が混ざっている合金を掘り出して、それを鋳造してコインにしていたのです。よって、金と銀の比率はコインによってバラバラでした。

 つまり素材としての価値はコインごとにバラバラだったのです。金の含有量が多いコインも少ないコインもあった。でも、古代ギリシャでは、金の含有率というコインのものとしての価値を流通させるのではなく、どのコインも1ドラクマという抽象的な「お金」として流通させたのです。

池上:物としての価値ではなく、みんなが認めた貨幣単位をコインのかたちで流通させる。まさに貨幣経済の誕生がすでにこのときのギリシャであったわけですね。でも、それがなぜ現代文明とそっくりな古代ギリシャの文明と結びつくんでしょうか?

岩井:この世の中に、個々のモノや個々の人間を超えた、抽象的な価値や普遍的な法則が存在すること、しかも神様とは独立に存在しうること。これが近代文明の基本です。科学も哲学も政治も文学も、すべて抽象的な価値や普遍的な法則を共有することで、初めて成立する。まず、具体的なモノとしてはバラバラなお金を、抽象的で普遍的な価値として、社会全体が日常的に使い合うという貨幣経済の誕生こそは、まさに近代文明に通じる古代ギリシャ文明の礎なのだ、というのがシーフォードさんの説だったのです。

池上:抽象価値を共有する。それが文明である。そして初めてギリシャ人が共有した抽象価値こそは、「貨幣=お金」だった、というわけですか。目から鱗が落ちる話です。それにしても、ユーロ危機発祥の地ともいえるギリシャが、紀元前6世紀に「お金」を生んだことでと、現代文明の基礎が出来上がった、というのは何とも皮肉な話です。

岩井:まったくですね(笑)。古代ギリシャでは貨幣の流通をきっかけに、抽象思考の実践が行われました。イデア論を唱えたプラトンなどはまさにその申し子です。ギリシャ哲学は、お金から生まれたともいえます。それはまた、この世には個々の事物の雑多さを超えた、普遍的な法則性が存在するはずだという、科学的な世界観の出発点にもなった。

 それだけではありません。金の含有率は違っても、1ドラクマコインはすべて1ドラクマの価値を持つ、同じである、平等である、という考え方は、個人の間の平等性を前提とする、まさに民主主義の誕生につながります。さらに、お金の流通が進むと、人間は共同体的な絆から切り離されます。つまり、「個人」となります。これまで共同体的な規制や慣習にもとづいて行動すればよかった個々の人間が、英雄でもないのに、自分で自分の運命を切り開いていかなければならなくなる。それは必然的に、悲劇や喜劇を生み出します。

 かくして、お金が日常的に人々の間で流通し始めたことが、今につながる文明社会を生み出したのだ――。こうシーフォードさんは結論づけました。

 私も仮説としては前から同様のことを考えていたのですが、経済学者が「お金が文明を産んだ」というとどうしてもポジショントークに聞こえてします。ところが、経済と一見全く縁のない古典学者が指摘した。そこに私は大変嬉しいショックを受けました。

池上:近代がお金を作ったのではなく、お金が近代を作ったのですね。誰かが発明したのか、自然発生的に生じたのかはわかりませんが、私たちの文明は、科学も哲学も文学も民主主義も、まず先にお金ありきである、と。これからも私たちは、お金とは縁を切れそうにありませんね。
「実はお金があったから、科学も哲学も文学も民主主義も生まれたのです」岩井克人×池上彰対談(3)


このお話の本質は、おわかりでしょうか?

単純に、人類が貨幣を発明し、これが起源となって近代文明が芽生えた、なんて理解した瞬間、なにもわかったことにはならないのであります。

そうではなく、貨幣とはなんであるのか。この貨幣の本質にかかわるお話であるのであります。

貨幣の一般的な説明は、こちら。

貨幣(かへい)とは、

  • 商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つもののこと[1]。
  • 商品の価値尺度、交換手段として社会に流通しているもので、またそれ自体が価値あるもの、富として蓄蔵を図られるもの[2]。
貨幣、Wikipedia

ここでは「商品交換」と言う側面での貨幣の「価値」機能が説明されているのでありますが、現代社会では、むしろ「信用創造」としての機能がより強化されていると言えるのであります。

しかし、上記引用の通り岩井教授が紹介されているリチャード・シーフォード氏の見解をよく吟味したうえで、あらためてこの貨幣の意味を考え直すならば、こういった「商品交換」とか「信用創造」といった「実用的」機能としてではなく、「抽象的で普遍的な価値」としての機能にこそ、貨幣の本質があることに着目する必要があるのであります。

そして、この「抽象的で普遍的な価値」の効果としての、「個人」概念の誕生であります。

さらに、お金の流通が進むと、人間は共同体的な絆から切り離されます。つまり、「個人」となります。これまで共同体的な規制や慣習にもとづいて行動すればよかった個々の人間が、英雄でもないのに、自分で自分の運命を切り開いていかなければならなくなる。それは必然的に、悲劇や喜劇を生み出します。


なんと「悲劇や喜劇」を演出する、現代社会の「お金」が持つ「負の側面」は、もとをたどればその発明の時から貨幣と言うものの持って生まれた「性(さが)」であったと言うのであります。

このお話は、今回のテーマ「アプリケーション価値」について考察するうえで、きわめて示唆的なんであります。

すなわちそれは、「お金」では評価することのできない「価値」の存在であり、それがこれまた重要なテーマである「贈与価値」の問題であるのであります。

「共同体的な絆」を切り離すとする「お金」の効果と、「共同体の絆」の源泉たる「贈与」、この二つが相容れないのは、この原理からしてもっともなことだったのであります。

そして、この「贈与」が「アプリケーション価値」と繋がる。

以前、KAIは「アプリケーション価値」とは「社会的有用性」と申しあげたのでありますが、これがすなわち「贈与価値」であるわけであります。

もちろん、ずっと大昔から「贈与価値」は存在し続けている。これは、しかしながら、「貨幣」のような「カタチ」にすることが、ずっと永い間できなかったのであります。

これがしかし、人類がコンピュータを手に入れたことで、「アプリケーション」と言う具体的な「カタチ」にすることがようやく実現したのであります。

これこそが、「アプリケーション価値」の時代の到来であり、私たちはこの「アプリケーション」といかなるかかわりをもっていけばいいのか、「アプリケーション価値」の時代の「生き方」をいま私たちは問われているのであります。

直接的には「プログラマ」として「アプリケーション」とかかわる方法がある。これもまた、すでに何度も議論してきたことでありました。

これはもうシンクロニシティの力としか言いようがない。

商業というのは本質的に等価交換であり、そこからは何も富は生み出されない。重農主義者たちはそう考えた。
「『純粋の商業は・・・等しい価値と価値との交換にすぎず、これらの価値にかんしては、契約者どうしの間には、損失も儲けもない。』なぜなら、『交換は何ものをも生産せず、つねにひとつの価値と等しい価値の富との交換があるだけで、その結果真の富の増加はありえない』(ケネー)からである」(中沢新一、『純粋な自然の贈与』、講談社学術文庫、2009年、100頁)
ところが農業生産だけは富をつくりだす。
「農業では地球が創造をおこなからだ。大地に春撒いた百粒の小麦種は、秋にはその千倍の小麦種に増殖をおこなう。この増殖分から、労働に必要だったさまざまな経費や賃金をさっぴいても残るものがある。ケネーが『純生産物』と呼んだ、この増殖分こそが、農業における剰余価値の生産をしめしている。」(Ibid.)
マルクスも、富の増殖については、流通過程以外のどこかで剰余価値が創造されていることについてはケネーと同意見だった。
だが、重農主義者とは違い、マルクスは「自然の贈与」ではなく、「労働力」が富の源泉だと考えた。
労働力は「ピュシス」の力である。
外部の自然は、労働者の身体を通して、贈与を行う。
「労働者は、商品という形に物質化された労働を、資本家に売っているわけではなく、この抽象的なピュシスの力である労働力を売っている。ここに資本主義世界における、剰余価値発生の秘密が隠されている。」(106頁)
ピュシスの贈り物


このウチダ先生の文章を読んで、わかった。いまインターネット上で動作するすべてのアプリケーションをプログラミングすることの意味と、その価値とは何であるかが。

これは、人類が生み出した、まったく新しい第二の「アグリカルチャー」だったのです。

自然が与えた「ソフトウェア」と言う生命を、「アプリケーション」として育てること。これこそがプログラミングの意味だった。

もちろん、プログラミングと言っても、オフラインのアプリケーションではない、インターネット上の成長するソフトウェアとしての自己組織化アプリケーションのプログラミングのこと。

そして、このアプリケーションのネットワークに参画する人たちが、「人間的成長」と言うこの自然の贈与を享受できる。

つまり、クラ交換という何の富も生み出さない無限交換のプロセスにおいて、「外部の富」は、共同体のネットワーク形成と儀礼参加者たちの成熟というかたちで世界に滲出しているのである。
ビジネスの場でゆきかっている商品やサービスや情報そのものは富を生み出すわけではない。
そのようなビジネスを行う相手を安定的に確保するためには、そこに「共生」の関係がうちたてられなければならないということと、ビジネスを円滑にすすめるためには当事者に人間的成熟が必須であるということが、ビジネスのもたらす「外部の富」なのである。
ピュシスの贈り物

もうこれは、20周年記念的お話そのものではありませんか。

ここでウチダ先生が書く「人間的成熟」こそ、KAIの言う「人間的成長」です。すべてはここに帰すると言うこと。

なるほど、ビジネスをこの次元にまで高めることと、ビジネスにおける成功とは、まったく同義のことであったのであります。 KAI
プログラミングとは農業だった!


では、私はまったくプログラミングなんて、と言う方は、いったいどうすればいいのか。この格好の事例をご紹介するのであります。

空と雲と富士山


これでいいのであります。

毎日ブログを書き続ける。

もちろん中身はなんでもいいわけではありません。件のブログのような「定点観測」が基本であります。

ブログを書くあなた自身が、「観測」と言う「アプリケーション」になればいいだけなんであります。

先日のエントリーで取り上げた「キュレーター」も、まったく同じであります。あなた自身が「キュレーション」と言う「アプリケーション」になって、社会に「贈与」すればいいだけなんであります。

この見返りは?

なんて、問わない。「贈与」こそ目的であります。

と言うことで、まだまだ続くのであります。 KAI

January 30, 2012

アプリケーション価値の時代を生きる(2)

前回、佐和隆光の、「サービス化経済入門」から引用してのご説明を申し上げたのでありますが、時代はさらに進んでいるのであります。

すなわち、サービス化からアプリケーション化であります。

モノ→サービス→アプリケーション


これをもっと言えば、こうなっているのであります。

モノ < 貨幣

サービス = 貨幣

アプリケーション > 貨幣


これをアプリケーション価値の公式と呼ぶのでありますが、それぞれが持つ「価値」の比較式となっているのであります。

 吉川弘之東大教授は、情報によって受け手に間接的効果を引き起こすものをメッセージ型サービス、直接的効果を引き起こすものをマッサージ型サービスとして、サービス業を二分類することを提唱されている。
ソフトセクターとは


ここで言うマッサージ型サービス業が従来どおりのサービス業として残っていくのでありますが、メッセージ型サービスがそのまま「アプリケーション化」するわけではないことにご注意いただく必要があるのであります。すなわち、人月商売をしている情報産業は、やはり「マッサージ型サービス業」のまま、従来どおりのサービス業にとどまっていくと言うことであります。

では、「アプリケーション化」とは、具体的にどのようなものを言うのか、これを具体的事例でご説明するのであります。

佐々木俊尚さんの「キュレーションの時代」売れているようです。
先週まとめを書きましたが、味わい深い本なので、少し掘り下げてみたいと思います。

会社で「キュレーション」や「キュレーター」の議論をすると、必ず出てくるのが、「そんなこと、編集者はずーっと前からやってるよ。編集者とどう違うのか?」という疑問です。本を読んで、個人的にその違いを考えてみました。

キュレーターのいちばんの定義は、情報に意味や文脈(コンテクスト)を付与することだと言われていますが、この点は、編集者も行っていると思います。これは元編集者の端くれの一人としても、ちょっと譲れない点です。その点では、キュレーターと遜色があるわけではないと誇りたい。(ジャーナリストとの違いとしてなら納得です)

その前提においても、その点以外では、結構な違いがあるのではないかと考えています。
私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。


そうです、「キュレーション」こそ、「アプリケーション化」の象徴的存在となるのであります。

しかし、誰もが「キュレーター」となるわけでもないのであります。「キュレーション」はあくまで「アプリケーション化」が100万通りあるうちの、ほんの一つのパターンにすぎないのであります。

では、もう少しこれを俯瞰しやすい事例はないのか、と言うことで、以下またまた次回に続くのであります。 KAI

January 27, 2012

アプリケーション価値の時代を生きる

錦織が、準々決勝でマーレーに敗退した理由を「体力」と言い訳した瞬間、錦織のランクトップテン入りも夢のまた夢と化したのであります。

ツォンガに、錦織が勝てた理由は、単にツォンガのミスが多すぎただけであります。別に錦織のレベルが上回ったわけでもなんでもないのであります。

あれだけツォンガがミスしても、フルセットでしか勝てなかったのは、いったいぜんたいなぜなのか?

