国家も人もその正統性を超えることはできない

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私たち社会には、「正統性」と言う絶対的価値があるのであります。

現代の思想家は、まことにもってこれが不可思議なんでありますが、この問題意識が端から欠落しているとしか思えないのであります。

このことを理解するための最適事例が、この1年間いっこうに収束の兆しのない「北アフリカ・中東における政変」問題に対する思想家の姿勢であります。

なんだか世間もメディアももはや関心ここにあらずでありますが、この一連の問題こそ思想家のリアルな実験場であるのであります。自己の思想においてその思想とは必ずやその帰結を予言できることでもって「思想」たる資格を持つのであります。これを後出しじゃんけんよろしく、結末が見えてから、都合のいいようにこの歴史を書き換えるのは、真の思想家とは言わないのであります。

更には、この結末がいかなることになろうとも、当事国以外の個々のすべての外国国家にとって、それを受け入れるかどうかの価値基準なるものは、もとより持ち合わせてはいないし、その結果を説明するものは、いかなる「言葉」ではなく、そのすべての「正統性」なるものを根拠にした「思想」であることを、当の思想家は理解する必要があるのであります。

冒頭から、わかりにくいもの言いですまない。

こんなことを考えるのも、こんな記事を読んだからであります。

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「グリーンアクティブ」に関する宮台真司のアピール
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日本はいまだに民主主義の社会ではない。
民主主義を獲得するには政治文化の以下のような改革が必要だ。

〈任せて文句たれる社会〉から〈引き受けて考える社会〉へ
〈空気に縛られる社会〉 から 〈知識を尊重する社会〉へ

日本は非民主主義的な政治文化を背景に官僚天国になった。
官僚天国を抑止できない政治文化が日本をでたらめにした。
本日(12.02.13)グリーンアクティブ記者会見(議員会館)でのアピール文

今の日本が「官僚天国」であることは、確かに認める。しかし「民主主義の社会ではない」とは、これを立論の基礎においた時点で、「思想家」として国家を変革する「意志」も「手段」もこれを放棄したとも同然と言えるのであります。

「非民主主義的な政治文化」と、「民主主義の社会ではない」とは、似て非なる概念であることは、少しよく考えれば誰にでも理解できることであります。

こう言う「言葉」を粗末に扱う思想家は、信用するに足りないのであります。

現に、こうであります。

【宮台】人心掌握のポピュリズムとして[自分の過去を忘却しないという巧みなメッセージを送ることで]過去の記憶に訴える橋下戦略は有効だけと、単に批判しても済みません。僕なら「形にこだわる〈伝統家族〉から、機能にこだわる〈変形家族〉へ」と言う場面だけど、かつて機能したモノを、実体として再建するのは、社会的文脈が変わったから不合理です。見かけは昔と違っても機能的に等価な仕組が必要です。
年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談、まもなく『週刊読書人』に!

またしても、ポピュリズムであります(苦笑)。宮台、お前もかでありますが、ポピュリズムのレトリックをしてデマゴギーを振り撒くのは、思想家たる資格はもとより、ご自身のそのせっかくの言説価値を著しく貶めることになるのであります。

そもそもからして、宮台の考える社会システムを「変革」する方法論からして、勘違いも甚だしいのであります。

【宮台】[NPO運動はもともと草の根共同体だったのにメガビジネス化したという悩みは]そうですが、日本はそれを悩む所まで距離がある(笑)。日本では「補助金ぶら下がりマインド」を淘汰する設計が必要です。ちなみに僕は中沢新一さんやマエキタミヤコさんと「グリーン・アクティヴ」というプラットフォーム作りに参加しました。グリーンの一点で価値をシェアできればどんな団体や個人も関われる場を提供する。コンセンサス会議の場の提供。多様な団体が随時連合し、得意領域毎にコーディネータを交替し、ワークショップを開く。ワークシップを開けばOKという訳じゃない。皆で議論すればいいことが決まるなんて戦後民主主義的な錯誤です。愚民が話し合っても愚民のまま。どうすればワークショップを有効化できるかのノウハウが大切です。主題毎に交替するコーディネーターが努力して、中身のある討議に必要な専門家、つまり科学の民主化に貢献するミドルマン(ポール・ラザースフェルト)を連れてくる。コンセンサス会議のポイントは非専門的な参加者全員が決定に関与することだからです。専門家にどうすれば素人が異議申し立てできるか工夫する。「専門家でもないクセに」と愚昧な揶揄をする一部2ちゃんねらーの如き馬鹿を徹底淘汰する。僕は世田谷区でこれを現実化しようと思いますが、実践を通じて浮上する問題が多々あり、学びもあるでしょう。
年末恒例の「渡辺靖×苅部直×宮台」鼎談、まもなく『週刊読書人』に!

