KAIは、リスクに関する専門家でもなんでもないけれど、このところ世の中巷噴出するリスクに関する議論は、根本から狂っている。
今回の議論の発端になった原発。
事故原因を、リスクとそのコスト負担の議論に帰結させようとする方々は、根本的にご自身の「お頭」のレベルが小学生以下であることを自覚した方がいい。
リスクがより高ければ高いほど、リスクに対するコストが高くなる。
一見、真実のようで、まるでそうではないのであります。
高い津波に耐える原発を作るコストは膨大だと。だからできなかったと。
リスクをゼロにしようと思えば思うほど、コストは上がる、と。
一体誰が「リスクをゼロにしろ」と言っているのでしょう?
人は生きている以上、世の中のありとあらゆる事象にリスクは伴う。リスクゼロと思われた東電株も、もはや紙切れ寸前。
リスクとコストの間には、実は何の関係もない。
リスクと直接関係するのは、コストではなく、「保険」なんであります。
もちろん「保険」と言っても「コスト」と言う「お金」のことではない。
例えば、飛行機事故のリスク。エンジン故障のリスクを減らすために、予備のエンジンをいくつもつけるのかと言う暴論は問題外にしろ、常に飛行機が事故にあうリスクはゼロにはならない。
2機あるエンジンが両方ともストップしても、そのまま墜落して乗員、乗客全員死亡とならないよう不時着できるようにするのが、この場合の「保険」。
今回の福島原発の電源喪失。もちろんこのリスクは「想定内」だから、バッテリー、自家発電、すべて用意したのに、これもすべてダメになった。
そんな事態になっても、電源喪失を回避する手立てが「保険」なんであります。
どうやって?
簡単でしょう、今回取った方法と同じことをすればいい。「外部電源」であります。
実は、今回のリスク議論の盲点は、ここにあるのであります。
そもそも「外部電源」の電源喪失と言うリスクに対して、「外部電源」以外の方法を考えると言うのは至極当然のように思われるけれど、今回のリスクは、「電源喪失」であって「外部電源喪失」ではない。
この「リスク」の本体を勘違いしたために、取られた「リスク対策」がすべてダメになった場合でも危機を回避するための「保険」が準備されることはなかった。ただそれだけのことだったのであります。
別系統の「外部電源」と言う「保険」にかかるコストがどれだけのものか。素人が考えてもこんなことは簡単に分かる。
要するに、「保険」をかける、と言う概念の欠如こそ、今回のリスクにおける最大のリスクであったのであります。
これもまたシンクロニシティ。IT業界にもリスクの嵐であります。
日本ヒューレット・パッカード(日本HP)は2011年4月26日、データベースに関する新戦略の発表会を開催した。新戦略では「データベース ロックリリース」をキーワードに、特定のベンダーの製品にロックインされがちなデータベース環境を、他のベンダー製品上に移行しやすくするサービスを提供する。これにより、データベースベンダーに対するユーザーの価格交渉力を高めることを狙いとする。
日本HP エンタープライズサーバー・ストレージ・ネットワーク事業統括の杉原博茂執行役員(写真1)は、新戦略を発表した背景として「ユーザーのコストを削減するには、データベースソフトに支払うライセンス費用を見直すことが必須になっている」ことを指摘する。日本HPの試算で2005年の同一性能モデルと現在のコスト構成を比べてみると、ハードウエア費用は20分の1以下になっているのに対し、データベースは30%強ほど下がっているに過ぎない(写真2)。結果として、データベースソフトのライセンス費用が、サーバーのハードウエア価格の約11倍に達しているという。
続いて説明に立ったサーバーマーケティング統括本部 製品戦略室の山中伸吾室長(写真3)は「2010年12月に日本オラクルがItaniumベースのプロセッサーライセンス係数を予告なく2倍にしたことで、プロジェクト進行中のユーザーに多大な予算増が発生してしまった」と、今回の戦略に対するきっかけとなった出来事を説明した。その後の2011年3月に日本オラクルがItanium環境に対する新規開発終了を発表したことについても触れ、「市場を無視して自社の環境に乗り換えさせようというもので、こんな暴挙が許されるのか」と怒りを隠さない。
(「ユーザーに対する暴挙を許せない」、日本HPがOracleからのDB移行戦略を発表)
サンを買収し、MySQLまで手に入れたOracleが、いよいよ脅威になりだして、そのリスクに「保険」をかけようってお話であります。
そして、こちらはクラウドのリスク。
日本時間の2011年4月21日(米国時間 20日)から、Amazonが提供しているクラウドコンピューティングの基盤サービスであるEC2に重大なトラブルが発生している模様で、世界規模で さまざまな利用企業に対して深刻な影響を与えています。
このトラブルのため、カナダのソーシャルメディア向けコンテンツ配信サービスのHootSuieや、Q&AサイトのQuora、位置情報ゲームサービスのFoursquareなどの有力ネット企業が一時的なサービス停止に追い込まれています。
実は僕が経営するモディファイのSaaSサービス群のほとんどが、このEC2を利用しており、我々の事業に(とクライアントの皆様に)も決して軽くない影響が出ています。(クライアントやユーザーのみなさまには多大なご迷惑をおかけしていることに、大変申し訳なく思っています)