錦織は、こう自分に問いかける必要があるのであります。こう問うことが、マーレー攻略に繋がる。しかし、これができなかった。この結果の、準々決勝敗退であったのであります。

ゲームに勝つための、絶対的な「直接的」方法などと言うものは、ない。ないけれども、絶対的「間接的」方法は存在するのであります。それが、「内省」と言うものなんであります。

しかも、この「内省」はただの内省ではないのであります。それは「連続的内省」であります。「不断」の内省なんであります。

錦織について言えば、ツォンガ戦の内省がマーレー戦に繋がり、このマーレー戦の内省が次のゲームに繋がっていく。こう考える必要があるのであります。

最近、ネットベンチャーなど起業の仕方や考え方について書いた記事をよく見かけるのであります。

もちろんこれを記されているご当人にとって、リアルな体験をもとにされているのであるからして、一概にこれの批判はできないのでありますが、彼らに決定的に欠けているのが、この「連続的内省」の視点なんであります。

これについても、すでにここで何度も言及してきているのでありますが、これをあえて全文再掲するのであります。

「同行二人」連載5回目。今回のテーマは、幸之助の結婚と独立起業です。

明治37年(1904年)11月23日、あと4日で10歳になると言う日に、丁稚奉公に出され働き始めた幸之助は、16歳のときそれまで世話になった五代自転車商会を出て大阪電燈株式会社(今の関西電力)に就職します。

そして20歳で19歳の井植むめのと見合い結婚をし、22歳の時独立します。

 この時、幸之助の手元には、退職金と預金をあわせて九十五円強の金しかなかった。型押しの機械一台買っても百円は要る。百円というのは今日の貨幣価値に換算して百万円強だが、その金がないのだ。これで独立とは、彼の上司でなくても心配したに違いなかった。
 まだ最近のベンチャー企業のほうが、この時の幸之助よりよほど真剣に「起業」というものを考えている。
 少なくとも彼らは自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備えをしっかりして起業している。それでも想定外のことが起こり、本当にうまくいく企業は千に三つなのだ。
 幸之助が大阪電燈を辞めたのは二十二歳。大学を卒業したくらいの年齢だ。最近はこれくらいで会社を興している人間はいくらでもいる。
 もちろん情報量の多い現代と手探りで人生を歩んでいかざるを得なかった当時を比べるのが酷なのはわかっている。それでも現代の若き起業家たちと比べて、幸之助の幼さ、稚拙さはいやが上にも目立つ。彼は決して早熟の天才ではなく、努力で成長していく典型的な大器晩成型だったのだ。

22歳で独立といっても、9歳で丁稚奉公に出た幸之助にとって、働き始めて13年後の起業ですから、決して早い独立ではありません。KAIも24歳で働き始めて、37歳で独立。やはり13年後です。

この13年後には何か意味があるように思います。

それは、独立するための精神的な成熟に要する期間ともいえるもので、通常数年もあれば一通りの仕事のやり方を覚えて一人前の仕事ができるようになります。しかしそれでは独立に至る「何か」が足りません。その「何か」とは何か。それは、働くことの意味を知ることです。そしてその働くことの意味とは、仕事を通して人に喜んでもらうことを覚えることです。これを残りの数年間で覚えて、そして起業に至るわけです。

働き始めて一人前に仕事が出来るようになってくると、毎日の仕事が面白くて仕方ありません。しかしこの時期の仕事の喜びは、自分自身の喜びであって、他人の喜びでも何でもありません。もちろんこの段階で独立する人はいくらでもいます。しかし大抵は一度挫折して躓きます。その理由が自分の喜びだけでは起業の条件を満たしてはいないからだと、KAIはいつも考えています。

つまり他人の喜びのために働くことが出来る人間のみが、独立して会社を創業できるのです。

会社とは、その文字通り社会に働きかけて、その見返りの利益を得るものであることを考えると、社会と言う他人の喜びのために働くことができるかどうか、これが独立の条件であることは、自明です。

しかもこれは、上記引用にあるような、

自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備え


といったある種の「計算」とはまったく次元の異なる、より高度な精神性が必要とされるものでもあります。ですから、逆説的ですが、VCが大好きなこの引用のある種の「計算」こそ、創業後の成功にとって一番の障害になると、KAIは思っているのです。

実は『幸之助の幼さ、稚拙さ』こそが、幸之助の成功の真の要因であった。これがKAIの結論であります。 KAI
松下幸之助の言葉(7)


ここに指摘している通りであります。「計算」と「内省」は、根本的に違うのであります。

これにようやく気づいた女性がいるのであります。

会社を真に支えるものは何か

 キャッシュフローの改善策をCFOとして格闘しつつ、かつて経営コンサルタントだった私は、実際の会社経営とは何かを学び続けている。

 ついつい数字やテキストブック的理想論を追い求めてしまいがちだが、実際の経営で機能するものは多くの場合、数字やチャートには出てこない人間くさいところにある。会社の価値の多くも、人としての幸せもそこに存在する。

 財務諸表が見せる数字を磨き上げることは否定しない。銀行やコンサルティング会社のような第三者が弊社を判断するために財務諸表は必要だし、第三者の見方はそれはそれで一つであり甘んじて受け止めよう。

 だが、数字で計り知れない膨大な労力と自己犠牲が会社の存続と成長を支えていることを財務諸表は表さない。

 正直なところ、人がどう思おうが、私たちは最善の努力と最善の判断で事業をここまで維持し拡大してきたことに自信と誇りを持っているし、結果として存在している会社の価値をよく理解している。

 自分勝手に聞こえるだけかもしれないが、こういうことを本当の意味で理解できるのは同じような経験をたどった人のみではないかとつくづく思う。
「借入金を今すぐ全額返済?どうしてそんなことに・・・」キャッシュフロー地獄脱出作戦その3・銀行借り入れと投資家探し


この「内省」があれば、もう何の心配もないのであります。

え?

まだよく理解できないって?

そう言うみなさんの「内省」の手助けのために、もう一つのKAIのエントリーを引用するのであります。

これを、「サービス化経済入門」(中公新書、佐和隆光編、1990、p.16-19)の記述の中から長いですが引用して説明します。

情報産業がサービスを変える

 情報化には「産業の情報化」と「情報の産業化」という両面がある。「産業の情報化」とは、たとえばコンピュータを導入して、企業の事務管理や在庫管理の効率化を図ることである。卸小売業におけるPOS(販売時点情報管理)システムなどが、その代表例として挙げられる。一方、そうした「産業の情報化」にともない、ソフトウェア開発業務、受託計算業務、情報提供サービスなどの情報関連サービス業が、著しい伸びを示している。これが「情報の産業化」といわれる側面である(図1.1)。
 こうした二重の意味での情報化が進めば、低コスト・良質のサービスに対する企業の旺盛な需要が、対事業所サービス業を活性化するのみならず、サービス消費のあり方そのものに本質的な変容を迫るという側面もまた見逃せない。
 財と比較してサービスは、(1)非貯蓄性、(2)無形性、(3)一過性、(4)非可逆性などの基本特性をもっている。サービスを完成品として在庫したり輸送することはできない。したがって消費者がサービスを享受するとき、同時的に提供されなければならない。確かに、在来型のサービスの市場には、時間的かつ空間的に一定の仕切りが設けられているため、サービスの供給者と需要者はきわめて狭い範囲内でしか出会うチャンスがなかった。いわゆる「なじみ関係」にほかならない。行きつけの理髪店が決まっていたり、かかりつけのお医者さんに世話になるというのが、その典型例である。
 ところが情報関連サービスの進展にともない、「サービス」の予約ということが可能になった。サービスの供給者がサービス提供の場所、時間、料金、サービスの質などについての情報を予め登録しておく。需要者のほうは、登録されている多様なメニューのなかから、自分の要求にかなったサービスを探索する。ちょうど小売店で必要な商品を買うようなものである。映画や音楽会のチケット販売システム、電車の指定券販売オンラインシステムなどとして、私たちの身の回りにその例は多い。
 吉川弘之東大教授は、情報によって受け手に間接的効果を引き起こすものをメッセージ型サービス、直接的効果を引き起こすものをマッサージ型サービスとして、サービス業を二分類することを提唱されている。情報産業と呼ばれるものの多くは、メッセージ型サービス業である。メッセージ型サービスの分野では、コンピュータを中心とする情報処理装置、入出力機器、通信網などの情報伝達装置、人工知能ソフトウェアなど、先端技術の導入がきわめて盛んである。
 サービスの予約システムの導入によって、トラベル・エージェンシーやプレイガイドなど、サービスの予約を斡旋するビジネスが繁盛し、場所と時間の制約を越えてサービス市場が発展し、より一層の競争が鼓舞されるであろう。このことが適正な価格水準の維持に貢献するものと期待される。

サービスとモノの関係

 サービス産業の進展とモノの関係について、最後に一言触れておくことにしよう。
 サービスとは、モノの「機能」をフローとして市場で取引する営みにほかならない。いいかえれば、モノ自体ではなく、モノの持つ「機能」を売買の対象とするのがサービス業なのである。耐久消費財というモノは、それ自体、売買の対象とされるのが普通である。しかし物品リース業は、耐久消費財の「機能」を取引の対象としており、その営みはサービス業に分類される。そのほか、タクシーや宅配便を、「輸送」という自動車の「機能」を売るサービス業とみなすことができる。
 逆にいえば、ほとんどのサービス業は、なんらかのモノのサポートがなければ成り立ちえない。また、物財の「機能」の向上や多様化を通じて、サービスの外部化や多様化がもたらされる。結局、モノの「機能」を向上させ多様化させる技術革新が、経済のサービス化を推し進める動因にほかならないのである。
 さらにいえば、モノに埋め込まれ使用時に発現する「機能」の売買が、モノの売買の本質である、というふうにみることができる。たとえば、テレビ受像器というモノを買うのは、テレビというモノ自体を買うというよりは、テレビが受像する映像メッセージを買うというふうに考えるほうが、消費者の行動の本質をより的確にとらえている。つまりいつの時代においても「サービス」は産業の究極の目的であって、サービス提供の媒体としてのモノが時代とともに移り変わってきたにすぎない。
 このようにモノとサービスが表裏一体の関係にあることに着目することにより、サービス経済化の進展を、モノとその生産技術の革新の結果としてとらえる、新しい視点にたどり着くことができるのである。

前半の引用はなくてもいいのですが、今後の議論のためにあえて引用しています。彼の議論は、国家の公の定義であるサービス業について、その統計データをもとにした彼の言うサービス経済化の動向を分析するための議論ですので、例示を含めて少々古臭い内容ですが、今回の私の論の本質を突いています。

つまり、ハードセクターとソフトセクターの境界線は情報技術とは直列的には相関せず、情報技術と言う多層的な産業技術間の相互の干渉すなわちウェイトがどこにあるかこそ、セクターを分ける尺度として採用できると言うことです。なんだかわかりずらい表現になってしまいましたが、要は以下の定義を採用すると言うことです。

■ソフトセクターとはモノの「機能」を主たる目的として売買する事業を指す
■ハードセクターとはモノを売買する事業を指す

次回以降この定義に基づいて、議論します。 KAI
ソフトセクターとは


え?

