「正統性」思想とは−−対米従属批判から見えてくる日本の風景

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このところ面白いように、このレポートのための情報がネットに上がってくるのであります。

今回の「正統性」思想のお話しをするうえで、外せないテーマであると考えていたのが「対米従属批判」の問題であります。

この「対米従属批判」がなぜ繰り返しやむことがないのか、あるいは、この批判の本質はどこにあるのか。かねてよりこんな疑問を抱いていたKAIは、これが「正統性」思想と直結しているとの直観を持っていたのであります。

そして、この直観に答えるかのような明察なるレポートを国際情勢解説者の田中宇(たなかさかい、って初めて読み方を知った!)が記事にしているのであります。

▼支配の実態がなく被支配体制だけの日本

 日本では、米国が沖縄への米軍駐留継続や、日本に対する支配続行を強く望んだ結果、沖縄だけ米軍基地が残ることになったと考える歴史観が席巻している。しかし、第一次大戦からの米国の世界戦略の歴史を俯瞰すると、米国が日本を支配し続けたいと考えるのは無理がある。

(中略)

 また、日本の官僚機構が対米従属に固執し続けている戦後史をふまえると、米国は沖縄返還とともに日本から米軍を全撤退しようとしたが、日本が米国を買収して思いとどまらせ、米軍は沖縄だけに恒久駐留を続けることになったと考えるのが妥当だ。日本人は「米国は日本を支配し続けたいのだ」と考えがちだが、これは、官僚機構が自分たちの策略を人々に悟らせないために歪曲された考え方だ。官僚機構の傘下にある学界やマスコミの人々の多くが、歪曲された考えを無自覚のうちに信奉している。

 米政府は、日本を支配したいと考えていない(日本市場で米企業を儲けさせたいとは考えているだろうが)。日本の権力機構が、支配された体制下でしか権力を維持できない(さもないと政界に権力を奪われる「民主化」が起きてしまう)。そのため日本では、支配者の実態を欠いた「被支配体制」だけが、戦後60年間ずっと演出されている。

 米国防総省は2004年まで、米国の同盟諸国が、自国での米国の駐留費のうち何割を負担したかを発表していた。04年に、日本政府は在日米軍駐留費のうち74・5%を負担していた。これはダントツで世界最高の負担率だ。第2位のサウジアラビアの負担率は64・8%だった(その他アラブ産油諸国の負担率も同水準)。(Allied Contributions to the Common Defense 2004)

 サウジなどアラブ産油国は、自前の軍隊を持つと、軍部が反王政の民意を受けて王政転覆のクーデターを起こしかねないので、王室が軍隊を持ちたがらず、石油ガス収入の一部を払って米軍に駐留してもらい、防衛力としている。石油成金の独裁で臆病なサウジの王室より、立派な自衛隊と世界第5位の防衛費を持った日本の方が、米軍駐留費の負担率が10%も大きいのは異常なことだ。日本の官僚機構が米軍を買収して駐留させていることが見て取れる。

(中略)

 その海兵隊が、辺野古建設とグアム移転の費用支払いという、現行の日本からの買収体制を無視して、グアムや米本土への撤退を始めることになった。日本の官僚機構にとっては、ベトナム戦争後以来40年ぶりの、米軍撤収・対米従属体制瓦解の大危機である。ここまで書いてかなり長くなったので、現行の危機についての説明は次回に回すことにする。
日本の権力構造と在日米軍

この問題と直接的にまったく関係ないかのように見えるお話ではありますが、野党となった自民党のこのところの低迷(と言うより凋落ぶり)の原因がどこにあるのか、この記事を読むとなんとなく見えてくるのであります。

「もともとからして官僚の後ろ盾のない自民党には、力も人材も何もなかった」ってことであります。

で、問題の従属批判であります。

そもそもにおいて、この従属批判は、多様であります。主義主張がまるでバラバラなんであります。

しかし多様ではありますけれども、沖縄米軍基地問題、日米安保問題、憲法改正反対あるいは賛成、グローバリズム批判、市場万能主義批判、反格差社会とどの主張をとっても、まことにもって不思議なことに、「対米従属反対」の一点のみにおいて、これらは「共通」しているのであります。

