レトリック思考再び--東大話法は東大入試から試されている

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いやはや、そう言うことだったのか、なんであります。

東大入試の国語、内田樹氏の「反知性主義者たちの肖像」(日本の反知性主義に収録)から出題だったのか。これ、ネットでは酷評されてたという印象なんだけど、それでも、ここから出題したいと思う切実な思いが、東大の文科系の中に、あるんだろうと想像する。
Twitter、Masaki Ito@niyalist、21:34 - 2016年2月27日
なんと今年の東大入試に、あのレトリック思考の権化、ウチダ先生の文章が出題されたとのことであります。

なるほど、こう言うことだったのか、と言いますのも、かねてより東大話法もレトリック思考の一種であると申しあげてきたのでありますが、このレトリック思考の典型的文章が、東大入学者のフィルターとして採用されていると言うことの意味することの、その問題についてであります。

つまり、東大と言う大学は、レトリック思考(東大話法)のできる学生を、初っ端から選抜していたと言う、言われてみれば、なるほどなと納得する事実なんであります。

今回のお話は、これでお仕舞いなんでありますが、それではお話がなにがなんだかわけわからんと言う方のために、少しばかり補足させていただくのであります。

まずは、「レトリック思考」でありますが、このレポートで何度もとりあげさせていただいておりますので、こちらをご覧いただきたいのであります。

続いて、さきほど引用させていただいたツイッターの中の「反知性主義者たちの肖像」でありますが、「日本の反知性主義」と言う書籍の中の一節であります。

【目次】
反知性主義者たちの肖像 内田樹
反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴 白井聡
「反知性主義」について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくて
イヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、
と思って書いたこと 高橋源一郎
どんな兵器よりも破壊的なもの 赤坂真理
戦後70年の自虐と自慢 平川克美
いま日本で進行している階級的分断について 小田嶋隆
身体を通した直観知を 名越康文×内田樹
体験的「反知性主義」論 想田和弘
科学の進歩にともなう「反知性主義」 仲野徹
「摩擦」の意味──知性的であるということについて 鷲田清一
日本の反知性主義、晶文社、内田樹他(著)、2015/3/20
さて、このウチダ先生の文章のいったいどこがレトリック思考の典型であるのか、これを詳細に考察した記事が、こちらであります。
冒頭には内田樹のまえがきがあり、この雑文集の成り立ちと意図を解説している。そこには寄稿者への依頼文も収録されていて……そこにホフスタッターもしっかり引用されている。続いて、内田樹による反知性主義に関する考察が展開される。この文章は本アンソロジーの中で最も長い。この二編で、全300ページ強の本のうち60ページを占める。10人が寄稿している本なので、シェア的にはみんなの倍くらいをがめていることになる。

そして、これはとにかくひどい文章となっている。そのひどさのポイントは以下の通り:
・ホフスタッターを援用しつつ、ホフスタッターがまさに「反知性主義」と指摘したものを「知性」だと強弁しておきながら、それについて何ら説明がない
・自分の立場の絶対的な正しさについて一切の疑問がない。自分は知性の側であり、自分と意見がちがえばそれは反知性でありデマゴーグであり陰謀論という決めつけばかり。
・科学における「仮説」の役割をまったく誤解した上で変なロマン主義に陥っている。
・自分の見解を批判し否定すること自体が、それがまちがっている証拠であるという実に便利な屁理屈。
反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。

と、引用ばかりでは無責任でありますので、KAIなりのご説明を付け加えておくのであります。

すなわち、レトリック思考とは、結論ありきの思考方法なのでありますが、今回のウチダ先生の文章の結論とは、「自分と意見が違う者はみな反知性主義者である」と言うものであります。

この結論を、あたかも論理的に導かれたかごとくその根拠となる事例をつぎからつぎへと列挙していくのでありますが、そのことごとくが、山形氏も指摘するように論理的に破綻をきたしているのであります。

ところが、この文章をレトリック思考者が読むとどうなるか。

例えば、ホフスタッターの「反知性主義」と書かれた一節があると、レトリック思考者がこれを読むと、たちまちにして、内田樹の「反知性主義」となるのであります。

ウチダ先生の言うところの「反知性主義」とは、すなわちホフスタッターの「反知性主義」であるとの、見せ掛けの論理(これがレトリック)を無条件に受け入れてしまうのであります。

レトリック思考者がなぜこういった過誤に陥るかと言いますならば、それは彼らの前提として「ウチダ先生はホフスタッターの反知性主義を正しく理解している」との信頼を持っているからなのであります。

ウチダ先生なら、間違ったことを書くはずがないってわけなんであります。

ところがどっこい、山形氏が指摘するとおり、「ホフスタッターを援用しつつ、ホフスタッターがまさに「反知性主義」と指摘したものを「知性」だと強弁」してしまうのであります。

これが、フェルマー予想やリーマン予想なる言葉を次から次へと持ち出してきては、万事が万事にわたって「結論」を導く根拠としていくのであります。

このあたりの議論については、これまで何度もこのレポートに書いてきているのであります。あわせてこちらのエントリーもお読みいただきたいのであります。

なぜ哲学は不在するのか?(3)
と言うことで、東京大学と言うところでありますが、東大話法(レトリック思考)を理解する能力のある学生を選抜し、4年間でさらにこれに磨きをかける大学であるとの結論を、KAIは得ることができたのであります。 KAI