ますますわからんって?

いいのであります。「内省」とはこう言うものなんであります。

とは言えあきらかに、タイトルの「アプリケーション価値の時代を生きる」のご説明が欠落。と言うことで、こちらは次回と言うことで。 KAI

January 26, 2012

フェデラー優勝、と思いきや・・・

フェデラーが復活、いや、優勝するのであります。

ただいまナダルと対戦中ではありますが、あきらかにフェデラーが豹変した。

フェデラー、全豪オープン優勝おめでとう。 KAI

なんと寝てる間にナダルが逆転。一体何が起こったのでありましょうか?

January 19, 2012

お金とはなんであるのか?−−お金との付き合い方(2)

このお話について、前回こんなふうに書きました。

もしいまあなたの手元に「お金」があるとして、それが自分のお金であるならば、そのお金は「過去」の時間であり、他人のお金であるなら、それは「未来」の時間であります。

その「お金」を使うことは、すなわち自分のお金であれば「過去」の時間を、それが他人のお金なら「未来」の時間を、使うことになるのであります。

そうです。重要なことは、それが「自分」のお金であるか、たとえ親のお金であったとしても自分以外の「人」のお金であるか、天と地ほどに、その意味が違ってくるのであります。(みなさんにとって「自分」のお金のことはさして重要ではありませんので今回は以降省略)
お金とはなんであるのか?−−お金との付き合い方


この「自分」のお金の方の問題について、このKAIの考え方をそのままに実践するような典型的事例を発見しましたので、ご紹介するのであります。

 そして山本さんは25歳になったときから2年ごとに3人の子供を出産。ここで気をつけたことは「先に借金を作ったらいけん!」ということ。例えば学費。入学金などで一度に大金を使うことがあるときでも、手元の生活費を取り崩して支払いしてしまうのは、「先に借金を作ると同じこと」。そうではなく、「前もって何年後にいくら必要か」という教育費計画表を作り、必要な時期までに必要資金をためていった。具体的には子供が小学生のときから大学卒業までの20年間の支出を予測し、収入の3割以上は貯蓄していった。このようにして母がせっせとためた教育費を子供たちもありがたく思い、3人とも国立大学に入学してくれたそうだ。

■買いたいものは目的貯蓄をして1年後に買う

 山本さんは教育費だけでなく、住宅ローンや家電、旅行などの出費に関してもすべて「目的別貯金ノート」を作って資産管理をしている。例えば自動食器洗い器。子育てが大変になってきた20年前、当時は8万円もした食洗器を購入しようと決意。ここですぐに貯金に手を出すのではなく、「1年後に買うために、毎日節約して貯金しよう」と考えた。8万円を365日で割ると219円。そう計算して、コツコツと1年間ためて買った。「友達はキラキラする宝石ばかり買ってたけれど、私の欲しかったものはこれじゃが! ワーキングマザーの証じゃが!」と本当にうれしかったという。
【事例1】子供3人を育てたスゴ腕母さんの目的別貯蓄術、資産は年収の7倍以上「お金がたまる家」の秘密(1/5ページ)

 さらに山本さんの資産管理能力に優れたところは、キャッシュフロー(収入)とストック(資産)を常に意識して生活していることだ。「今月稼いだこのおカネは、何年後の何に使う資金なのか、常に意識して貯蓄してきた。良くないのは今月の収入から今月の出費を出してしまうこと。これではダラダラ出費で、一生お金がたまりません」。まずは貯蓄で家計の資産を増やして、それを基に収入を増やしていくというアプローチだ。
(中略)
 最後に、「なかなかたまらない子育て家庭へのアドバイスは?」と聞くと、「最初はまどろっこしい積立貯蓄だけど、後々威力を発揮する。未来の生活費を今作っているんだと思う気持ちで続けてみてはどうでしょう」という。
(2/5ページ)


山本さんが、貯金した8万円で食洗器を買ったとき、山本さんにとってこの8万円は、「8万円を365日で割ると219円」と言う形での、1年間と言う「過去」の時間に相当するものとなっているのであります。

そして、彼女が、資産を上手に形成することができるのも、過去の時間を「目的別積立貯蓄」と言う「お金」の形に変えて「蓄積」しているからに他なりません。

確かに山本さんが言うように、今月の収入をそのまま今月の出費に回してしまうと、「蓄積」される過去の時間はいつまでたってもゼロのままであります。

考えてみれば「時間」と言うものは、そのままでは「蓄積」することも「貸し借り」することもできません。しかし、これを山本さんのようにうまく「貯蓄」と言う「お金」の形に変えることによって、「蓄積」や人に貸したり預けたりすることが可能になるのであります。

もちろんこれが「借金」であれば、「未来」の時間の「先喰い」となるのは、前回のお話の通りであります。

なかなかお金が貯まらないKAIも、なんだかお金を貯めることができそうな気分になってきたのであります(笑)。 KAI

January 18, 2012

知の爆発−−直感を疎かにしてはいけない

いきなり、1日で1カ月分のアクセスが集中したのであります。きっかけはこれ。

 「小澤の不等式」。数学者の小澤正直・名古屋大学教授が2003年に提唱した,ハイゼンベルクの不確定性原理を修正する式です。小澤教授は30年近くにわたって「ハイゼンベルクの不確定性原理を破る測定は可能」と主張し続けてきましたが,このたびついに,ウィーン工科大学の長谷川祐司准教授のグループによる実験で実証されました。15日(英国時間)付のNature Physics電子版に掲載されます。
ハイゼンベルクの不確定性原理を破った! 小澤の不等式を実験実証


最初はGoogleからだけかとおもったら、なんとWikipediaにリンクがはってありました。恐れ入りましたであります。

それにしても、昨年から続くこの流れは、いったいなにを示しているのでありましょうか。

考え続けることの大切さについて

考え続けることの大切さについて(2)

加速膨張宇宙


おまけに、このお話も忘れるわけにはいきません。

 宇宙が3次元で誕生する様子を高エネルギー加速器研究機構と静岡大などの研究チームがシミュレーションで再現することに成功した。宇宙空間を「9次元」と考える最先端理論を使って、現実の3次元の世界が生まれる瞬間を初めてとらえた。宇宙論の発展につながる成果で、米物理学会誌電子版に来年1月4日に掲載される。

 研究チームは、物質を構成する最小単位の素粒子は丸い粒ではなく、ひも状のものだと考える「超ひも理論」に基づき、約137億年前の宇宙誕生の様子を数値計算した。

 超ひも理論はノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏らが約40年前に提唱した「ひも理論」を発展させたもので、物質や宇宙の根源的な謎を説明する理論として広く支持されている。しかし超ひも理論は宇宙を「9次元の空間と時間」で定義しており、現実の3次元の空間とどう結びつけるかが長年の課題だった。

 研究チームは、時間の経過に伴い宇宙空間がどう変化するかを探る新手法を開発し、スーパーコンピューターで解析。その結果、初期は非常に小さい9次元の空間だったが、あるとき3つの方向だけが自然に急拡大し、膨張し始めることを発見した。これが3次元の宇宙誕生の瞬間という。

 残る6次元は現在も小さい状態のままで収まっており、人間は感じることさえできない。同機構の西村淳准教授は「超ひも理論を現実の空間と結びつけられたことで、宇宙の始まりから終わりまでの理解に弾みがつく」と話している。
3次元の宇宙誕生を再現 高エネ研などが成功


こういった研究や発見の「ラッシュ」が、近年のコンピュータや観測装置といった急速に発展する技術に支えられているのは間違いないのでありますが、これとはまったく別の理由があるのであります。

それは、今の今活躍する物理学者や数学者において、彼らの世代の大半が「超ひも理論」を理解するための「レディネス」と言う発達段階に達したと言うことではないかと、KAIは考えているのであります。

相対性理論なり量子力学なりといった新しい「概念」が誕生するとき、最初からこの「概念」の意味を正しく理解できるのは、きわめて限られたごく少数の人間であるのであります。

たとえば、さきほどの「小澤の不等式」に出てくる「ハイゼンベルクの不確定性原理」にしても、これを提唱した当の本人であるハイゼンベルクでさえこの原理の意味を正しくは理解していなかったのであります。

 しかし、ここで不確定性原理の解釈を巡ってブレが生じます。
 ハイゼンベルクは、不正確さの関係式を導く際に、電子にガンマ線を照射して測定を行うという思考実験を取り上げました。この思考実験によると、電子の位置を測定しようとしても、ガンマ線に拡がりがあるために誤差が避けられないし、測定精度を上げようとしてガンマ線の波長を短くすると、大きな運動量を持つ光子が電子を散乱するために、今度は運動量に擾乱が生じてしまいます。この誤差Δq と擾乱Δp の間に ΔqΔp〜h という関係式が成り立つというのがハイゼンベルクの主張でした。ところが、論文の出版前に原稿を読んだボーアは、この解釈に疑義を呈しました。ハイゼンベルクの解釈は、人間の測定操作が状態を変えてしまうために正確な値が知り得ないというものなので、人間にはわからなくても粒子の位置と運動量そのものは正確に定まっていると考えることも可能です。これに対して、ボーアは、電子は波動性を持っているために、測定をするかどうかにかかわらず、位置と運動量は原理的に確定していないと喝破したのでした。物理学的に正当な不確定性原理の解釈は、ボーアの議論に基づくものです。
 ハイゼンベルクは、それまで「電子は波動関数で表される波である」とするシュレディンガーの説を論破すべく立論を重ねていたので、電子の波動性を強調する立場には納得がいかなかったようです。出版された論文には末尾にボーアの異論が付記されたものの、1930年に著された非専門家向けの『量子論の物理的基礎(THE PHYSICAL PRINCIPLES OF THE QUANTUM THEORY)』では、再びガンマ線の思考実験に基づく不正確さの説明を持ち出しています。ハイゼンベルク本人がなかなか自分の解釈を改めようとしなかった結果、不確定性原理に関して、専門書にはケナードやロバートソン流の数学的に厳密な導出法が記される一方で、入門書や啓蒙書には誤差と擾乱に基づくハイゼンベルク流の杜撰な議論がまかり通るというブレが生まれたのです。
 こうしたブレがその後半世紀以上も続いたのには、いくつか理由があります。測定における誤差や擾乱は、標準偏差と比べて明確に定義することが難しく、これらの関係式を求めるのはかなり面倒な作業になります。20世紀半ば過ぎまで不正確さの量子論的な限界に迫るような実験はほとんど行われていなかったので、労多くして功少ない課題に取り組もうとする人はなかなか現れませんでした。多くの物理学者は、さしたる根拠のないまま、測定誤差は標準偏差と同程度以上だと漠然と思っていたようです(小澤の議論を知るまで私もそうでした)。ところが、1980年代に入ると、レーザー光の同期や重力波の検出などに際して、量子限界が超えられるかどうかが現実的な問題として浮上してきました。ここで、誤差と擾乱に関する小澤の不等式が登場することになった訳です。
科学と技術の諸相、吉田伸夫


いまではごくごく普通の一般人でさえ「量子」なんて言葉を平気で口にしますが、100年前、「量子」なるものを「理解」することは、物理学の研究者でさえ困難を極めたと言うことを、このお話は示しているのであります。

しかし、いま、では「量子」って何?