(AmazonのEC2長時間ダウンにみるクラウドコンピューティングの未来)
ITにとってバックアップと言う「保険」は当たり前。バックアップとは、データのことを言うのではない。サービスそのもののバックアップを言うのであります。
基幹の業務に利用しようと考えれば考えるだけ、このバックアップのないサービスなど、怖くて使えない。
ミッションクリティカルと言う言葉がありますが、こう言ったシステムの開発経験のない技術者には、なかなかこれが理解できないのであります。
いまやSNSやツイッターもダウンすれば大騒ぎになる。だから、このサービスを支える技術者たちはアクセスが集中してもダウンしない程度の技術まではわかるけれど、それでもダウンしてしまってから、ではどうすればいいかの技術がわからない。
クラウドは、決してブラックボックス化と同義ではなく、むしろ180度反対に位置する技術であることの理解こそ、この「保険」がいかに重要であるかをご理解いただく一歩となると、KAIは考えるのであります。 KAI
このとき、こう発言したならば・・・。
すべて私の責任です。残念ながら情報が上がっていなかったためですが、国家存亡の危機に際し、官民一致でことにあたる体制の重要性を肝に銘じ、二度とこのようなことがないよう、全身全霊で取り組みます。
枝野氏は「名古屋−東京間は車を飛ばしても走れる状況だ。なぜ自衛隊に頼んだのか。自衛隊機が飛ばないなら自動車を飛ばすのは当然だ。常識ではないか」と強弁。「北沢防衛相は(輸送機について)被災者救援の輸送を最優先すべきだと指示していた。被災者救援に総力を挙げていた状況だったので防衛相の指示は妥当だった」と正当性を強調し、清水氏を輸送機にいったん乗せた自衛隊に対して「防衛相決裁を受けずになぜいったん飛び立ったのか、逆に不思議だ」と不快感を示した。
(東電社長・自衛隊機利用問題 枝野氏らが責任転嫁 「車を飛ばすのが当然だ」 実際には不可能)
オレは責任とりたくないんだ!
(人はなぜ「染まる」のか?)
「自分自身の問題」であるかどうか。ただ一点、ここにあるのであります。
一方で、実に、責任の取り方の見事なまでの見本が、こちら。
東日本大震災による津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸にあって、岩手県普(ふ)代(だい)村は死者ゼロ、行方不明者1人にとどまった。被害を食い止めたのは、かつて猛反対を受けながらも村長が造った高さ15・5メートルの防潮堤と水門。そして震災当日の消防士の献身的な行動だった。
普代村は明治29年と昭和8年の大津波で計439人の犠牲者を出した。
昭和40〜50年代に普代村の村長を務めた故・和村幸得さんは防災対策に力を入れ、同43年、漁港と集落の間に防潮堤を、同59年には村を流れる普代川の河口から600メートルの場所に水門を完成させた。
2つの工事の総工費は約36億円。人口約3千人の村には巨額の出費で、15メートルを超える高さの必要性が疑問視されたが、和村さんは「明治29年の大津波は高さ15メートルあった」という言い伝えに基づき、譲らなかったという。
しかし防潮堤と水門だけでは村人を救うことはできなかった。3月11日、地震と同時に水門脇のゲートの自動開閉装置が緊急停止したのだ。ゲートが開いたままだと、川を逆流してきた津波が村の中心部をのみ込んでしまう。
(巨大防波堤で死者ゼロ 岩手県普代村 村長の信念と消防士の献身が結実)
久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)ら消防士3人は、地震発生直後、大津波警報の出る中、ゲートに向かった。故障したゲートを閉めるには水門の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。津波の危機感はあったが、「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。3人は機械室に到着するとすぐにゲートを閉めた。立臼さんは、引き揚げようと消防車に乗り込んだとき、背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いたという。普代川を逆流してきた津波が防潮林をなぎ倒し、水門に押し寄せてくる音だった。消防車のアクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。
漁港は大きな被害を受けたものの、防潮堤に守られた村中心部は無傷。津波は普代川をさかのぼり水門を越えたが、住宅地や小中学校までは及ばず、河原の木々が倒れた程度だった。
立臼さんは「水門で9割方の水は止まり、流れ込んだ波も強い雨が降った程度ですんだ。もし水門が10メートルしかなかったら被害の多かったほかの地区と同じように壊滅していたかもしれません」と振り返る。
((2/2ページ))
そして、村長のこの「決意」が、大きく時間の隔たりを超え、消防隊員に伝わって、村人の命を守った。
「末代におよぶ村民の命」までをも、「自分自身の問題」として考える。
リーダーがいかなる言辞を弄しようとも、人々はこの人物が考えている「自分自身の問題」がいかなるものか、瞬時に感じ取ることができるのであります。