なにをいまさら世田谷区なのかと言う問題はおいておくとしても、この「グリーンアクティブ」と、橋下のすすめる「政治塾」との間の、圧倒的「チカラ」の違いは、いったいなんであるのか。

これをよおーくお考えいただきたいのであります。

それは、圧倒的な「リアリティ」の違いであります。そしてこれは、思想的には「正統性」の違いなんであります。

中沢新一代表によれば、「グリーンアクティブ」の当面の課題は、?原発から代替エネルギーへの転換?TPP反対?消費税増税反対?疲弊した地域社会の再生の4点であるとのこと。
2012/02/13「グリーンアクティブ」立ち上げ記者会見

どの課題を見てみてもみな、すでに議論として「終わった」お話であります。

いま喫緊に必要なことは、「議論」の「実践」ではなく、「行動」の「実践」であります。

人はみな、いまのいま、具体的な「行動」と言う「リアリティ」を求めているのであります。

課題をどのように「解釈」するかの「議論」には、もはや私たちは微塵も「リアリティ」を感じることはないのであります。もはやそこには、ただうそくささのみ残るだけであります。

これを「科学の民主化」なんて言葉で「正統性」を持たせようとするから、ますますうそくさくなるのであります。

そうではなく、橋下の「政治塾」には、課題実現に向けた、確かな一歩としての「行動」がある。

そして、この「行動」にこそ、政治を志す者が忘れてはいけない「正統性」の本質があるのであります。

これを「ファッショ」だ、「ポピュリズム」だと揶揄することは、そのまま自身の言説が「行動」のともなわない、いわゆる口だけの無価値なものであることを自らが証明することであり、これをまったくもって根本的な思想家の堕落と呼ぶ以外には他にないのであります。

ここであらためて、ではこの思想としての「正統性」とはいったいなんであるか、これをご説明する必要があるのでありますが、このご説明のためにぜひもう一つの事例をここでご紹介させていただきたいのであります。

それは、松本徹三氏のこの記事であります。

一昨日の2月11日は「建国記念の日」だった。この日は戦前において最も大きな国民的祭日であった「紀元節」と同じ日で、神武天皇が即位したと推定されている日に当たる。この日を「建国記念の日」とする事については勿論多くの反対意見もあったが、国民の大勢はこれを支持し、「憲法記念日か講和条約締結日を建国記念日とすべき」とか、「そもそも建国記念日等は要らない」という人達の意見は斥けられた。

私は、毎年いつも大きな感慨を持ってこの日を迎える。そして、若い人達に対する歴史教育の重要性について、あらためて思いを馳せる。この様に言うと、多くの人達は、私を巷に数多くいる「懐古的な右翼老人」の一人だと勘違いされるかもしれないが、実は私の考えはその正反対なのだ。私は、この日を、一時期の日本人に大きな勘違いをさせて日本を悲劇に追い込んだ「皇国史観」の誤りを明確にし、歴史を「集団的な感情(愛国心)」や「国家的な策謀」から完全に自由な「科学的で公正な学問」として見詰め直す好い機会だと考えている。
「建国記念の日」の意義

もちろん、この松本徹三氏は思想家でもなんでもない。このKAI_REPORTにもご登場いただいた「好々爺」であります。

しかし、このごく普通の一般人からして、国家の歴史を「科学的で公正な学問」として評価しようとする姿勢に、KAIは極めて違和感なるものを感じざるを得ないのであります。

すなわち、国家の歴史も政治も、「科学的で公正な」ものを価値基準とするには、あまりにも次元の異なるテーマでありまして、これは決して松本氏が悪いとか間違っているとかの問題ではないのであります。

つまり問題は、現代思想家が「民主主義」とはなんぞや、「資本主義」とはなんぞやを、国民にまったくもって説明できなくなっていること、そしてその当然の帰結として国民が思想を共有できなくなってしまっていることにあるのであります。

サンデルの説く「正義」を深く思考することもなく受け入れ、そのまま「格差社会」を善悪で論ずるなどと言うきわめて低レベルの、思想と呼ぶにはあまりにもおそまつな「頭脳」なのであります。(例えば先の「グリーンアクティブ」も、中沢新一は「格差社会を助長するTPPなどの政策に抵抗」などと言って「反格差社会」をアプリオリの「共通善」としている)

そんななかで、一般の人たちにとって唯一たよりになるのが「科学的で公正な学問」であったと言うわけであります。

しかし、この「科学的」であることは、私たちになんの「価値基準」をももたらすことはないのであります。

私たち社会に、その「価値」なる豊かさを提供するのは、他のなんでもない私たちが共有する「思想」なるものであると、いまKAIは申しあげるのであります。そしてそれこそが「正統性」と言う思想なんでありますが、さてこれはいかなるものでありましょうか。以下次回に続くのであります。 KAI