と、あらためてこう訊かれても、なかなかうまく説明できない。

説明できないけれども、なんとなくわかった気でいるのであります。これが研究者であれば、一般人にも簡単に説明でき、研究の道具として理論を直観的に駆使できるようになったと言うのが、100年後のいまであります。

そして「超ひも理論」であります。

この理論は、このブログでも取り上げた2008年ノーベル物理学賞受賞の南部陽一郎の、1960年代に思いついたアイデアをもとに、現在まで半世紀にわたって大きく発展を遂げてきたものであります。

この「ひも」と言う概念が直観的にわかりやすいこともあって一見とっつきやすそうでいて、いざ取り組み始めると、たちまち10次元、11次元といったトポロジー空間のお話になって、ではこれを数理的にどう処理すればいいか、皆目見当がつかない、そう言うとんでもない「理論」であったのであります。

それがいまでは、若い研究者の間で、苦も無く数理計算ができるようになったと言うのが、さきほどの3次元宇宙誕生のシミュレーションの研究と言うわけであります。

KEK理論系グループでは、その後も行列模型に基づく超弦理論の非摂動的研究が脈々と続けられており、国内外から多くのポスドクやビジターが集まって来ます。最近は特に、非可換幾何に関する研究や、数値シミュレーションや解析的な手法を用いた行列模型のダイナミクスの研究が精力的に行われております。例えば、IKKT模型においては時空が行列の固有値分布として力学的な対象として取り扱われておりますが、そのような量を調べる事により、10次元の時空で定式化されたタイプIIB超弦理論から、我々の住む4次元の時空が力学的に生成する可能性が明らかにされつつあります。
行列模型による超弦理論の非摂動的研究、高エネルギー加速器研究機構


もちろん、「苦も無く」なんて書いてはいますが、そんななまやさしいものではありません。なまやさしいものではないけれど、近年のコンピュータグラフィックスの進化のおかげか、高次元のトポロジー空間の挙動を直観的に理解することが、きわめて容易になっているのも事実であります。

この、目的とする問題を「直観的」に理解することの重要性は、いまさらご説明するまでもないのであります。

ものごとを「直観的」に理解することで、その意味が理解できるようになるのであります。それによって、より複雑な問題を理解することができるようになっていく。この繰り返しこそ、「知」の探求であります。長くなりましたので、本日はここまで。 KAI

January 16, 2012

お金とはなんであるのか?−−お金との付き合い方

前回は、成人したみなさんにとって、「仕事」がいかに大切なものかお話したのでありますが、今回は「お金」の大切さのお話であります。

そもそも、みなさんが成人するまでに受ける教育環境からして、この「お金」の大切さを理解し、これを生徒に伝えることのできる教師は皆無であると、KAIは断言してもいいと思うのであります。その理由は、また別の機会にご説明するとして、そんな環境で育ったみなさんは、よほど立派な家庭教育なり、個人の特殊な体験なりが、ない限り、「お金」とはなんであるのか、これを理解しないままみなさん「成人式」を迎えておられるのであります。

そして、いきなり結論でありますが、お話をわかりやすくするために、お金とは「時間」であると申し上げるのであります。

「タイムイズマネー」の逆。「マネーイズタイム」であります。

もちろん、1日24時間、365日と言う時間そのものではありません。

しかし、この時間とお金は強く結びついているのであります。

ご説明しましょう。

まず「お金」を稼ぐには、「時間」が必要であります。

もしいまあなたの手元に「お金」があるとして、それが自分のお金であるならば、そのお金は「過去」の時間であり、他人のお金であるなら、それは「未来」の時間であります。

その「お金」を使うことは、すなわち自分のお金であれば「過去」の時間を、それが他人のお金なら「未来」の時間を、使うことになるのであります。

そうです。重要なことは、それが「自分」のお金であるか、たとえ親のお金であったとしても自分以外の「人」のお金であるか、天と地ほどに、その意味が違ってくるのであります。(みなさんにとって「自分」のお金のことはさして重要ではありませんので今回は以降省略)

人にとって「未来」の時間とは、有限であります。もっと具体的に言えば、短ければ1カ月、長くてもほんの数年であります。

つまりは、「他人」のお金を使うと言うこととは、この「自分」の「未来」と言う時間の「先喰い」なんであります。

ここで、成人したみなさんがこれから必ず使うことになる(すでに親の家族カードで持っているかもしれませんが)「カード」について、お話しするのであります。

「カード」とは、要するに「借金」であります。つまり、「他人」のお金なんであります。

先ほどのお話を踏まえて申し上げるならば、みなさんが「カード」を使うと言うことは、すなわちしらずしらずのうちに自分自身の「未来」の時間を消費していると同じことになるのであります。

これになんの意味があるのかと、怪訝に思われるかもしれないのでありますが、きわめて重要なことなんであります。

「カード」なるものはそれを使えば使うほど、実は自分の「未来」の時間のなかで、「真に」自由に使える時間がどんどん減っていくのであります。つまりは、「カード」で使った「お金」で、自分の自由な時間が置き換えられると言うことなんであります。

もっと言えば、たとえば「カード」と言うお金で「車」を買ったとしましょう。これはあなたの「未来」の時間が、目の前にある「車」に置き換えられたと言うことであります。(わかりにくければ何百万の返済のために多大なる労力と言う時間が犠牲になると考えればいいです。)

実は、このお話は、個人だけではありません。会社もまた同じなんであります。

ただ会社の、「他人」のお金には、借金である「融資」だけではなく「出資」と言うかたちのお金があるのであります。

そして世の中、あまねく「出資」と言うもののない「会社」は存在しないのであります。もちろんそれがすべて「自分」のお金である会社があるかもしれませんが、そんな会社は「公」の会社でもなんでもないのでありますから今回は論外とするのであります。

その会社の「お金」の使い方についてであります。

 いまがいくら景気の曲がり角に来て、思ったような売上が上がらなくなってきたんだとしても、より合理的な経営、より安全な業務工程、適切なスタッフィング、外注管理、知財やバックオフィスといった目の配り方をしていれば、多少業績が下回ったからと言って株主は何も言いません。私含め、業績が計画通りにいかないからマジ切れするというわけでもない。

 ただ、いっときの好景気に浮かれてソーシャルが凄いの拡大するの海外狙うの上場して何千億の時価総額にするのといった、夢は大事にするべきだけど、夢が大きいからといって、小さな金を粗末に使う経営は、それがベンチャーだろうが老舗だろうが私は許せないんです。たとえ、それが自動車通勤だ、取引先との宴会は会社経費だといったレベルであったとしても、あるいは個室や秘書を抱えて手放したくないと思ったとしても、自らを省みない経営に埋没して、自己満足のようなビジョンを披露して業績不調を煙に巻くような真似はよろしくないです。

 今期は地震に見舞われたので社会不安が生じて業績の伸びに悪い影響が出ました、まあそれはそうなのでしょう。でも、その社会不安に見舞われた日本人に対して、市場やお客様に対して、お前の会社はどういうミッションを作り、曇った表情の人々に少しでも笑顔を与えようとしたのか、その反響を糧に、どういうビジネスを提供していこうと考えているのか、そのうえで、遅れた上場計画をどうリスケし売上の伸び鈍化をリカバーするつもりなのか、そういう話を株主は聴きたいわけですね。

 株主だから偉いとかってんじゃなくて、私も企業を経営しているし、社員を養っている経営者だからこそ感じ取るべき機微のようなものを伝えられない人に、志とか語って欲しくないし、上滑りするトレンドを熱弁されても困る、ということです。そうでないと、社員もついていけないし、自信を持って製品やサービスを作ったり売ったりできないし、会社や業務に誇りも持てないでしょう。

 起業の敷居が下がったのは望ましいことだし、起業を支えるサービスが充実したのは日本経済にとってとてもプラスであるのは間違いありません。そのうえで、そういう起業文化の興隆や投資環境の充実はある一定線の善意で支えられており、それによっかかり放漫経営をして経営状態が悪化しても何ら恥じない経営者は、早めに退いたほうがいいと思います。

 もちろん、一番損をするのはその経営者がそういう人間性だったということを見抜けなかった株主なんですけどね。

 というわけで、今年もいきなり授業料をたくさん支払っております。ありゃあエクジットできねえな。あーあ。
「景気が悪くなってきたので業績が悪化しました」とかいう経営者がダルい


あまり他人のことをとやかく言える立場ではないのでありますが、この「出資者」の嘆きが理解できない経営者は、端から経営者失格であります。

しかしなぜこの経営者は、この出資者の嘆きが理解できないのか。

それを説明するのが「マネーイズタイム」、「未来の時間」であります。

会社の「お金」とは、そのお金で「未来の時間」を買っているのであります。

それが「自動車通勤だ、取引先との宴会は会社経費だといったレベルであったとしても、あるいは個室や秘書」に置き換えられることだと考えると、いかにもそれが「浪費」であり、「売上」すなわち会社の「成長」にまったくもって寄与するものではないと言うことが、誰が考えてもわかることなんであります。

さて、この会社にとって、「未来の時間」の「長さ」はきわめて重要な指針となるのであります。

通常、お店を開店して、うまくいかないでつぶれるまでに3カ月と言われるのでありますが、これが「未来の時間」であります。

ここでこんなレポートをご紹介するのであります。(ある投資家による調査資料から引用しておりますが公開されているものではありませんので要約です)

米国のエンジェル投資について調べたWillamette大学のRobert Wiltbank教授の研究("Returns to Angel Investors in Group" 2007)。539人のエンジェル投資家を対象とし、1137件のイグジットについて調査。

投資した案件の5割は、イグジットの時点で投資した額を回収できていない。
3分の1は、まったくの損失に終わっている。
全体の7%の案件が回収額が投資した金額の10倍以上というハイ・リターンを実現している。
このハイ・リターンの分があるため、平均すると、回収金額は投資金額の2.6倍になっている。

このデータから読みとれることは、
第1に、イグジットの時期が遅い案件ほどリターンが大きい傾向がある。
第2に、投資家が自らの知識、経験が深い分野の企業に投資した場合に成果が大きい。
第3に、投資先への監督、助言、指導など、関わりの度合いが高いほど、投資に成功する。

このWiltbankのデータをもとにして、Bill Payneは、エンジェル投資家が10の企業に10万ドルずつ投資した場合の一般的な推移をつぎのように描いている。
・3年後には、5つの企業が廃業し、そのうち3社は完全な損失、2社は投資額の半分を回収。
・4年後には、4社の株式を売却し、それぞれ10万ドル、15万ドル、20万ドル、30万ドルを回収。
・6年後には、残った1社が成功し、投資金額の20倍の200万ドルを回収。

こうしたデータから得られる示唆として、
エンジェル投資家がよい成果をおさめるための投資の仕方として重要な点のひとつは、投資先の分散で、10社以上に投資すること。できれば15社への投資が望ましい。
ハイ・リターンを得るには、6年かそれ以上の時間が必要。
(東京エンジェルズ12年史、需要研究所、山本眞人・永野聖美、2012/1/20、p.37-38から要約)


この最後の「6年かそれ以上の時間」こそ、その「投資」と言うお金に対応する「未来の時間」と言えるのであります。

経営者のみなさまや、あるいは、これから起業を夢見る若いみなさんには、この「未来の時間」と言う限られた時間のなかで、いかにして売上を上げ、会社を成長へと導いていくか、その手腕が問われていると、お考えいただきたいのであります。

そして、投資家のみなさんにとって、この「未来の時間」と言う「長さ」もまた必要不可欠であることも、重々ご理解願いたいのであります。(しかし長すぎるとのご批判は、甘受) KAI

January 10, 2012

一番大切なものは「家族」なのか?