また、この人々の気持ちを、優れたリーダーであればまた同様に感じ取ることができるし、凡庸なリーダーは微塵も感じることはない。
と言うよりなによりも、これを感じることのできない人物を、私たちはリーダーに選び続けている。つまりは、末期的シンドロームの本質とは、実にここにあるのであります。 KAI
復興税に賛成が6割近くもあると言う。ほんと、バカ国民ばかりになったもんだ。ただただ、あきれるばかりであります。
そう言えば、増えすぎたネズミがつぎつぎと海へ飛び込んでいく童話がありましたが、こうしてバカばかりが増えすぎて復興税賛成者が海に飛び込むように彼らの資産がインフレ消滅していっていただくのは、おおいに歓迎であります。
おまけに、自分たちの給料、年金を減らさずして、電気料金を1円でも上げてみろ。連方含めておまえたちは間違いなく地獄に落ちるでありましょう。
おっと今回は、そんな話ではありません。
今回のテーマは、「知」。この飢える「知」、であります。
なぜかこのところ、血(知)に飢えるドラキュラの気持ちが、よくわかるのであります。
あまり人のことは言えないけれど、ネットで読む文章には、明らかに2種類あって、このところこれがますます顕著になってきたことを感じるのであります。
つまり、1行読めば、これがあと読むべきものか否かってことであります。いえ、内容までもいかなくて、タイトルだけで読みたいかどうかが瞬時に分かる。
この理路をご説明する前に、これと関係する話が、これ。
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使い方だけでなく、料金プランやサービスのこともすぐに知ることができる。
(らくらくホン ベーシック3)
このお話のポイントは、もちろん「声」のサービスがどうのこうのと言うお話ではなく、「使い方」ボタンのような「知りたい」ことへの「ショートカット」なんであります。
いまや私たちは、インターネット社会になって、「調べる」と言うことを当たり前のように要求され、またこれに私たちも慣(らさ)れてしまっているのであります。
これに対して、もちろんグーグルの検索エンジンがあるのですが、いまひとつ思った文章や説明にたどりつけないことが多々あるのであります。単なる用語の説明などは、昔に較べれば格段に便利にはなった。便利にはなったけれど、これはあくまでpull型。
これって、ATOKに較べて、いつになっても進化しないIMEの日本語変換のもどかしさに似ているし、おおむかしに指摘したことのあるはてなの問題にも似ていて、まだまだ「知能」が足りないんであります。
どうもこう言った方々の、人間の「知能」への理解が、根本的なところで大きく違っているのではないかと思うのであります。
このもう少し分かりやすい例をあげてみましょう。
ほとんどのブログには、「カテゴリー」機能があって、ひとつひとつのエントリーがどのカテゴリーの記事であるか示せるようになっているのであります。このKAI_REPORTは、もちろんこんな「チープ」な機能は使わないのですが、同様にこれに気づいたかどうかは別にして、この使い方を変えたのがアゴラ。
昔のアゴラの記事を見ればわかるけれど、このカテゴリーは、「政治」、「経済」、「科学・文化」といった、いわば新聞の記事分類と一緒。これが今は、「OPINION」と一括りされ、あと「投稿募集」、「ゲストブロガー」、「良書悪書」、「投稿」、「使える経済書」、「アゴラブックス」とある。明らかに、「カテゴリー」を「記事」の「内容」の分類としてではなく、機能の一部である「目的」として使っているだけなんであります。
おそらく誰も、「政治」、「経済」、「科学・文化」と言うカテゴリーで検索して記事を読んでいた人はいないと、KAIは想像するのでありますが、おおかたの方々のブログの「カテゴリー」もまた同様なんであります。
こういった例をあげはじめると切りがないんでありますが、要するに「知能」とは、単純に「カテゴリー」で分類できるような「線形」ではなく、もう少し別の次元で理解する必要のある、そう言う種類のものであると言うことであります。
この理解をもう少し深めるための事例が、これ。
菅直人首相は21日午後1時前、福島県田村市の避難所である総合体育館を出た。「もう帰るんですか」「無視していくんですか」。首相に向かって同県葛尾村から避難している夫婦が呼び止めた。
首相は「ごめんなさい。そういうつもりはありませんでした」と謝った。
呼び止めた夫婦は「生後4カ月の孫を抱えている。この子たちは、これからなんです。先の見えない不安を抱えながらながらやっているんです」と泣きながら訴えた。首相は「子供たちのためにも全力を尽くしてやっている」と答えた。
(避難夫婦、首相に「無視していくのか」 首相「ごめんなさい」)
「子供たちのためにも全力を尽くしてやっている」
夫婦が「知りたい」ことは、「これから」のこと。「子供たちのためにも全力を尽くしてやります」と言えばいいだけなのに、そうではなく、この無能者が答えたのは、「やっている」と言う「これまで」の言い訳。
さて、これだけまるでそれぞれ無関係に思えるお話を並び立て、いったい何を言わんとしたいのか。
