February 02, 2005

「情報」とは何か(3)

大澤真幸氏の「メディアの再身体化と公的な知の不在」から引用です(環Vol20、2005Winter)。

 さて、こうした用語を用いるならば、ここまでの議論が含意していることは、次のことである。すなわち、電子メディアは、触覚に比肩しうるほどに直截に、求心化作用と遠心化作用の一体性を現実化しているのだ。(中略)こうして、電子メディアは、他者の身体を、遠隔化しつつ近接化する。遠隔化のアスペクトに注目すれば、それは、脱身体性を代表する。近接化のアスペクトに注目すれば、それは、触覚的な、再身体化するメディアにも見えてくる。(p.102-103)

(中略)

 だが、レヴィナスの議論に沿った、こうした説明には、まだ考慮に入れられていない盲点がある。他者の身体に深さを与える「内部」を持続的な実体として構成するためには、私と他者(の顔)のどちらでもない第三項が−−−それ自身は顔を持たない第三者が−−−必要だ、ということが無視されているのだ。私と顔が二項的に対峙しあっている限りにおいては、顔の表層に還元できない「何か」は、顔そのものの知覚から独立した実体として切り離されることはない。そうした「何か」が、他者の身体の表面から分離された、知覚できない「内部」としての意味を獲得するためには、−−−詳述する余裕はないが−−−私と他者とが共通にコミットしている第三者の存在が、それ自身は直接に顔を現すことのない第三者の存在が、想定されていなくてはならない。それこそは、われわれが「第三者の審級」(引用者追記:the instance of the third person)と呼んできた、超越(論)的な他者である。要するに、顔と顔との間の関係を、独立した人格同士の共同主観的な関係として安定化させるためには、顔のない第三者の審級が必要なのだ。

 さて、伝統的には、多くの場合、特定の一者から(不特定の)多数者へと情報を配信するマスメディアが、当該共同体における第三者の審級の機能を果たしてきた。とりわけ、文字メディアを用いるマスメディアが、である。(p.104)

(中略)

 マスメディアがこのような機能を担いうるのは、それが、遠くから語りかけるからである。それゆえ、触覚的な直接性において体験される電子メディアは、とりわけサイバースペース内のメディアは、第三者の審級としては機能しない。新聞や書籍に記された情報は、それを知っている人、それに関心を持っている人が、たとえごく僅かであったとしても、公的なものとして意味づけられる。(p.105)

(中略)

 ここで、先に指摘したこと、すなわち共同主観的な関係が安定化するためには第三者の審級が必要だということを、あらためて想起する必要がある。私の身体と他者の身体が、互いに直接にはアクセスすることができない「内部」を備え、安全な距離を保つことができるようになるためには、第三者の審級がいなくてはならない。第三者の審級が撤退した場合、第三者の審級の機能が弱体化している場合、つまり身体の求心化作用−遠心化作用を媒介にしてのみ他者を体験している場合、私にとって、他者は、あまりにも直接的である。(p.106)

要約すると、電子メディア環境における身体性は、遠隔性による脱身体化と、求心化および遠心化と言う近接化による(触覚的)再身体化の、二つの側面を持っている。後者の側面において、身体の「内部」を安定化させるための第三者の審級と呼ぶ超越的他者が必要であり、この機能をはたすのがマスメディアである。この存在の有り様によって、(引用外ですが)近接化に対する耐性のなさを、身体性は露呈するものである。

前段は、以前議論した「情報哲学に関するエントリー」の内容を見事に補完してくれます。

後段の第三者の審級がマスメディアであるかどうかは異論がありますが、第三者の審級不在(あるいは劣化)による近接化の身体の瓦解は、その通りだと思います。

そこで、第三者の審級が、マスメディアであるかどうかです。

これは、前段の内容とも関連するのですが、正に自己組織化の問題です。自己組織化において相互干渉が必須要件であることはすでに何度も述べてきましたが、もうひとつ必須要件があります。それは絶対量の問題です。絶対量とは、それを構成する要素の数が、数十レベルから数百レベルでは出現しない現象が、ある閾値を越えると突然様相を変えると言うものです。いわゆるモード転換です。

つまり、個別の近接性の絶対量の集合が、第三者の審級と呼ぶ、質、意味を獲得しているのです。

筆者は、100万ステップクラスのアプリケーションをいくつか、この20数年にわたって実際に現場で開発してきた経験から感じるのですが、100万ステップクラスのアプリケーションでは、本当にこの「モード転換」が起こります。このモード転換したアプリケーションが、あらゆる意味で、新しいアプリケーションに影響を与えるだけではなく、アプリケーションの進化そのものの「パワー」となる現象が発生しています。

つまり、マスメディアと言う存在は、象徴としてのマスメディアはあっても、すでにその存在自体、実体として個別の近接化した再身体化に支配されていると言う事実を受け入れなければ、マスメディアの「現在の有り様」は説明できません。

そろそろ自己組織化するアプリケーション第二部もまとまってきましたので、そちらに移りたいと思います。 KAI

補足です。

マスメディアが象徴化しているとはどういうことか説明します。

本来、マスメディアの報道機能の中で「検証」機能が機能していれさえすれば、本来すべて、何の矛盾なく整合性を取れたはずです。ところがマスメディアは、それを放置、放棄してきた。結果、いままで機能するはずもなかったBlogをはじめとした、リアルタイムのインターネット情報によって、自分たちの望まない検証作業が次々行われ、それがリアルタイムにオープンになっていく。

この状況である「マスメディアの有り様」は、決してネットの中だけの現象ではなく、本日(8日)の、まるでITと縁遠い国会議員がいる予算委員会の集中審議でも如実に現れています。

投稿者 : February 2, 2005 07:58 PM | トラックバック