なるほど震災のあとであるからして、致し方ない結果であります。

 アンケートは8日、被災3県各2カ所の成人式会場などで面接方式で行った。有効回答数は110(男55、女55)。

 設問は、(1)震災後、改めて何が一番大切だと感じたか(2)これからも地元で働き、また暮らしていきたいと思うか(3)震災からの復興に自分も何か役に立ちたいと思うか−の3問。理由を書く自由記入欄も設けた。

 (1)については家族、友人、仕事などの選択肢を示したが、「どれも大切」とする新成人もおり、複数回答の数字が含まれている。

 集計の結果、(1)は「家族」との回答がもっとも多く、83人に上った。当たり前のように感じていた家族の大切さに気づいたという若者が多く、自由記入欄にも「最初に心配したのは家族だった」といった回答が目立った。次は「友人・恋人」と「地元(地域社会)」が多く、それぞれ20人と16人だった。
被災3県アンケート 一番大切なのは「家族」


しかし、KAIなら今回一番人気のなかった「仕事」と答えるしか他に選択肢はないのであります。

こんなことを言うと、決まって訊かれるのが、これ。

家族のために働くのではないのですか?


そんな人々にいってあげたい。震災後家族が一番って、これって「家族が一番頼りになる」ってことではありませんか?

そもそもにおいて、人にとっての一番には、まったくもって議論の余地はないのであります。それは「家族」を「命」に置き換えれば、これはより鮮明になるのであります。

すなわち、一番大切なものは、他のなんでもない「命」ってこと。

で、誰の「命」?

これが「自分」の命と答えた瞬間、「家族が一番頼りになる」といってるのも同然なんであります。

そうではなく、「家族」の命が一番大切と答えてはじめて、この議論の本質にせまることができるのであります。

つまり、「家族」の命のために「自分」の命を懸けるってことであります。「献身」であります。

実はこれがより明確なのが、一番大切なものは「仕事」であるとの答えなんであります。

「仕事」とは、自分のためではなく「他人」、すなわち「社会」にむかって「与える」ことを「仕事」と言うのであります。

そうです。勘のいい人はもうおわかりでしょう。

人にとって一番大切なもの。それは、「家族」でも「友人」でも「地域社会」でも、もちろん「仕事」でも、なんでもいいのであります。ただひとつ「与える」ものと言う条件さえついていれば。

かように考えれば、最初からこんな「条件」の必要のない選択肢である「仕事」こそ、「正解」と言えるのであります。

そしてこのお話は、そのまま前回の「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る」のテーマと直接かぶることがおわかりいただけるのであります。

先日学生時代の硬式庭球部の同期と新年会をしたのであります。みな工学部ゆえか技術畑を歩んでそろそろ定年。こどもたちはすっかり巣立って妻と二人だけの生活。

ではそのあと何するの?ノーアイデアとか。

やっぱり、「家族」も大事だけれども、一生続けられる「仕事」しかないのであります。

成人したみなさんにとって、これから40年か50年先のお話なんかまったくもって想像の埒外ではありますでしょうが、人生にとって最後に残るのは「仕事」であり、一生の「仕事」を得ることこそが人生の「宝」になることを、ほんのすこしだけでも心の片隅においていただければ、そんなあなたの一生は、きっとすばらしいものになると、KAIは思うのであります。 KAI

January 03, 2012

手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る

あたらしい年を迎え、等しくまたひとつ歳を重ねるのであります。そんな年男KAIの昇龍運を、本年はみなさまにおおくりするのであります。

その第一弾が、この言葉であります。これは、このKAI_REPORTの先日のエントリー「ジョブズはなぜ人の胸を打つのか?」の中で取り上げた野口芳宏氏の著書の中の一節であります。

「利他の心」こそが子どもを幸せにする

著者は、国語の「授業名人」と呼ばれ、50年以上教育現場で仕事を続ける、教育界のカリスマにして、プロ中のプロ。74歳の現在も大学の教壇に立ち、全国の研究会、講演会に引っぱりだこです。
本書は、「不断に学びつつ幸福に生きるために、いちばん大切なものは何か」、「人を教える者に必須の条件とは何か」等、教育と生涯学習の根本・本質・原点を真正面から問い直す、著者渾身の一冊。
「正論を自信を持って断言できる」大人が絶滅寸前の昨今、著者が堂々と展開する背筋の伸びた正論には、読んでいて快さを感じます。
中でも、「良き人生観とは、利他の心に尽きる」と明確に定義し、「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る」と語る「よき人生観の確立を」の章は圧巻。長い人生経験に基づいた珠玉の言葉の数々は、我々が自らの足元を見つめなおすべきこの世相の中でこそ、いっそう輝くものでしょう。
利他の教育実践哲学、小学館、野口芳宏、2010/7/20


実は、このエントリーをここにアップして以来、この言葉をテーマにあれこれレポートしたいと思いながら、なかなかこれが筆がすすまないままになっていたのでありますが、この記事を読んでピンときたのであります。

これからは、会社という組織が逆に膨れていくか、どんどん崩壊していくか、その両方がこれからどんどんこの今後の50年間で起こってきます。それで重要になってくるのが、これは日本経済新聞に載せた記事なんですけれども、会社と個人、あるいは自分のキャリア、仕事と個人というバランスシートがあって、日本の特に若い人に強く言いたいんですけれども、勘違いしているのは、若い人が特に勘違いしているのは、自分は会社とか仕事から得るものだけ得て、一番得た時点で次のステップに移っていくのがキャリアアップである、と。実はこれ大きい間違いでして、自分が与えたものと相手からいただいたものの中で、相手にあげた方の大きい場合に、次の仕事につながります。これはアメリカとかヨーロッパの契約社会で非常に重要な考え方で、得たものよりも与えたものの方が多いことが大切なんです。それでこの人間は優秀であるという名声が広がって、きちんとしたお給料なり、それに対する対価をいただいて、次の仕事をもらうという仕組みを作るのが、実はプロとして非常に大切なこと。なんか高校の話みたいですみません。プロの皆さんを前にして。ただ、非常にその基礎が日本に帰ってきて成り立っていないのでびっくりしました。
いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロ、デザイナー奥山清行による「ムーンショット」デザイン幸福論


この記事は、たまたま読んだ佐別当隆志さんのブログの「失敗体験を語れるようになること」の中で教えていただいたものでありますが、なるほどこれはウチダ先生がよく言う「オーバーアチーブメント」問題であります。

この問題に関し、KAIのサラリーマン時代を含めた長い経験から言えることがあるのであります。

それは、「オーバーアチーブメント」の人間はその業績に比して給料への文句をまったくと言っていいほど聞かないのに、「アンダーアチーブメント」の人間は100%、その給料の多寡に拘るのであります。いわゆる「金にうるさい」のであります。

そのわけは、なんとなく理解したつもりでいたのでありますが、先ほどの奥山清行氏の発言からこれがより鮮明になったのであります。

すなわち、「オーバーアチーブメント」人間にとってその給料を増やすことは、与えたものから得たものの差である「利益」を減らすことになり、自分の次の仕事にとって何のメリットもないと言うことであります。これに対して「アンダーアチーブメント」は、すでにあるのは「利益」ではなく「損失」であると言うことであります。つまり彼らが給料と言う「得るもの」に拘るのは、端からこの「利益」と言う「のりしろ」を持っていないためだったのであります。

ただここで重要なことは、「得るもの」とは決して「給料」などと言う金銭的価値ではなく、それとまったく異なることを問題にしていると言うことであります。

「得るもの」としての「給料」の価値に対応する「与えたもの」の価値とは、通常「労働」と言う時間的定量的価値に他なりません。

しかし、今回とりあげた表題の言葉も、奥山清行氏の講演も、決して給料の問題ではないことは自明であります。

そうではなく、「得るもの」も「与えるもの」も、金銭的価値とはまったく次元の異なる価値、社会的有用性価値すなわち「アプリケーション価値」であるのであります。(アプリケーション価値については「Fusion-ioが考えるイノベーションはとってもシンプルかつプリンシプル」を参照)

すなわち、人と言うものは、仕事においても教育においても、その社会的有用性の方法とその意味をその活動を通して「学び」、「授け」、これを「実践する」ことをその目的とするのであります。

この意味において、人が「手に入れたもの」とは、その人に「与えること」の意味である社会的有用性をすべて失うのはもっともであり、これを人に「与えたもの」である社会的有用性、すなわちあなたの「信頼」のみが残ることになるのであります。

これは決して、貨幣価値のようなモノ対モノの方向性のない価値観では起こりえないものであり、人間対人間と言う方向性のある価値観である「アプリケーション価値」の時代になって初めて人の生き方そのものを、決定的に変えていく「考え方」であり「哲学」なんであります。

そして、ここで言う「方向性」のあるなしこそ、きわめて重要となるのでありますが、お話がややこしくなってきましたので、ひとまずこれで今年はよろしくお願いするのであります。 KAI

December 28, 2011

いよいよ「破綻請負人」が本領発揮するときがきた

KAIは昨年の9月、ここでこんなことを書いたのであります。

それにしても、この話で何が問題かと言えば、官僚。決して「責任を取らなくていい」からこんなことができる。

モデルを恣意的に操作することは、誰でも簡単にできる。しかし、この結果に責任を伴うから、普通の人間はやらないし、やれない。

ところが、官僚にはこの責任を取らせるかっこうの存在がいる。閣僚であります。今回は、首相ですからもうこれは完璧なんであります。もちろん、官僚自身、これっぽっちもモデルなんか信用してはいないのであります。国家財政の危機に取り組んだと言うアリバイ作りさえ完璧なら、結果はもうどうでもよろしい。

なるほど、こう考えると、官僚に責任を取らせる唯一の方法、日本国の破綻。もうこれしかないのであります。

こう考えると、やっと民主党と言う政党の役割が見えてきた。日本と言う国の「破綻請負人」であります。官僚主権から国民主権への「民主的」移譲方法は、もはやこれしか残されてはいないのであります。

これなら、なんでこんなぼろぼろの民主党を国民が支持し続けるのか、まったくもって理解、納得できるのであります。
破綻請負人と言う因果と週末テニス


意外にも早く、来年2012年、これが実現するようであります。

 問題は日本の財政にあります。日本の税収は約41兆円ですが、そのうち半分以上の21兆5000億円ほどを国債関連の支出に充てている。中でも大きいのが国債の利子の支払いで、これが10兆円。つまりは税収の4分の1ほどを国債の利子の支払いに使っている。

 この「税収のうち国債関連の支出に使っている割合」を世界各国とくらべると、日本はいま「国債危機」が問題視されている欧州のどの国よりも大きい。つまり日本政府の財政状況は世界で最悪なのです。

 想像してみてください。いま日本国債の金利は世界で見ても非常に低いところに落ち着いていますが、もし上がったらどうなるか。

 実は金利が1%上がるごとに、新たに10兆5000億円ほどの利子を支払わなくてはいけなくなるんです。そして2%上がると、たったの2%だが、それだけで利子(など国債関連)の支払いにかけるおカネが税収を超えてしまう。わかりやすくいえば、金利が2%上がると日本は倒産するんですよ。

 そして、この負債を支払えなくなる状況が、いまから12ヵ月以内に起きると私は考えています。
「日本は倒産する。国債を買うのはバカだ」『ヘイマン・アドバイザーズ』カイル・バス氏米国ヘッジファンドマネージャーの告白


もちろんこの事態に、官僚の口から出てくる言葉が、これ。

「想定外」


しかし、今回は官僚に逃げ道はないのであります。

官僚の雇い主である国家が破綻するのであります。

いやしかし、デフォルトに至るにしろ一気に破綻するわけではないと、ふつうの人は考えているのであります。その前にギリシャやイタリアのようにいろいろと手を打つはずだと。

ところがどっこい、ギリシャやイタリアと違って、日本には打つ手はまったくもって残されてはいないのであります。まさに文字通り「お手上げ」なんであります。

え?なんで?