それはすなわち、「知」。「読みたい」、「知りたい」、「訊きたい」と思う「知」は、いますでにあることの「知」ではない。「これから」の「知」であり、自分にとっての「未知」の「知」。
そして、これが「未知」ではあるけれども、この文章を読めばとか、このボタンを押せば、分かる気がする、これをすなわち「予知」の「知」と言うのであります。
いままでさんざん「予知能力」について、ここで言及してきましたが、「知」そのものにおいてもこの「予知能力」は、そのまま有効なんであります。
順にご説明しましょう。
まずネット上の文章について。この文章を読めば読みたい文章かどうか、読む前から瞬時に分かると言うのが、「予知」の「知」。なんでこんなことがあるのかと言えば、自分自身がこの文章と同じ時間軸上に立つことによって、これから起きることがそのまま見ることができるのであります。すると、悲惨な姿が見える文章もあれば、興奮を禁じえない文章もある。そう言うことなんであります。
「使い方」ボタンや、「電話で相談」。これもまたこれだけでは、まったくもって判断できない。にもかかわらず、ボタンを押し電話するのは、電話するその前からすでに、電話で解決し満足する自分自身が見えているからに他ならないのであります。
ATOKで思った単語を入力して、ことごとくに思い通りの漢字が出てくる、日本語変換もまた、「予知」と言う形で自分自身の力がこれから起きることを遠隔操作した結果に過ぎない。
これが、IME変換も、カテゴリーやキーワード検索も、まるでそうはならない。
同様にまた、あいかわらず、はてなに進化は見られない。言葉が同じだけでリンクさせるのではなく、ここになんらかのルールを導入しさえすれば、見違えるような「知」のネットワークを構築できると言うのに、なぜかここで思考停止する。まるでトラウマのように、であります。(解決のヒントは、思想は言葉ではなく用法と言う機能にあることを学べばいいだけ)
そして、無能者の、共感できないコミュニケーション。
これもまた、人が希望を持てるのは、明日への可能性を見出すことができるから。すなわち、人が人に言葉を発し、人が人に言葉で答えるのは、それは一見儀礼的のようでいて、実はそうではなく、そのプロセスこそが私たちにとって、唯一のリアリティをそこに感じることができるからなんであります。
同じ被災地の見舞いでも、天皇皇后両陛下のそれが違うのも、ここにこの悠久の時間の流れを見ることができるから。
そう言えば、この間実家への1200キロドライブ、いつになく愛車のエルグランドの足回りがゆるい気がした。
もう10年13万キロだから致し方ないと思いながら、定期点検とタイヤの履き替えに日産のサービスに持ち込んだら、スタッドレスの空気圧が低かったからとわかって、納得。
人とマシンとの間にある、ほんのわずかな感覚。10年と言う時間軸の中の「知」と一致した瞬間であります。 KAI
いや、この問いは、間違っている。替えることができないのではない。替えることができるのに、なぜ替えようとしないのか?こう問うべきなのであります。
内閣不信任案は、間違いなく可決できるのであります。
もちろん、被災地が選挙どころではないことを鑑みれば、衆議院解散はありえない。確かに、菅ならやりかねないけれど、さすがにこれは誰も許さない。
そうなんです。こうなれば首相辞任以外にはない。
問題は、そのあと。
いったいぜんたい誰が次の首相をやるのか。
一番の問題は、ここにあるのであります。
これ以上民主党の小沢切りを率先してきた者から出すのは、不信任案に投じた小沢派が許さない。もちろん小沢派では野党が認めない。もっとも可能性があるのが、谷垣。これも、しかし、谷垣に緊急時のリーダーシップがあるとは誰も思ってはいないから、面白くない。
ある意味、今回のキャスティング・ボートを握るのが、小沢一派。野党がこのまま小沢が主流になることを認めることはないのは、わかっている。小沢と組むことができ、かつ、いまのいまリーダーシップをとれるのは舛添要一をおいて他はない。
官房長官、石破茂。以下各党から満遍なく閣僚を出す、正に危機管理内閣。
これが大連立と違うのは、民主党から閣僚は出るものの、民主党の政策(マニフェスト)が一切考慮されることがない(と言うより否定される)からであります。
これでうまく廻っていくのかと言う心配は、まったくもって無用であります。
一旦、これで政局問題がクリアされれば、緊急対策において「与党」間の意見の食い違いは、ない。たとえ多少あったとしても、十分調整可能であり、また逆に、この調整でよりすぐれた政策にもっていける可能性さえ出てくるのであります。
そして、半年後、この各党の奮闘の結果を国民に問う、衆議院選挙をやる。これぞ、民主主義的危機管理ではありませんか。
いかがでしょう? KAI
このところの「大気」の乱れが気になって、あらためてこのブログを読み返していたら、ちょうど1年前の5月、こんなことを書いていました。
「戦争」や「大地震」の気配を感じると思ったら、地球の反対側では火山噴火が始まった。
(中略)
そこで辺りをあらためて見渡すと、とてつもない恐怖のエネルギーの塊が、東アジアにもあるではありませんか。北朝鮮の、虐げられた国民の、そろそろ極限まで来た飢餓の恐怖のことであります。
北朝鮮はなぜ韓国軍艦沈没事件を起こしたのか。そしてこの事件に相前後して、デノミ失敗の見せしめに責任者が処刑されたこと。すべては国民を、飢餓の恐怖から目をそらすためであることは明らかなのであります。
