内なるものと外なるもの--その本質とは?

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実に、8年ぶりのシリーズ復活であります。

内なるものと外なるもの
内なるものと外なるもの(2)
内なるものと外なるもの(3)
内なるものと外なるもの(4)
誰があなたのことを心配しているのか−−「心配力」の研究
恋わずらいと強迫神経症−「心配力」の研究(3)

ずいぶん古い研究テーマでありますが、ここにきて、あらゆる事象がこの問題に収斂されていく様を目撃することは、KAIにとって快感とさえ言えるのであります。

と言うことで、発端はこの記事であります。

 体から出ていったものはきたないと感じるのがふつうです。大小便がそうです。つばもそうですね。口の中にあるつばはきたなくないのに、いったん外に出すと、なぜきたないんだろう。そう不思議に思ったことはありませんか。

 ヒトは「自分の体はどこまでか」という境を決めています。そこから出たものは、自分ではなくなります。そうなったものを、特別に汚いと感じるくせがあるようなのです。(解剖(かいぼう)学者・養老孟司(ようろう・たけし))
コラム・養老先生のさかさま人間学 からだと働き編 排

この、身体の内と外との境の認識こそが、私たちを生命あるものとして、存在たらしめているのであります。

すなわち、私たちの心の働きや、細胞レベルから組織レベルに至る、あらゆる身体的な働きの、根幹的基本原理となっているのが、この内と外との区別の認識に他ならないと言う、決定的真実であります。

この典型的事例が、「免疫反応」であります。

生体が外来性あるいは内因性の物質に対して自己か非自己かを識別し、非自己に対して自己体内の統一性と個体の生存維持および種の存続のために起こす一連の生体反応。
免疫反応とは - 生物学用語 Weblio辞書
お話を先にすすめるために、ここではあまり専門的説明には立ち入らないで、用語の説明にとどめておくのでありますが、この説明にありますところの「自己」と「非自己」の識別こそが、「内と外との区別の認識」に他ならないのであります。

これを、これまでKAIは、「内なるもの」と「外なるもの」と言う言葉を使ってさまざまな考察をおこなってきたのであります。

そして、ここにきて、これがさまざまな概念と結びついて、きわめて重要な働きをしていることに、気づくに至ったと言うことであります。

すべてがすべて、この「内なるもの」と「外なるもの」とよぶ、「内」と「外」との識別問題に帰着すると言うことだったのであります。

この仕組みを理解するために、例えば先日のエントリーでご説明しました「国家」概念の形成問題について、ここであらためて考察することにするのであります。

つまり、「同心円」概念のことであります。

どう言うことかと申しあげますと、私たち日本人の大多数、それも高学歴人間の多くには、国連信仰なるものが存在するのであります。

すなわち、私たちの国家が、国連に「所属」するとの認識であります。

この典型が、かの小沢一郎であります。

小沢一郎が提言する自衛隊の海外派兵の新しい原則も国連中心主義と呼ばれることがあるが、これは国際連合安全保障理事会に承認された平和活動への参加はたとえ国連憲章第41条・第42条の強制措置であっても憲法違反にならないとする新しい憲法解釈の提言であり、その際横田喜三郎の憲法解釈[3]を援用するものである[4]。小沢はこの原則に則り、国連憲章第7章に基づき安保理に承認された活動である湾岸戦争や国際治安支援部隊(ISAF)への自衛隊の参加を主張した。また同時に自衛隊とは別組織の国連支援部隊創設を主張している。
国連中心主義、Wikipedia
自衛隊(の一部)を国連に所属させることができると考えるのも、そもそもにおいて国家と言う概念自体が、国連の「内なるもの」であるとの認識があるからであります。

この「国連」を「米国」に置き換えて、これを日本と言う「国家」が「対米従属」であるとの批判をくりかえす方々もまた、これと同様の「国家」概念をお持ちの方々だったのであります。