その答えを、カイル・バス氏が教えてくれている。

 実は金利が1%上がるごとに、新たに10兆5000億円ほどの利子を支払わなくてはいけなくなるんです。そして2%上がると、たったの2%だが、それだけで利子(など国債関連)の支払いにかけるおカネが税収を超えてしまう。


金利の支払いだけで税収を超えてしまう。

この意味は、家計で考えれば一目瞭然。月収40万円のサラリーマン。給料が振り込まれた瞬間、一切が銀行の借入の返済と利息で引き落とされる。食費も水道光熱費も交通費も、使えるお金は、ゼロ。

この状態で、新たに借入を増やす(国債を発行する)ことも、給料を増額(増税)することもできないし、たとえ万が一それができたとして、出費を半減したとしても増え続ける金利には焼け石に水。

破産(デフォルト)しか道はないのであります。

しかし、この問題に、強い既視感を感じるのは、決してKAI一人ではないはず。

そうです。つい先日公表された、あの福島原発事故調査委員会の中間報告書であります。

なぜシビアアクシデントに対して「思考停止」であったのか。

国家破綻と言うシビアアクシデントなど、絶対に起こらない。と誰もがかんがえているのも原発事故と一緒。でも、起こってしまったらどうするのか。

絶対安全神話ならぬ絶対「無謬」神話にとりつかれた官僚にとって、あってはならないことであり、よって思考に及ぶ必要のないことなんでありますが、現実に起こってしまったら、どうするか。

国家再建であります。

  • 民主党は責任を取り、内閣総辞職、衆議院解散総選挙のうえ、勝った政党を中心に挙国一致内閣を組閣。
  • もはや、当面一切の借金は不可能であるからして、税収のみによる国家予算の組みなおし。
  • 国家管財人組織を作って、国債関係負債処理を国家予算から切り離し。
  • 売却可能国家資産をすべて国債関係債権者への支払にあてる(土地の権利を債券化し大半の国有地を私有地化)。
  • それでも残る債務は、一切債権放棄とする。この割合がどれくらいになるかで、円安およびインフレがどの程度まで進むか見通しが付く。
  • 臨時国家予算に基づき、国家公務員の給与半減(人数30%カット、給与30%カット)。
  • 併行して民間金融機関への緊急支援対策。民間法人救済対策。
  • その他諸々。

はたしてこれがうまくいくのか。

これを考えるのが、すなわち「シビアアクシデント対策」であります。

ことが起こってからでは、もうどうにもこうにもならないことは、目の前の「フクシマ」でいやと言うほど「経験」したのではありませんか?え?日本国民のみなさん? KAI

December 25, 2011

食を信じる力−−食とは何か?

私たちはいったいなにを食すればいいのか?

これは、このエントリーを書きかけた時の最初のタイトルであります。

あっちを見ても、こっちをむいても、なにを食べてはいけない、これもたべてはいけないばかりで、もう私たちはいったいなにを食べればいいのか。

例えば・・・

といろいろお話を書き綴っていたところで、こんな記事をみつけたのであります。

走れない理由は鉄分不足だった
 ボランティアの一環として日本赤十字社の献血バスを呼んで選手に献血させる。その代わりに血液データをもらう。――さしたる強化費用がかかるわけではありません。

 「健康管理や体のケアを選手は理屈ではわかっているけれど、なかなか実行に移してくれません。自分のこととして危機感を持っていないように見えます。でもそれが数字で現われれば、彼らは変わると思います」

 岩出監督は私たちの提案を聞き入れてくれました。

 「えーっ、これ、本当?」

 初めての血液検査データが出た日。結果シートを手にしたスタッフ全員が驚きの声を上げたのを、まるで昨日のことのように覚えています。選手の中に重篤な貧血が見つかったから。

 その選手は以前まで俊足で鳴らしていたのに、ここ数週間、驚くほど心肺機能が落ちていました。

 「やる気あんのか」「根性が足らない」

 コーチ陣から度重なる指導を受けていた選手の走れない原因は、根性がないからではなく、実は存分に走るための血液、つまり体が準備できていなかったことにあった――これが事実だったわけです。

 その選手はもともと生活面で不摂生を指摘され、煙草も吸っていたひとり。血液検査で指摘された「貧血」という衝撃的な現実を目の当たりにし、心を入れ替えることを決意。改善のために生活面だけでなく「体を作る食」にも目を向け始めたのです。

 ここが、私やチームにとって大きなターニングポイントとなりました。

 「質の高い練習を確実にこなす方法」「それに見合った体をいかに準備するか」「食でどう取り組むべきか」。――この時点から、チーム全体にそのような意識が浸透していきました。
箱根駅伝・大学ラグビー「勝利」を導く「勝てる栄養管理」 ――東洋大駅伝チーム、帝京大ラグビー部を「変えた」手法を全部書く


「成功の可視化」が食を信じる力につながる
 アスリートの栄養管理は、ハードな練習で消費するエネルギーを正しい食事内容で補うコンディション管理と、「なりたい体」に近づくための積極的な栄養補給がカギになります。

 そのような「食トレ」(スポーツ現場の栄養管理)は、ウエイトトレーニングや技術練習と違い、すぐには結果が現れません。日の丸を背負うクラスのアスリートでさえ、一部は「食事なんて成績と無関係です」なんて言うくらい。

 この取り組みを地道に続けた結果、帝京大は徐々に選手の体やコンディションに変化が起き、けが人が大幅に減少しました。ひとりが変わると、他の選手は「成功の可視化」が可能。

 「やれば変われるんだ」「食に対する意識を変えれば強くなれる」と、食の力を信じるようになる。――食への取り組みが、「チーム文化」として根付いた瞬間です。

 私が3年前からサポートしている東洋大駅伝チームも、当然ですが、やはり一筋縄では行きません。選手たちとのさまざまな葛藤を経た後に、帝京大同様、食への取り組みを定着させたわけです。

 3年前に就任した酒井俊幸監督が栄養管理を積極的に取り入れてから、けが人が前年度の半分に減少しました。「食べるから走れるのではない。走るための練習ができるようになる」――監督は看破しています。

 つまり、東洋大も帝京大も、ハードな練習に耐えうる体を、食の力で作っているわけです。
箱根駅伝・大学ラグビー「勝利」を導く「勝てる栄養管理」 ――東洋大駅伝チーム、帝京大ラグビー部を「変えた」手法を全部書く


「食を信じる力」

良い言葉ではありませんか。これですよ。これ。いま私たち現代人に必要なもの。

馬刺しはいかん、レバ刺しもだめ。粉ミルクは大丈夫か。いまの私たちの食生活の根本にある問題は、食への不信感であります。

つい先日もここでとりあげたのが、このお話であります。

「主食をやめると健康になる」は本当か?


さらに、こんなお話もあるんであります。

今年の5月頃に糖尿病と診断されて6月より治療を始め、2ヶ月ほど治療薬を飲み、結果、身体の異常なダルさは取れましたが、それでも10年後に合併症が起きる率が先進国一で、産業医は言葉を濁す、元々の高血圧症で通っていた主治医からも上手く付き合うしかないと説明を受けたことで、これは自分で防衛せねばと他の治療法をネットなどで模索しておりました。

そして7月頃になり、主治医に薬をやめて欧米で主流の食事療法(高雄病院の糖質制限食や、地中海式食事療法)にすると宣言し、理論的にはあっているので無理はしないという約束で実行をしましたが、なかなか自分だけで徹底は難しいと感じた時に、たまたまこの本を書店で見つけたのでした。

分子生物学の理論を理解するためにこの本を3度、「病気の9割は自分で治せる」という医者の視点で書かれた本も1度読み、ネットでも分子生物学や、ノーベル賞受賞者のポーリング博士の分子矯正医学や、分子栄養学関係のサイトを色々閲覧しました。

そして、実際に高タンパク質、メガビタミン+活性酸素スカベンジャー食を8月より実践して、9月の健康診断は見事クリア(前回300mg→今回116mg:1999年までの基準140mg以下はクリア)。続いて掛かり付け
での11月の血液検査もHbA1cも大幅ダウン(前回6月12.9%→11月6.9%)と、卵や肉とマルチビタミン・サプリメント+野菜やそば茶、ゴマなどのスカベンジャーを多く摂取する以外は特に食事内容に気を使わず、運動も週1度か2度活性酸素が過剰に発生しないよう、気分転換に軽くウォーキングする程度にしただけなのに・・・。お酒も連日の深酒はしない程度で、果物や甘いものもよく食べていたのに・・・。


一体、今までの薬物治療は何だったのでしょうか?

医師は大学でも栄養学をろくに勉強せず、臨床現場でも栄養士任せ。医食同源とはほど遠いのが現状です。その栄養士も三石先生曰く、古典栄養学しか学んでおりません。
ちなみに、「病気の9割は自分で治せる」という本では、医者の技術料が欧米の半分以下で、薬を処方しないと病院が赤字になるので、出さなくてもいい人に薬を出さざるを得ないのが現状だと批判をしておりました。

しかし、先日流れが変わったなと思ったのが、テレビで板東英二さんがゆで卵を毎日最低3個は食べると言っており、それを聞いた糖尿病の専門医(順天堂の准教授)が、いくら食べようとコレステロール値で引っ掛からないのならば問題は無いと回答をしておりました。レシチンが多く含まれているからでしょう。

やっと時代が三石先生に追いついて来たのかもしれません。
三石先生の理論を実践してみました!


この書籍「医学常識はウソだらけ 分子生物学が明かす「生命の法則」」のレビューには、さらにこんなものもあるのであります。

著者は、そもそも物理学者であり、還暦を機に医学に造詣を深めていったという。医者に見放された自身の病気の克服に、物理学者の頭脳が、現代医学とは違う接近法で立ち向かう。自身の体験に裏打ちされ、科学的、体系的に書かれたこの本は、素人の私にもわかりやすく、現代医療の問題点を喝破するとともに、きわめて具体的にわれわれの健康生活の指針となるものである。以下目次の一部を引用する。
○コレステロールは、本来健康の味方である。
○脂肪肝は酒をやめなくても治る。
○タバコと肺がんとの間に因果関係は無い。
○肉を食べない人は、脳卒中になりやすい。
○マーガリンとショートニングは健康の大敵
○卵はコレステロールの元というのはウソ
一見非常識な内容に思えるが、三石理論は、科学的、体系的に今までの健康常識のうそを論破していく。まさに目からうろこの健康科学、そして日常実践の書である。
目からうろこの、健康科学理論書


マーガリンとショートニングは健康の大敵

気になる記述であります。ためしに「ショートニング」でググってみたら、こんなことが書いてある。

ショートニング (shortening) は、主として植物油を原料とした、常温で半固形状(クリーム状)の、食用油脂である。マーガリンから水分と添加物を除いて純度の高い油脂にしたものと考えてよい。パンや焼き菓子の製造などにバターやラードの代用として利用される。無味無臭で、製菓に使用すると、さっくりと焼き上がる。揚げ油に使用すると、衣がパリッと仕上がる。この様に「さっくり」や「パリッ」という食感を表す意味での英語形容詞“short”が語源である。
ショートニング、Wikipedia


さらに、「人体への影響」と言うことでこんなことまで。

水素添加の処理時に脂肪酸が一部トランス化し、トランス脂肪酸が生成される。このトランス脂肪酸が心臓疾患・アレルギーを中心とする様々な健康被害を引き起こす可能性が指摘されている。詳しくはトランス脂肪酸を参照のこと。

アメリカそしてヨーロッパの大半の国が食品での使用に規制が設けられているが、日本においては食品に用いるにあたり法的規制が無い。


ほんと大丈夫かいなと、さらに調べると・・・

*欧米では、マーガリンを食べる=穏やかな自殺、とまで言われ規制されている
世間には知らされていない恐ろしい事実がもうひとつある。それは悪魔のオイル、ショートニングとマーガリンの正体である。これはラードの変わりに使われる常温で固形のオイルだが、これはトランス型という立体構造を持つ自然界に存在しない異常な油で、クッキーやパン、多くの菓子類のほとんどに原材料として使われています。

このショートニングやマーガリンに含まれるトランス型脂肪酸は大腸炎やクローン病、その他まだ知られていない様々な疾患、各種アレルギーの元凶となることがわかっており、日本以外では禁止または制限されています。