しかし、これもすでに限界なのであります。
これが、軍部によるクーデターとなるかどうか。はたまた、(日本の)「大地震」となってバランスをとるのかどうか。まもなく「大気」は踊り始めるのであります。
(「大気」は踊る)
おまけに地震や原発報道で、すっかり影が薄くなったものの、この北朝鮮の動向も決して見過ごすわけにはいかない重要な出来事なんであります。
【ソウル=加藤達也】4日付の韓国紙、朝鮮日報は、北朝鮮で昨年6月、金容三・前鉄道相と文一峰・元財政相が相次いで処刑されたと報じた。金前鉄道相はスパイ罪、文元財政相は2009年11月に実施されたデノミネーション(貨幣単位の変更)の失敗の責任を問われたという。
北朝鮮の事情に詳しい筋は同紙に「金正恩氏への権力世襲とデノミ失敗が重なったため、平壌では昨年の初めから粛清の嵐が吹き荒れている」と指摘。粛清の目的について「権力世襲の邪魔になる人々を金正日総書記が抹殺しているらしい」と話している。
処刑された金前鉄道相は在任中の04年4月、訪中を終えて帰国する金総書記が乗った列車が北朝鮮の平安北道・竜川でねらわれた爆発事故で、極秘事項である列車の通過時刻を外部へ漏らした疑い。文元財政相は実務上はデノミには関与していなかったが、増大した住民の不満を抑制するため処刑されたという。
同紙はまた、軍需工業省や軍需経済を担当する第2経済委員会傘下の約20人も、兵器の輸出代金を横領した疑いで秘密警察である国家安全保衛部に摘発されたとしている。
韓国政府関係者は粛清の情報に関し、金前鉄道相については「事実」とし、文元財政相については「確認をしている」と述べているという。
(北朝鮮で粛清の嵐! 元閣僚を相次いで処刑 権力世襲の邪魔か)
すなわちこれは、このところ一挙に進行展開する北アフリカ・中東情勢に対する北朝鮮当局の不安の表れであり、軍部のクーデターに加担する韓国国内勢力への牽制でもあるのであります。
しかも、この不安が現実になる可能性が出てきた。それは、中央の統制がきかなくなって久しい地方軍部の中に、間違いなく北アフリカ・中東情勢が伝わっていることであります。ほとんど孤立無援であった彼らが、ひょっとすると世界が味方するかもしれない。そう理解したとき、間違いなくクーデターは起きる。
この1年の「大気」の大きな乱れの中で、地震の余震、連鎖反応としての地震津波から富士大爆発までを含めて、いまやなにが起きても不思議はない。
いまのいま、北朝鮮が暴発したとするならば、いったいどうすればいいのか。
私たちは、こう考えて、これに予め対処する必要があるのかと言えば、そうではない。例え3.11を予知していたとしても、社会レベルで動かない限り、地震、津波、放射能に私たちがまったくもって無力であることを、いまやこっぴどいまでに思い知らされたのであります。
もはやなるようにしかならない。
力を抜いて、これから起きることを泰然自若と受け入れる。「諦観」こそが、「踊る大気」の中にあって、活路を開く唯一の方法であることに、そろそろ気づく必要があるのであります。
そして、諦観の週末テニス。ウッシーが愉快な仲間をいっぱい連れてきた。
土曜は、愛娘のハナちゃんとカミさん。サコタくんと組んだウッシー相手に、ゲームは伯仲。6-4、2-6、3-2と久しぶりに勝ち越し。
日曜、ショージくんとコンドーくん。ショージくんと組んで、4-6、コンドーくん相手に6-0、ショージくん相手に6-1、ウッシーと組んで4-4。すべて順当の結果であります。
あとからウッシーがyoutubeにアップしたビデオを見て、がっくり。もっと躍動感のあるテニスしていると思っていたのに、まるで若さがない。おまけに、自分がミスする場面を見て、反応の遅さが原因と、納得。大きなヒントになりました。サンクス > ウッシー KAI
今朝も音を消して絵だけ映っているテレビを見ていて、思った。なんでテレビに出てくるこの民主党の方々は、どいつもこいつもよく似ているんだと。
なんとも言いようのない、能面づら。そう言えばどこかで見たことがあると思ったら、あれだった。小泉以前の、首相の国会答弁とおんなじだった。
オレは責任とりたくないんだ!
そう能面は、申しておるのであります。
組織に染まるって言葉がありますが、これはまさに「染まる」って言葉がぴったしカンカン。
染まるのは、「色」。もちろんその色は、「金色」。
哀しいかな、お金に代わる価値観を、持ち合わせてはいないからであります。
これを代表する、民主党政権。鳩山、小沢、菅、みな金まみれ。菅は比較的違うんじゃないと思う人は、これまた大間違い。
消費税増税はもちろん、TPP。いまや税金と言うお金のことしか頭にない。
(正統性問題は続く週末テニス)
東日本大震災復興策の青写真を検討する政府の「復興構想会議」(議長・五百旗頭(いおきべ)真(まこと)防衛大学校長)は14日、首相官邸で初会合を開いた。五百旗頭氏は会合後の記者会見で「復興に要する経費を考えると国民全体が負担する必要がある」と述べ、復興税創設を検討すべきだとの考えを示した。
(復興構想会議初会合 五百旗頭氏「復興税」を提唱)
それが「金色」とは、まったくもって、ええかげんにせいよ(怒)。
それにしても、五百旗頭(いおきべって、読めないよね^^;)ってこんな立派な人物までも、こんな簡単に人はなぜ染まるのか?