すなわち、日本と言う国家のまわりをひとまわり大きく囲む国家が米国で、日本は米国の同心円上の内側に存在する従属国家であるとの認識であります。

これと似たお話と言えば、2009年の総選挙で民主党に投票した人々であります。

自分たちが、自民党と同じ同心円上にいることを嫌って、民主党の同心円の中に入ることを選択した人々であります。

ここでご注意いただきたいのは、もちろんでありますが、この同心円上に入る、入らないと言うことは、あくまで「認識」上のお話であると言うことであります。決して、民主党員になるとかサポーターになるとかといったお話とは、まるで次元の異なるものであるのであります。

そして、このあくまで「認識」であると言うことが、あらゆる「選択」、「判断」、「好悪」、「受容」、「愛憎」などなど(これをまとめて「反応」と言います)、に決定的影響を与えることになると言うのが、続いてのお話であります。

冒頭に引用しました記事のとおり、養老孟司は、これを「特別に汚いと感じるくせ」と表現するのでありますが、この「くせ」とはなかなか面白い表現ではないかと思うのであります。

これをもう少し具体的に申しあげますならば、「内なるもの」に対しては「プラス」に「反応」する「くせ」があると言うことであり、逆に「外なるもの」へは「マイナス」に「反応」する「くせ」があると言うことであります。

でありますから、例えば誰かの「意見」や「主張」が、自分にとって「内なるもの」と識別した瞬間、「賛成」となり、反対に「外なるもの」には「反対」と、ある意味、自動的に決まってしまうことになるのであります。

この視点はきわめて重要なものでありまして、いままでの一般的な考え方からすれば、まず最初に、「賛成」あるいは「反対」があって、その結果が自分にとってこれが自分側と言う意味の「内側」であるのか、あるいは「外側」であるのかを決めると、かように考えられているのであります。すなわち、こうであると。

<賛成>→<内なるもの>
<反対>→<外なるもの>

ところが、であります。

実際は、まったく逆の「反応」であったと言うことであります。

<内なるもの>→<賛成>
<外なるもの>→<反対>

さて、ここであらためて先に例示しました事例に戻ることにしまして、「オーナーシップ」問題についてであります。

「オーナーシップ」とは、すなわち「当事者意識」であります。

これは、直感的に、「当事者意識」=「内なるもの」であると、みなさまにもご理解いただけるものと思うのでありますが、この「当事者意識」をもつことがなぜ大事であるのか、これも見事に「当事者意識」が「内なるもの」であることで説明することができるのであります。

それは、すなわち、「内なるもの」に対する「プラス」の「反応」であります。

世の中の、あらゆる「問題解決」にとって、この「解決」とは、「プラス」の行動であり、「プラス」の結果であります。でありますから、「問題」を「内なるもの」と認識した瞬間から、自動的に「プラス」の「反応」を生みだし、これが「プラス」の行動、「プラス」の結果へと連鎖することになるのであります。

そして、これは、続いての事例である「気づき」問題とも直接的に繋がるお話となるのでありますが、「当事者意識」が「内なるもの」であるとは、「問題」そのものの中に、自分自身と言う「身」を置くと言う意味で、「内なるもの」の存在となることを意味しているのであります。

これによる効果は、歴然であります。

この詳細なメカニズムは、また別の機会にご説明させていただきたいのでありますが、簡単に申しあげますならば、前頭葉で考えるのではなく潜在意識をも含めた全身の神経と言う「脳」で「感じる」のであります。

そうすることによって、いままで見えてこなかったあらゆる問題を意識の上に顕在化し、これに対処すると言う「プラス」の行動へと結びついていくと言うことであります。

これが、直接的に「気づき」問題に関係すると言うのは、さきほども申しあげましたとおりであります。

いわゆる「気づき」問題とは、いままで見えていなかったことが見えるようになることであります。言いかえれば、これは無意識の中にあったものを意識下に顕在化させると言う、さきほどの「内なるもの」の認識による「効果」そのものだったのであります。

と言うことで、このお話は、懸案の「アプリケーション価値」社会へのお話につながっていくのでありますが、これはまた次回と言うことで、本日はこれにてお仕舞い。 KAI