分子構造がプラスティックと同じで常温で解けないことから、欧米では「プラスティックオイル」と呼ばれ敬遠されています。
悪魔のオイル 「ショートニング」


もちろん、日本マーガリン工業会のホームページには、こんなこと一言も書いてない。

現在の「ショートニング」という名称は、パン、ビスケットなどの原料として使用した場合、その口あたりをよくし、もろさを与えるという意味の英語(shorten)からきています。
ショートニングには味がないためそのまま食べることはなく、その食品のおいしいさを引き出すための欠かせない存在として、焼き菓子やパンに練りこんで使われるのはもちろん、意外と知られていないアイスクリームやフライ用としての用途があります。常温における伸びのよさ、生地への混ざりやすさなどに優れていて、名前の意味のようにクッキーやビスケットなどはサクサク、ポロポロとした軽い食感を出すことができるため、お菓子作りには欠かせないものとなっています。

◆ ショートケーキの名前は? ◆
ショートケーキには、ショートニングを入れて焼いたケーキという意味があるそうです。ショートケーキの発祥はアメリカ。私たちの知っている柔らかで繊細なショートケーキとは違い、元祖ショートケーキは、なんとサクサク、ポロポロのビスケット生地に生クリームと苺を挟んで層状にしたケーキ(?)だったとか。その後、日本にやって来たショートケーキはビスケットを柔らかいスポンジケーキにアレンジされ、今の姿になったのだとか。あなたならサクサクとふわふわのショートケーキ、どっちがお好み?
ショートニングとラードの基礎知識 - 日本マーガリン工業会


こんな名前の由来をきいてしまったら、目の前のクリスマスケーキに手がつけられないではありませんか。

いったいどうなっているのでありましょうか。

そんなときにであったのが、この言葉であります。

「食を信じる力」


そうなんであります。何を食べてはいけないかではないのであります。私たちが食を信じること。これがもっとも大事なんだと言うことなんであります。

そもそもにおいて、食とはいったい何なのか。

それは、生命の源泉であります。

この原点に立ち返ることこそ、私たちの食を考えるうえでの基本となるのであります。

なにもすべてを自然食品でないといけないと主張するつもりはないのであります。つもりはないのでありますが、人工物はもとより、ビールを飲まして脂漬けした牛やただ玉子をうむだけの鶏から、果たして私たちは、「生命の源」を得ることができるのでありましょうか?

あるいはまた、食品のエッセンスだけを抽出したものが、その食品の代替物たりえるのか。これまたはなはだ疑問と言わざるをえないのであります。

すなわち、キーワードは「生命力」であります。わたしたちが、いま口にするその食物からこれを感じ取れるかどうかに、そのすべてがかかっている。つまりはそう言うことなんであります。

思い出すのであります。年明けに数えで米寿を迎えられる丑年うまれの大恩人は、牛肉が大好き。

その昔、一緒に食事したときであります。

この牛肉はおいしいねえ。身体の芯からエネルギーが湧いてくる気がするよ、KAIくん。


この言葉に、食のすべてがあるのであります。 KAI

December 21, 2011

「家政婦のミタ」そのヒットの秘密とは?

「家政婦は見た」をもじった「家政婦のミタ」、今夜このドラマの最終回であります。

この脚本家、遊川和彦が、ついにこのヒットの秘密を明らかにした。

それは、3.11にその秘密があったのであります。

この春、人気番組の名前をもじった題名だけが、最初決まった。

しかし、どんなストーリーを思い浮かべても、直前に起こったこの大震災。この人々の慟哭を超えるドラマなど作りようがない。そう考えた遊川に、たった一つのことが思い浮かんだ。

笑顔の封印


それが、あの松嶋菜々子演じる無機質、無感情な家政婦だったのであります。

理不尽にも突然家族を失ってしまった人々の慟哭。

たとえ、いかなる近しい友人であったとしても、この哀しみを同じにすることはできないのであります。

これこそ、ネタバレでありますが、同様に自分の夫と子どもを理不尽にも奪われたミタをしてしか体現できない、そう言うドラマであったわけであります。

なるほど、これは当然と言えば当然。

「自分自身」の問題と感じて初めて、人は共感できるのであります。

答えは自ずから知っていると、前回書いた。知っているにもかかわらず、世間の「普通」の人々はこれを引き出すことができないでいる。

例えば、プロジェクト。

なぜソフトウェアのプロジェクトというのはこれほど失敗するのだろう。調査によると、1994年のプロジェクトの成功率は16%、2009年でも32%。私がこの業界に入って気付いたのは、ソフトウェアのプロジェクトにまるでミサイルの打ち上げのように大きなお金と工数をつぎ込んで、そして爆発してしまう、ということ。

こうしたことがあちこちで起きている。

ほかの業界、例えば化学業界の人に、化学工場が爆発しないようにどうプロジェクトを進めているかを聞いたところ、プロジェクトには2種類あるという。将来が予測できるプロジェクトのプロセスと、予測できないプロジェクトのプロセスだ。

ソフトウェアの開発では、開発中に要件が変わるものである(つまり将来が予測できない)。しかし、なぜか要件が変わらない前提で作り始める。

これが失敗の原因であり、開発プロセスの大きな変化を必要としている。そこで、日本の製造業にデミング博士の論文が与えた影響や、シリコンバレーの起業家たちのチーム構成、ゼロックスの研究所やアラン・ケイ氏の研究、野中-竹内論文などを研究した。
重要なテクノロジーは10名以下のチームで作られた 〜 Innovation Sprint 2011(後編)


誰も最初から失敗すると思って、プロジェクトをスタートするわけではない。にもかかわらず、なぜこうまで成功率が低いのか。

この講演者のジェフ・サザーランドは、この原因を、予測できないものを予測できるかのように扱うことにあるとするのであります。そしてこれを、「スクラム」と呼ぶ手法を適用することで、解決できると言うのであります。

野中さんの論文によると、NASAはスペースシャトルの開発をウォーターフォール形式で行い、打ち上げまで10年かかった。

このように1つ1つのプロセスがサイロになり、そのあいだをドキュメントでつなごうとすると失敗する。

それを富士ゼロックスではオーバーラップさせ、ホンダではすべてをいちどにやろうとした。チームのメンバー全員がプロジェクトの内容を理解することが成功につながるということだ。
重要なテクノロジーは10名以下のチームで作られた 〜 Innovation Sprint 2011(後編)


またしても重要な言葉が、ここにも登場するのであります。

チームのメンバー全員がプロジェクトの内容を理解することが成功につながる


ビジネスモデルを始めとしたあらゆるプロジェクトでは、常に予測できないことの連続であります。これにどう対処するかに、最初から正解はない。チームのメンバー一人一人が考えるしかないのであります。いま直面する問題がプロジェクトにとっていかなる意味を持つのか、当事者として自分自身の問題としてひたすら考える。

このとき、チームのメンバー全員が、プロジェクトでいま何が起きているか、すべての情報を共有しプロジェクトの内容を理解する方法が、PCS。

久しぶりにPCS


詳しい説明はこちらのエントリーを見ていただくとして、サザーランド氏の手法はこれ。

もちろんプロジェクトの進捗に関するレポートは必要だ。スプリントのバックログのリストとバーンダウンチャートを使う。ガントチャートは先が読めないときにはほとんど意味がないので使わない。


「スプリントのバックログのリスト」とは、PCSのP項目。「バーンダウンチャート」の説明はこちらがわかりやすい。

バーンダウンチャートを解読する


まさにPCSの未解決項目をプロットすれば、このバーンダウンチャートになる。

いつのまにか技法の話になってしまいましたが、ことの本質の話に戻って、話を整理すると、ポイントは一つ。

要するに、「自分自身の問題」であります。

「IT技術者に求めるのはユーザとしての経験」こそ、グーグルの技術者に決定的に欠けていることなんであります。
2010年最後はグーグルが色褪せて見える週末テニス


こちらは、プログラマの問題。

解くべき最良の問題は、自分が個人的に抱えている問題であると思える。
オッカムの剃刀をビジネスモデルに適用する週末テニス


こちらは、起業家の問題。

「予知能力」の問題も、すべて一緒。

違いは、どのレベルで自分自身の問題とできるかどうかだけ。

自分自身の問題として身体をおくことにより、問題と身体が同化し、問題の本質が見えてくる。やがて、自ずと進むべき道も見えてくるのであります。

と言うことで、続きはまた次回に。 KAI
成功の法則−−−自分自身の問題


しかも、この問題はかのジョブズも同様であったのであります。

 テクノロジーに創造性を溶けこませれるかどうかは他者に感情的に同調する能力に依存している。ジョブズは他人に怒りっぽく不親切だったということで、人々の中には、ジョブズは他人の感情への基本的な気づきに欠けていると考えた人もいる。

 事実は、逆である。人を判断できたし、彼らの内心の考えがわかったし、おだてることもビビらせることも、隠れた弱みを攻めたり大喜びさせたり、いずれも思うままだった。気にいられる製品、やさしいインターフェース、誘惑的な広告メッセージをどう創ればいいかも、ジョブズは本能的に知っていたのだ。
ジョブズの天才とはどのようなものであったか ---ビル・ゲイツ、アインシュタイン、フランクリンと徹底比較する---


まことに不思議なのであります。

互いが感応しあう、そう言う環境以外には、うまくいかない。

たとえばFacebookも、果たしてそう言う環境にあるのか。はなはだ、これは疑問と言わざるを得ないのであります。 KAI

December 17, 2011

ディスチミア症候群とコンピュータシステム導入問題との関係とは?

ディスチミア症候群とは、聞きなれない病名であります。

ディスチミア症候群と言われる病気が最近話題となっております。このディスチミア症候群とは、うつ病の1形態として扱われます。うつ病には2タイプあり、1つがメランコリー親和型うつ病、もうひとつがディスチミア親和型うつ病(ディスチミア症候群)です。

メランコリー親和型は、自責の念が強いのに対し、ディスチミア親和型は他罰感情が強く現れます。つまり、責任は自分にはなく、全部環境や他人のせいだという感情です。悪く言えば「わがまま」、「自己中心的」ということになります。

具体的な症状としては、会社ではうつ症状を呈しながら、プライベートでは海外旅行に出かけたり、飲み会に参加したりと元気ハツラツな状態になります。非常に不可解な病気であるため、気分変調症という意味のディスチミア症候群と呼ばれ、医学的にはうつ病ではないとされています。

メランコリー親和型うつ病は比較的年齢の高い中高年齢層によく見られるのに対し、ディスチミア親和型うつ病は若い青年層から多く見られるのが特徴です。

ディスチミア症候群の根本的な原因は、「幼少時から親に過保護に育てられ、自分らしさを抑圧されてきた『いい子』の自己コミュニケーション障害」とされています。本当の自分らしさを表現すること我慢し続けて来たために、その反動として自分の生き方の方向性を変えたいという心底の思いが噴き出してしまったということです。

ですから、ディスチミア症候群は、基本的に投薬治療で回復することはありません。自分らしさを認め、生き方を変え、環境も変えて心のバランスを取る必要があるのです。ディスチミア症候群を患っている人の関係者達は、その人がものを言いやすい環境を作ってあげることが大切です。
ディスチミア症候群の症状と原因


なんとこれが、皇太子妃問題を解くキーワードであるとのことであります。

このことだけに限れば、皇室問題にはとんと興味はないのでありますが、この「他罰感情」と言う部分には大いに反応するのであります。

それは、まずこの記事をご覧いただきたいのであります。

 「社長がいつ死んでも困らない会社にしないといけない」。

 本連載第1回の書き出しです。社長の私が出社しなくても商売をしていける「社長不要の会社」を目指してあれこれ取り組んできました。

 社長を不要にする、つまり社長の仕事を減らしていくカギの1つは情報システムです。ところが現実にはシステムをうまく使いこなすどころか、「動かないコンピュータ」があちこちで出現しております。
(中略)
 困ったことに、企業側と開発側は情報システムについてそれぞれ意見を持っているものの接点が見当たりません。これが長年の問題です。

