March 18, 2008

松下幸之助の言葉(30)

企業経営には、あとから考えるとこの時どうしてそう言う方法を思いついてそれを実行する決断をしたのかわからないと言う、不思議な局面に何度か遭遇するものです。

ビデオ戦争が勃発した1974年と相前後して松下は低迷を始めます。3年後の1977年1月、幸之助は社長に娘婿正治に変えて、松下取締役26名中25番目の序列であった山下俊彦を起用します。いわゆる世に言う「山下跳び」です。この時山下57歳。いまでこそこの年齢の社長就任はめずらしくもなんともありませんが、当時82歳の幸之助を筆頭に戦後の復興を支えた年輩の役員の中にあって異例中の異例の抜擢人事でした。

 その後、山下は期待に応え、獅子奮迅の活躍を見せた。タブーだった事業部間の大規模な人事異動を実施。高齢化した幹部社員の退職も促した。「やりすぎだ」という声にも屈しなかった。ある時、幸之助が社長室に「大忍」と自書した額を持って現われ、「わしもこの額を部屋にかけとく。君がこの額を見る時、わしも見ていると思ってくれたらいい」と言って励ました。
 こうして松下電器は、山下体制の八〇年代前半に利益成長のピークを迎えることができた。松下電器は、再び不死鳥のように蘇ったのである。
(産経新聞、同行二人(どうぎょうににん)第28回、北康利、2008/3/18、p.18)


なぜそうするのか。言葉では説明することができない訳があります。それしか選択の余地がないところまで追い詰められて、そこで初めて方法を思いつく。

もちろん企業は生き残っていかなければ、何の意味もありません。生き残るために、幸之助が世襲をあきらめたと同じように、あらたなるフレームに乗り換えるしかないのかもしれない。

いま必死になってその方法を考えています。 KAI

投稿者 kai : March 18, 2008 08:32 PM | トラックバック
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