なぜこうなるのか。

これを説明するのが、今回のこの田中宇の「支配なき被支配体制」と言う言葉であったと言うわけであります。

見せかけの巧妙に仕込まれた米国従属体制、とは見事なまでの慧眼ではありませんか。

なるほど、仮想敵としての、イリュージョン国家米国を仕立て上げることで、官僚支配をカモフラージュする。

であるなら、いままで従属批判を繰り返してきた方々がその批判の対象としてきた矛先は、すべてお門違いもいいところだったと言うことであります。

さて、本題はこれからであります。

この官僚による「支配の実態のない被支配体制」に正統性はあるのか。これが問題であります。

もしあるとすれば、それはいかなるものであるのか。またそれを改革せんとする方々にとって、本丸を打ち破るにはいかなる方法があるのか。今回はこれを考察するのであります。

これをよくよく考えていくと、この「支配なき被支配体制」の正統性を支えているのは、実は他でもない「米国従属批判」それ自体が、この正統性を担保していると言う、不可思議な事実に行き当たるのであります。

つまり別の言い方をすれば、「ぼく、米国従属批判、止めるもんね」なんてみんながみんな言い出したら、たちまちこの「被支配体制」の正統性は失われてしまうってことであります。

そうでしょう、「米国なんて問題じゃないよね」って言って、「じゃあ誰が問題なのよ」って国民がこれを考えだしたら、たちまちこの風向きがいまの政治、すなわち政府に向くのは、あたりまえ。

そうです、なんと日本でも「ジャスミン革命」が簡単に起きることがあるってことであります。

そしてそれは、反政府運動とはちょっと違う、反官僚体制運動と言う形で顕在化していくのであります。

おそらく、そのリーダーとなるのが「橋下」。

と「官僚機構」側が考え始めて、メディアをあげて「橋下」たたきに高じたのが先の大阪市長選挙であり、いまだ鳴り止まない「橋下」批判の真因がここにあると考えると、まことにもって納得のいくお話であるのであります。(「橋下」たたきの連中と「対米従属反対」の連中が奇妙に「一致」していることからもこれは分かる)

このお話で面白いのは、いままでその可能性が(つまり官僚機構の敵で)あったために展開されてきた「小沢」つぶしとの違いであります。(結果的に国家権力あげての小沢つぶしは事実ですが、これはすでに何度もここでご説明の通り自業自得)

すなわちそれは、「橋下」はたたけばたたくほど「チカラ」を得てきていると言う、「官僚機構」側からすれば、きわめて不可解であり不都合な真実であります。

「小沢」たたきとどこが違うのか。これこそが、「正統性」のあるなしの違いであったのであります。

「小沢」になぜ正統性がないのかは、前述の通りであります。

ではなぜ「橋下」には「正統性」があるのか。

それは批判はされても、すべて徹頭徹尾「民主的」プロセス(「対話」と「議論」と「選挙」)を経てやってきているからであります。

「小沢」も選挙に勝てばなんでもできるなどと不遜なことを言っておりましたが、徹底的に「対話」や「議論」不在の民主党にあっては、とても「民主的」プロセスを踏んでいると言える代物ではないのであります。

しかし、「橋下」の「正統性」は、単に「民主的」プロセスにあるだけではないのであります。

実は、これこそ今回のポイントであるわけでありますが、それは「官僚機構」が密かに構築してきた「支配なき被支配体制」の、「対米従属批判」によって支えられている「不完全」とも言える「正統性」に対する、これを「中心線」に戻す「自然治癒力」として本来の「正統性」、これこそが「橋下」の持つ「正統性」の本質であったのであります。

この「正統性」は強力であり、強靭であります。

もはやこれに対抗できる、既存政党は日本には存在していないのであります。彼らが、もし「橋下」と連携するにしても、そうとうの「覚悟」がいることを承知してかからないと、自分たちの存立基盤そのものが否定される事態に陥るやもしれないのであります。

さらに、人が、どんどんと集結しはじめているのは、すでに報道の通りであります。

しかも、お金も、稲盛氏が選挙資金を出せば、あとは総選挙を待つだけ。

市長兼首相、前代未聞とかなるものを、KAIは一度見てみたいものであります。 KAI