 企業側と開発側が同じ問題や悩みを同じ視点でとらえ、その解決手段として情報システムを提供する、そのような関係が結べればと思いますが実際にはなかなかです。

 情報システムを使う企業側はしばしばこう言います。

 「IT業界でしか通用しない専門用語がまかり通っている」「言われたことしか対応せず、提案がない」「欧米の手法をそのまま用いており、国内の実情と一致しない」。

 これに対し、開発側はよくこう言います。

 「経営トップがシステムを理解していない」「発注者がシステムの要件をまとめていない」「コンピューターに過度の期待がある」。

 私は経営者として情報システムを使う企業側におりますが、あえて企業側の現状をもう少し考えてみようと思います。

 企業側には経営者から現場の利用者まで、次のような「システムの幻想」があります。

  • コンピューターは機械だから、自動的に処理してくれる
  • 我々は客、開発者は業者だから、開発側で全部用意してくれる
  • 業務が簡素化されるのだから、経費は減って当たり前

 もう少し考えると、こうした幻想は日本の現状から出てきています。上記の幻想に対応させて列挙してみましょう。
  • 日本の製造業は自動化によって評判を得た
  • 誤解に基づく「お客様は神様」という風潮がまかり通っている
  • 企業のビジネスモデルが陳腐化している

 三番目について少し解説します。後述しますが、私が属している問屋の世界を見ますとビジネスモデルを見直さないともはややっていけません。おそらく他の業種業界も同じでしょう。
社長が抱く「情報システムの幻想」

 ビジネスモデルを変え、その結果、「業務が簡素化され」「経費は減って当たり前」ということになる可能性はあります。それは企業側の努力によるものであって、情報システムの開発側に期待することではありません。

 さらにハードルを上げているのは、完成品を当たり前のように求める姿勢です。これが日本のものづくりの高品質を生んでいるわけですが、情報システムにもすべてがまとまった姿を求めるので、開発側は外観や操作の互換性など機能以外の点にまで注意を払う必要があり、なかなか厄介です。

根本原因は「原因を他に求める」姿勢

 システム幻想をもたらす日本の現状について説明しました。もう少し考えていきますと、より根本の原因を見出せます。

 「楽に生きたい」「原因を他に求める」「分業による無理解」です。これらは動物の自己防衛本能でもあり、一筋縄では対処できません。

 こうした姿勢が企業側にも開発側にも見られ、幻想の肥大と幻滅が起き、両者は歩み寄れません。

 「分業による無理解」とは、官民に関わらず縦割りで業務が分担されており、自分の役割以外は誰かが補うだろうとの先入観があることです。

 ある時、知り合いのSEから、顧客に関する悩みを聞かされました。「実在庫とシステムの在庫を合わせろ」という依頼が来て困っているそうです。

 これはその顧客の在庫管理者の怠慢そのものです。無理難題と責任転嫁は、情報システムをもってしても、どうにもできません。やむを得ず、そのSEは「在庫が合わない理由を説明する資料」を情報システムで出力し、顧客に提出したそうです。
社長が抱く「情報システムの幻想」


日ごろからKAIが悩んでいることが、ものの見事な文章となって記されているのであります。

完成品を当たり前のように求める姿勢

「原因を他に求める」姿勢


特に、この「原因を他に求める」姿勢とは、まさに「ディスチミア症候群」そのものと言えるものなのであります。なかなかこれは、「経営者として情報システムを使う企業側」から言っていただかないと、開発者側からはまことに言い出しにくい言葉なのであります。

どう言うことかと申しあげれば、それは私たちが携わるコンピュータシステムの世界での一番の問題であり悩みなのであります。

ここでは「動かないコンピュータ」と書かれているのでありますが、私たちの「システム」はインターネットの「アプリケーションサービス」でありますから、もちろんすでに動いているのであります。しかしこれを導入し使い始めようとするときに、これがなかなかうまくいかない。

もちろん大半はうまくいくのでありますが、うまくいかない場合は、徹底してうまくいかない。

いくら導入して使うのは「ユーザー」自身なんですよと言っても、かたくなに聞く耳を持とうとしないのであります。

あげくのはてが「ディスチミア症候群」と化すのであります。

ここで、あらためて気づくのであります。なにかと申しあげれば、この「ディスチミア症候群」の原因には、いろいろと思い当たることがあるのであります。

ディスチミア症候群の根本的な原因は、「幼少時から親に過保護に育てられ、自分らしさを抑圧されてきた『いい子』の自己コミュニケーション障害」とされています。本当の自分らしさを表現すること我慢し続けて来たために、その反動として自分の生き方の方向性を変えたいという心底の思いが噴き出してしまったということです。


「過保護」の問題はまた別の機会にご説明するとして、問題は「本当の自分らしさ」であります。

これを上記引用の「社長」の言葉で言い直すならば、いままでの「抑圧された自分らしさ」が「陳腐化したビジネスモデル」、これを変えるべき「本当の自分らしさの表現」が「本当のビジネスモデルに変える」となるのであります。

しかしこの「本当のビジネスモデル」は、「社長」が書いているとおり情報システム側にあるのではなく「企業側の努力」にしか存在しえない。

少なくとも、企業側の努力にあわせて開発側の「システム」が共同してこそ、実現可能となるものなのであります。

もちろん私たちの「システム」には、「本当のビジネスモデル」があるのであります。しかし、これはあくまで「システム」であります。企業自身が、現在の「陳腐化したビジネスモデル」から、「本当のビジネスモデル」に「変わる」努力をしない限り、なにも変わらない。

結局「原因を他に求める」姿勢と言う「ディスチミア症候群」を、企業はいつまでも続けることになるのであります。

では、この治療方法にはいかなる方法があるのでありましょうか?このヒントもまたさきほどの「ディスチミア症候群」の説明の中に見出すことができるのであります。

ですから、ディスチミア症候群は、基本的に投薬治療で回復することはありません。自分らしさを認め、生き方を変え、環境も変えて心のバランスを取る必要があるのです。ディスチミア症候群を患っている人の関係者達は、その人がものを言いやすい環境を作ってあげることが大切です。


この説明で重要なことは、「抑圧した自分らしさ」+「他罰感情」から「本当の自分らしさ」+「心のバランス」への転換であります。

「陳腐化したビジネスモデル」+「原因を他に求める」から、「本当のビジネスモデル」+「システムとのバランス」となるのであります。

実は、この議論は随分前ですが、ここで取り上げた問題なんであります。

男が好きになる女のタイプとかけて日本人の働き方と解く、その心はどちらもなかなか変わらない。

前回のヨッシーのパーティでひとしきり話題になったのが男が選ぶ女のタイプ。ヨッシーの彼女遍歴を知る友人一同声をそろえて言う。まったく一貫して同じタイプである。

「日本人は働き方にこだわる」とおっしゃるのは慶応義塾大学教授大岩元(はじめ)先生。

 欧米の経営者たちは、自身の仕事はビジネスモデルの策定とその実現であると考えているようである。これに対して日本の経営者は、ビジネスモデルにはこだわらず、仕事の仕方で競争を勝ち抜こうとしている。したがって、従業員の働き方に対するこだわりを実現することが、経営者の一番大事な仕事であると考えているように思える。
 情報技術は、ビジネスモデルで競争する欧米人が作り出したものである。彼らは働き方へのこだわりがないので、ビジネスに情報技術を持ちこんで、働き方が変わることにこだわりを持たない。(中略)働き方を変えたくない日本の経営者は、こうした作業が必要になっても、今まで通り部下にやらせる人がほとんどである。
(BCN、視点、大岩元、2007/06/11、p.9)

つまり、
ビジネスモデル > ワークモデル(欧米型モデル)
ビジネスモデル < ワークモデル(日本型モデル)

と言うわけです。

私たちが実施するASPサービスにおいても、日々このモデルの衝突を繰り返しています。

通販の現場を取り仕切っているのは大凡女性たちです。もめ事で現場の混乱を嫌う管理者は、この女性たちの声すなわち現行のワークモデルを決して変えようとはしません。結果カスタマイズの嵐となって元々のビジネスモデルなどとうに吹っ飛んでしまいます。

このワークモデルを人間関係と置き換えてもこの話はそのまま成り立ちます。

従来の人間関係のまま、私たちのASPサービスと言うビジネスモデルを導入すると、不思議な現象が起こります。

今までのシステムでは、システムを操作する現場の人間は単に情報の加工者と言う位置づけでした。この加工された情報が管理者に紙のレポートとしてあげられると言う流れで、管理者に情報が集中すると言うビジネスモデルでした。

ところがMVCモデルをベースとする私たちのシステムでは、システムを操作する現場の人間に直接情報を見せ、すべてこれによって判断するインターフェイスになっているため、管理者ではなく現場の人間に情報が集中する仕掛けになっています。

もちろん管理者であっても直接画面を操作することが前提ですので、単に管理者が直接画面を操作しさえすれば現場の人間以上の情報に接することができます。

しかし従来の人間関係のままであると、相変わらず紙のレポートが出るまで管理者には情報があがらず、実は管理者が一番情報に疎い存在となっているのです。しかもこれに現場の人間は気付いていても管理者には報告もしないし、当然管理者からこの事実に思い至ることもありません。(当然管理者もパソコンを操作はしますがあくまでEXCELで上がってきたレポートを加工するレベルではどうしようもありません)

日本人がこう言う人間関係と言うかワークモデルと言うかを変えられないのは、冒頭の男がいつも同じタイプの女を好きになってしまうのと同じレベルの、ある意味人間的な心の問題であるからです。

ですからビジネスモデルを変えるなら、組織構造もそれにあったフラットな構造に変える必要がありますが、トップダウンで断行しない限りこれもなかなか難しい。

かくしてモデルの衝突は延々と続くのでした。オワリ、マル。 KAI
男が好きになる女のタイプと日本人の働き方の関係とは


まるごと引用しましたが、お気づきでしょうか?

そうです。「陳腐化したビジネスモデル」とは、この日本人が大好きな「ワークモデル」のことだったのであります。

この「ワークモデル」のまま、「ビジネスモデル」としての「システム」導入が、「ディスチミア症候群」を生み出している元凶であります。

ですから、「本当のビジネスモデル」に合わせて「ワークモデル」を変えることができる企業は、システム導入がうまくいくし、あいかわらずの「ワークモデル」にこだわり、「カスタマイズの嵐」を繰り返す企業が、最後まで「他罰感情」をかかえたまま、「ワークモデル」偏重の迷路を彷徨うことになるのであります。 KAI

December 09, 2011

もし君が公務員だったら良心の呵責にいたまないかい?

いや驚いた。

今一番に倹約しないといけない家計のときに、なんと言う大盤振る舞い。

気が狂っているとしか、言いようがない。

本日、国家公務員が対前年度比プラス4%のボーナス支給を受け取り、国会は閉幕となる。

野田民主党政権の支持母体である官公労は、公務員給与引き下げの人事院勧告実施を政府に無視させた上、国家公務員給与引き下げ法案も今国会で成立しなかったことで、公務員給与プラスのボーナスを実現した。官公労の完全勝利である。

これは、首相のボーナス30%自主返納で済まされる話ではない。民間調査では、民間のボーナスは前年比マイナスである。ある民間予測ではこの冬のボーナスは、民間企業は従業員1人当たりの支給額は3年連続のマイナスで37.8万円、国と地方の公務員1人当たりの支給額は増額の76.5万円となっている。
国家公務員が対前年度比プラス4%のボーナス支給は官公労の完全勝利である


なんと4%アップ!

ノーモア民主

被災地のみなさん、なんでこんなでたらめを許すんですか?

家計が苦しいときに、まず一番にすることはなにか?

100人にこれをきいて、100人がみなこう答える。

きりつめる


そうです、出費を抑えるのであります。

少なくとも人事院勧告は、それにそうものであったにもかかわらず、政府、役人は、これを一顧だにしようとしないのであります。

みなさん、これは、役人を敵にするしかないんじゃありませんか?

ええかげんにせえよ、であります。もうこれは、本気で戦うしかないのであります。 KAI