October 09, 2008

ノーベル賞ラッシュはこれもまたシンクロニシティ

ノーベル賞受賞者が、一度に4人(あるいはそれ以上?)とは、驚いた。誠にめでたいし、なんだか沸々と嬉しくなってくる。

ノーベル物理学賞を受賞した3人と彼らの学問上の関係者との系譜を整理すると、あらためて彼らが見事に繋がっていることがわかります。

それは、朝永振一郎(1906年生まれ、以下同)、湯川秀樹(1907)、坂田昌一(1911)、南部陽一郎(1921)、益川敏英(1940)、小林誠(1944)の方々の繋がりであります。

湯川と朝永は、共に1929年京都帝国大学理学部物理学科を卒業した同級生です。湯川が、1934年中間子論を発表し、これで1949年ノーベル物理学賞を受賞します。朝永も、その2年前1947年、くりこみ理論を発表。18年後の1965年にノーベル物理学賞を受賞。

一方、湯川の中間子論の第2論文以降の共著者であった坂田は、湯川に4年遅れて京帝大を卒業し、1942年名古屋帝国大学教授となります。この2年前に益川、2年後に小林がこの名古屋の地に生まれたのは、なにか因縁めいたものがあります。

その益川、小林は、坂田のいる地元名古屋大学に進学し、そこで坂田の指導の元博士号を取得します。益川が1967年、小林が1972年。その間の1970年、二人の若者に夢を託すかのように坂田は59歳の若さで亡くなります。坂田が亡くなったその年、益川、その2年後に小林が、京都大学に移り、ここで二人は今回の受賞対象となった小林・益川理論を発表したのでした。それが1973年、益川33歳、小林29歳、いまから35年前の出来事です。

そしてもう一人の朝永と繋がるのが、南部。

朝永は、くりこみ理論を発表した2年後の1949年、東京教育大学教授のまま43歳にしてプリンストン高等研究所に留学、研究を続けます。ここは原爆の父で有名なオッペンハイマーが所長であり、彼から朝永が薫陶を受けたことは間違いありません。

朝永に遅れること3年、1952年、ここに、南部がやってきます。南部は、丁度この10年前の1942年、東京帝国大学理学部物理学科を卒業したあと、母校の助手、大阪市立大学助教授、教授を歴任し、その後惹かれるようにプリンストンにやってきたのでした。このあとシカゴ大学教授となり、1960年、39歳にして、今回の受賞理由となる自発的対称性の破れを理論的に予測すると言う発見をします。13年のち、これが小林・益川理論によって裏付けられることになるのでした。

・湯川→坂田→益川・小林

・湯川→朝永→南部

この湯川から始まる分かれた二つの系譜が、南部の発見を小林・益川が理論的にその根拠付けして、また先で繋がる。時間を越えたシンクロニシティ、意味ある偶然としかいいようがありません。

ここで重要なのは、こうした繋がりが、ただ単なる互いの出会い以上の、もっとより具体的なところに、その根源的な理由があると言うことです。それは、湯川を源流とする、数式と言う道具を使って生きた気の流れを操る方法を伝授された人々の系譜です。

数式と言う道具を使って計算できることは、単に数式を操れるだけのことです。世の中の学者といわれる人々の大半がそのレベルにとどまっている。対して、この系譜の人々は、数式を使うことでその数式の中に流れる気を自在に操る方法を習得し、最後真理の扉を開くことができる。

これもまたシンクロニシティ。このあたりのことが、いま手に取るように見えてきた。しばらくして、また整理してレポートします。 KAI

投稿者 kai : October 9, 2008 08:50 PM | トラックバック
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