実は、その理由はこれまた簡単なんであります。
それは、人が、「気」の生き物だからであります。織物の生地が色の付いた水で染まるがごとく、人は、「気」の水の中にあっては瞬く間にその「気」の色に染まるのであります。
とは言え、染まらない人がいるのも事実であります。
この違いがどこからくるのかと言えば、これは以前にも書いたことがあると思うのだけど、人は「気」を吸うタイプと「気」を出すタイプに大きく分かれるのであります。もちろん染まるのは「気」を吸うタイプの人であって、「気」を出す人は簡単には染まらない。
「気」を吸われたことのある人には、この「吸われる」と言うなんとも居心地の悪い感覚が理解できるけれど、「気」を吸うタイプの人に、この自分が人の「気」を吸い取っている感覚は、ない。
この「魂をぬかれる」感覚は、人の生きるチカラ、すなわち生命力の源泉に関わる、きわめて重要な能力であります。
生命力とは、自分と言う個体の中にあるのではない。ほとんどの方々はこれを勘違いしている。朝、起きて、さあやるぞと、なんでやる気が出るかと言えば、それは他者との関係が良好であるからであります。これが良好であればあるほど、自分の生命力を感じる。
逆に言えば、人は、他者から生命力を吸い取って生きているとも言えるわけであります。テレビとは、視聴者と言う他者に生命力を吸い取られる、そう言うメディアであるのであります。
(テレビとは「意識の中の街の風景」(3))
これがいま、「不穏の大気」と化してしまったのであります。
突然欲したように週末、1200キロ、車を飛ばして、実家のある西の田舎まで往復。「大気」の中に戻ってリセット。そう言うことなんであります。 KAI
地震以来、この国の専門家、政治家、知識人と言われる方々の、一連の言動を見聞きするにつけ、原発で発生した「炉心溶融」は、彼らのお頭の程度、すなわち「レベル」を表す典型的、象徴的現象と言わざるを得ないと考えるのであります。
そもそもにおいて、一般的日本人のお頭の程度は、40歳を境にして、再構成可能なブロック脳と、再構成不能な溶融脳(融解脳)の二つに分化すると、KAIは考えているのでありますが、今回もまたこの自説を裏付ける事例満載なんであります。
融解脳とは、読んで字のごとし。ものごとの識別が、融けてしまって、区別できなくなってしまうのであります。融解脳を示す典型的特徴は、単なる韻を踏むとかだじゃれなどではない、本気モードの言葉遊びであります。
前にも紹介したが、中西輝政氏の『なぜ国家は衰亡するのか』に「大英帝国衰退の光景」という一章がある。あの繁栄を誇った大英帝国に20世紀初頭、衰退のきざしが見える。そのとき国民の間に何が起きていたかを丹念に調べ上げている。
▼例えば海外旅行ブームが起き、温泉ブームに沸く。古典より軽薄な趣味が増え文字よりマンガが好まれる。どれも今の日本や先進国に当てはまりそうだ。その極めつきが「健康への異常な関心」である。新聞は競って健康に関する記事を載せ、雑誌は健康法の特集を組む。
▼たばこを好きなだけ嗜(たしな)み、パイプをくわえ健康食品を買いにいく人を皮肉る記事もあったそうだ。今の日本にもありそうな話だ。むろん普段のときであれば目くじらを立てる話ではない。「健康であれば死んでもいい」というジョークも笑って聞き流せる。
▼だが今度の大震災では、食料もまだ十分確保できない人たちがいる一方で、風評被害や買い占めが起きている。ごく一部の作物から放射性物質が検知されただけで、野菜全体が売れない。水道水から一回だけ検出されると、もう水の買いだめに走る。
▼冷静に考えれば、いずれも健康被害にはほど遠い話だ。それがすぐパニック状態となる。それは異常なまでの健康ブームの悪しき影響と思わざるをえない。この非常時にも「自分と家族が健康であればいい」という気分が巣くっているのである。
▼温泉ブームも健康への異常な関心も国家衰退の光景であり原因ではないかもしれない。だが国民が一体となり復興に取り組まなければならないとき、風評に惑わされ買い占めに走る。それでは復興どころか、日本が衰退の道をたどりそうな気がする。
(産経抄、2011/4/10)
水道水から一回だけ検出されると、もう水の買いだめに走る。
この日、都は一斉に幼児の水道水の飲用を控えるように言い、備蓄のペットボトルの配布を始めたと言うのに、え、おたくの立派な社員さんたちは、それをおかしいと言って、拒否なさったんですな。なんともご立派なことで。
ま、こんなつまらん記事にかみついても、前向きな議論にはなりませんので、今日書きたかったことは、こちら。
融解脳の代表と言えば、この人。と言っても名前をあげるまでもありません。
国のリーダーの「脳」が、「溶融」していると言うことは、おそかれはやかれ国と言う「社会」自体が、「溶融」し始めると言うことであります。
このように大局的戦略がなく、空気に押されてずるずると状況的に意思決定が行なわれる日本的組織の欠陥は、現在の原発事故の処理をめぐる迷走にも受け継がれている。かつて丸山眞男などは、このような無責任体制の原因を天皇制による「権力の空白」を軍部が埋めたためだと考えたが、実は空白を埋めたのは「民意」だった。新聞が大本営発表を報じたのは言論統制のためではなく、好戦的な新聞ほど売れたためだ。
だから大江健三郎氏のいうように国民に罪はないが軍部が暴走したなどというのは、小説以下のフィクションである。国民の支持なしに、あれほど長期の戦争は不可能である。軍部の暴走を生んだのは、客観的条件を無視して「大和魂」さえあればどんな困難も乗り切れると思い込む国民と、それを説得できない(あるいは迎合する)政治家だった。愚かな戦争を生んだのは愚かな国民なのだ。
(戦争は「軍部の暴走」だったのか - 『あの戦争と日本人』)
こんかいもまた、あの原子爆弾による戦争終結の時と同じように、「原発爆発」と言う「神の手」によってしか、この悪夢を終結させ、地獄を脱する方法はないのだと、思わざるを得ないのであります。なんとも罪深い国民なんでありましょうか。 KAI
3.11以降、今ほど、専門家と言われる方々の価値が毀損した時代は、かつてなかったのではないかと思うのであります。
地震予知しかり、津波対策しかり、原発電源断しかり。
そしていま、これが経済にまで及ぼうとしているのであります。
円が売られている。今日のドル円相場は1ドル85円以上で取引されている。一方で日経平均株価は下落した。実態はどうであれ、トヨタ自動車やキャノン、ソニーのような輸出産業に経済が牽引されていると信じられている日本は、円安になれば株価が上がり、円高になれば株価が下がる、ということを繰り返してきた。日経平均株価とドル円レートはきれいな逆相関を描いていたのである。しかし311以降、この関係が崩れ始め、今日はまさに逆になった。つまり円が売られドルやユーロに対して安くなり、同時に日本株も売られ安くなったのである。
(円安で株価が上昇しなくなった)
その訳をご説明する前に、みなさんはなぜ「円安になれば株価が上がり、円高になれば株価が下がる」のか、この訳をどのように理解されているのでありましょうか。
これを専門家と言われる方々は、「逆相関」ととらえてあたかも両者が互いに従属変数の関係にあるかのように論じてきたのであります。まるでその根拠もなしに、であります。(互いに対して独立変数であるのが正解)
この「逆相関」が崩れたことに対して、この記事のコメントにあるように、これは一時的でありやがて収斂するとの意見もありますが、KAIはまったくもってそうではないと考えるのであります。
なぜ円が売られるのか。あらためて、この答えを申し上げるならば、それは市場が「メッセージ」を要求しているからであります。これに株価はまったく関係ないのであります。
ではこの「メッセージ」とは何か。
それは、「円」、すなわち、「日本国」と言う国家の安定に向けて、どうするんだと言う明確な意志、これこそが「メッセージ」であり、具体的には国家のリーダーの「言葉」以外には、これに代わるものはありえないのであります。
もちろん、この実現ももはや期待することすらできない状況においての、「円安」なんであります。
20年以上会社を経営してきたとは言え、「経済学」の素人であるKAIでさえ、こんなことは簡単に分かることであります。
KAIに言わせればマーケット、すなわち市場とは、すべて「気」の世界なんであります。
さて、ここで、今回の「円安」には、もう一つの重大な意味があることを指摘しておく必要があるのであります。
震災国債の日銀引受問題であります。
いわゆるマクロ経済の専門家と言われる方々、および彼らの言説に誘導される多くの賢明なる方々が、これに激しく反対されているのであります。
これにマーケットは、いかなる反応をしているかと言えば、「メッセージ」なき日銀引受への戒めであります。すなわち、専門家達が指摘する通りの「円」の毀損を、マーケットは予め「円安」で警告していると考える必要があるのであります。
この本当の意味が理解できるならば、日本のリーダーの「メッセージ」が期待できないいま、発すべき「メッセージ」とは、(ある)政治家の、「その帰結に対する責任」を最後までとる覚悟に基づく国債発行以外にはないのであります。
またまた、わかりにくいもの言いですまない。
要するに、市場に、おれにまかせろと、責任ある政治家が言いさえすれば、日銀引受なんてまるで関係ない。円はあいかわらず安定し、信認されることは間違いないのであります。
なぜなら、それは「気」だから。そう言うことなんであります。 KAI
土曜テニスの駐車場に、1台の車が入ってきた。なかから犬の太い鳴き声がする。
車から出てきたのは、ゴールデン。
リキの顔が、フラッシュバックするほど似ているんであります。
胸が痛くなった。
テレビでは、17日ぶりに飼い主と再会を果たした犬の映像が流れている。なんと飼い主の右大腿部を抱きかかえるようにして、離そうとしない。一緒に、漂流していた犬が海上保安官の手で救助された映像も流れている。
これをみて、また胸が痛くなった。
守るべき家族としての犬たちが、ここにいる。
この、誰がみても当たり前に胸に来る光景が、3.11前の私たちは、すっかり忘れ去っていたのであります。
放射能のために、酪農家が何十頭の乳牛たちの頭をなでながら悲嘆に暮れる映像も、何回となく流れるけれど、この牛たちの瞳は、あまりにも切ない。
みんな、家族なんであります。
なんで、東電の経営者や政治家たちには、この感情と言うものがないのか。
その理由は、簡単なんであります。彼らは、人の顔をした、「鬼」だったんであります。
「鬼畜」であります。
いま一生懸命、政治家たちは、自分はそうじゃないんだと、鬼畜と一線を引こうとしてはいるけれど、もちろんこれに騙される人はいるけれど、どうあがいたところで、神がこれを見逃すことはないのであります。
ですから、東電の経営者や政治家どもは、もうどうでもよろしい。神にまかせて、私たちはもっと前向きなことに目を向ける必要があるのであります。
そのキーワードが、「家族」。
天皇皇后両陛下の姿勢こそ、「家族」の基本であります。
日本国家と言う「家」と言えば、毛嫌いする方々には、この「家族」は受け入れがたいものがあるやもしれませんが、これも「鬼畜」との境目であります。
「家族」を、別な言葉で言えば、「慈愛」であります。
「忍耐であり、寛容であり、慈愛」であります。
この「家族」であり、「慈愛」を基本とした、政治あるいは経営を取り戻すこと。
これが、いまもっとも喫緊にして火急の課題なんであります。
具体的には、例えば、電力エネルギー問題。
早急に、全国レベルの電力供給ネットワークの構築をスタートさせることです。要は1千万キロワットレベルのヘルツコンバーターを半年間で構築する。ヘルツコンバーターの部品など、市販製品で十分まかなえるんであります。
今年の夏場は間に合わないかもしれないけれど、一年を通した需給を地域ではなく全国レベルで調整可能になり、これから何十年に亘っても東電の不足分は他のすべての電力会社の供給で補うことは、それほど難しい話ではなくなるのであります。
で、これのどこが、「家族」であり「慈愛」なのかと。
それは、電力を家族と考えれば、家族の間で与え合い分かち合うのは、当たり前なんであります。
そして、孫正義。
彼こそ、いま国難に直面する日本の救世主と言っても、はばかれることはないとKAIは、声を大にして申し上げたいのであります。
金額の多寡は、まるで関係ない。
自分の金は、家族のお金。そう考えることができる経営者以外は、みな「鬼畜」の経営者なんであります。
ぜひとも、あの愛犬たちの瞳を、今一度凝視してほしい。
けっして文句のひとつ言わない愛犬たちへの、いまあなたが感じる気持ちこそ、いま日本を救うことのできる唯一の答えであると、KAIは切実に思うのであります。 KAI
おっといけない、またまた忘れるとこでしたの週末テニス。土曜、6-1、2-6、2-6、1-4。日曜、2-6、6-4、6-2、3-5。M田さんが、通信回線の復旧で4月、5月全休の予定が痛いけれど已むを得ないんであります。
週末テニス、日曜のコートに異変が。
コートのところどころに黄土色の粉が風紋を描いて張り付いているのであります。もちろん、それが花粉であることは承知の助。にもかかわらず、気象庁に問い合わせた人々と同じように、これが放射能になぜか見えてしまうのであります。
同様に、空気もまた、快晴の青空であるにもかかわらず、なぜかくすんで見えてしまう。
心の中を、見えない重くもやもやしたものが占めたまま、いつまでもすっきりしない。
このところ、この、長い人生の中で一度として感じたことのない種類の、不安な気持ちの正体を、ずっと考え続けているのであります。
それは、パレスチナにおけるある種戦時下にある空気のようにも思えるし、病院でまもなく診察結果の病名を告げられる前の入院患者でもあるように思えてくるのであります。
この「不穏の大気」とも呼ぶべき、動かしがたく、重い、大きな気の流れの中に身体(み)を置きながら、これにどう合わせていけばいいのか、微妙にこの感覚がつかめない。
こんなとき、思わぬ文章の中に、この問題の本質が見えてきた。
換言すると、「震災国債の日銀引き受けの検討」というテーマには責任転嫁の余地はない。可とするにせよ不可とするにせよ、その帰結に対する責任は最後まで自分たち国会議員がとる以外にはないという事実を踏まえた上で、国会で正々堂々と審議してもらえばいい話である。個々の国会議員に決定に対して責任をとる覚悟が求められるが、それは当然すぎることである。マクロ経済学の知識がなかったというような言い訳があとで通用する事柄ではない。かりにうまくいかなくても他人の責任にするわけにはいかない。
(「震災国債の日銀引き受け」論に思う)
恐らくこれも震災原発問題や我欲社会と共時的関係にあることは疑いようもないのであります。
こう考えると、「その帰結に対する責任は最後まで自分たち国会議員がとる以外にはないという事実」こそ、「不穏の大気」を生きる方法を理解するための、究極のヒントとなるのであります。
別に国会議員にすべての責任をなすりつけようと言うわけではない。国会議員を自分自身に置きかえればいいのであります。
逆にいうと、政府が強制的に日銀に引き受けさせることが特別なのです。国会決議で日銀に引き受けを強制するのは「国債が通常の入札では消化できない」というシグナルを市場に送って長期金利の上昇をまねくおそれが強い。さらに井上さんもいうように、財政規律が失われて財政破綻が早まるリスクも大きい。
(意味不明な「国債の日銀引き受け」)
政治が、「意志」を持つかどうかの問題なんであります。『「国債が通常の入札では消化できない」というシグナル』とは、まったく180度反対の、政治の強い「意志」と言う「メッセージ」こそ市場への強いシグナルとなるのであります。
とはいえ、これも、政治家が、「その帰結に対する責任」を、最後までとる覚悟あってのこと。
いまの私たちの、最大の不幸とは、この責任をとる政治家の決定的不在です。
しかし、これをなげくこともまた、自分自身の問題に返ってくるのであります。
「避難したい人と、避難しない人、人間の格が問われていると思う」の中で取り上げた郡山の主婦のように、避難範囲を50キロに拡げて国に責任を負わせたい気持ちも、よくわかる。
しかしそうではなく、いまは、私たち一人一人が、自分自身の与えられた責任を真正面から引き受けることでしか、この「不穏社会」を生き延びることができない。これを理解して初めて、復興へのスタート地点に立ったと言えるのではないかと、KAIは考えるのであります。 KAI
おっといけない。週末テニスは、結果だけ。土曜、4-6、4-6、1-3、日曜、2-6、6-2、5-7、0-1(4-7)。