30日の、卒業式での国歌斉唱時の起立命令を合憲とする最高裁判決は、KAIにとって当然すぎる判決でありますが、これに否定的な反応をする方々には、決定的に「ある視点」が欠如しているのであります。
東京都教育委員会が、今月の卒業式で「君が代」に起立しなかった都立校の教職員180名に戒告などの処分を下した。
起立しなかった嘱託教員は今年度で契約をうち切る方針である。
東京都教育委員会にお聞きしたい。
あなたがたはこのような処分を敢行してまで、「何を」実現しようとされているのか?
愛国心の涵養?
まさかね。
(国旗問題再論)
普通に卒業生の人権(日本国憲法第19条思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)を守れる環境を実現する、です。
教職員にとっては毎年繰り返される卒業式であるかもしれないけれど、生徒からすれば、人生たった一度の高校の卒業式なんであります。
その卒業式を記念あるものにする権利を、一人の例外もなくすべての卒業生は有している。
にもかかわらずこれを、不良教職員は不起立と言う行為で式を乱し、記念あるものにしたいと言う卒業生の「良心の自由」を著しく侵害するに至っているのであります。
なんでこんな簡単なこと、お気づきになられないんでしょうか、KAIは不思議でしょうがないんであります。なーんて言いながら、実は不思議でもなんでもない。
同様の問題の反応を見れば、これは一目瞭然なんであります。
橋下徹府知事率いる大阪維新の会は「君が代斉唱時に教員の起立を義務化する条例案」を今月の府議会に提出する。
(中略)
たしかに、教師たちをさらに無気力で従順な「羊の群れ」に変えることはできるだろう。そして、そのような教師を子どもたちが侮り、その指示を無視し、ますます教育崩壊を進行させることはできるだろう。
私にわからないのは、それによって子どもたちは学校教育からいかなる「よきこと」を得るのか、それによって子どもたちの公民意識はどのように向上するのか、ということなのである。
(国旗国歌と公民教育)
なんで「普通に」起立し国歌を歌う先生を見て、「子どもたちが侮り、その指示を無視」するんでしょうか。
こんな子ども、いるわけない。
おまけにいまどきの教師(特に大阪の^^;)が「無気力で従順な『羊の群れ』」になりはてる、なーんてまったくもって笑止千万。そんな「やわ」なセンセ、特に大阪には、いないって。
要するに、ウチダ先生に代表される、戦後の日教組によるイデオロギー教育の洗礼を受けた世代は、人はなにかしらの「色」に染まっていると言う潜在意識から脱しがたく、人を「プレーン」に見ることができなくなってしまっているのであります。
そりゃ、なんの立場もない人間が、国歌を歌うことと起立することを法律で強制されれば、これはおかしいんじゃないかと思うし、たとえ教師と言う立場でも、職員会議のたびに国歌斉唱なんて話はおかしいのは当たり前。しかし、この職員会議の議論と卒業式の議論が、彼らにとっては一緒こたになってしまう。
なぜか。
卒業生や子どもたちが、存在しないからであります。
いや、存在はするけれども、同じ「色」をしていると、とんでもない勘違いを始めるのであります。
我が子3人、これに悩まされ続けてきたのであります。
娘は、都立高校で南京虐殺の教育を受け、反吐が出ると言って帰ってきたし、息子は考え方が違う(親の教育がおかしい)と小学生から女教師のいじめにあう。ほんと、こいつら、狂ってるとしか言いようがないけれど、子どもたちからすれば反論しようがないし、反論しようものなら息子2人のように教師の陰湿ないじめにあうのであります。
今回の最高裁判決は、こんなうすらきたない連中の胸に、十字架を釘刺す、まことにもって時宜を得た判決であったと申し上げるのであります。 KAI
この1ヶ月以上も前のエントリーに、やっと答えが出る。
それは、前回も言及したとおり、次の首相を誰がやるのか、その答えでもあります。
今回の「力学」は、まさに「カオス」。
「カオス」とは、ほんの小さな力が結果に作用することであって、いわゆる「想定外」を含めたあらゆることにそれが起きる可能性があるのであります。
これはすなわち前回の舛添要一を筆頭に、渡辺喜美、山口那津男、みなそれぞれに可能性があるのであります。
とは言え、民主党から例えば前原や小沢が出て首相になる可能性があるのかと言えば、これは皆無と言わざるを得ないんであります。
それはなぜかと言えば、まさに「カオス」の力学。刑事被告人や外国人献金など、首相を選抜する過程で、ほんの「小さな」嫌気が働くからであります。
万が一、総選挙になった場合はどうかと言えば、総選挙になること自体は「カオス」の結果ではあるけれど、以降は「カオス」とは正反対の単なるつまらない結果に終わることは目に見えているのであります。
そして、6月某日、次なる大地震が来る。
この新首相を選択は正しかったや否や、ただちに試されることになるのであります。 KAI
あまねくビジネスにこれを成功に導く要諦があるとすれば、それはそのビジネスの本質、すなわち、そのビジネスモデルがいったいなんであるか、これを理解することに尽きるのであります。
もちろん、クラウドビジネスにおいても、これは例外ではないのであります。
そして、これが理解できていないと、このビジネスの発展にとって、成功はおろか、こんなかたちで思いっ切り足を引っ張ってくれるのであります。
NTTPCコミュニケーションズが提供するパブリッククラウドサービス「WebARENA CLOUD9」で、5月8日から障害が発生している。復旧の見込みは今のところ不明だ。
WebARENA CLOUD9は、IaaS型のパブリッククラウドサービス。米Verioと共同開発したクラウド基盤に日本向けのローカライズを加え、仮想サーバを提供している。
同社が公開した情報によると、5月8日午前0時ごろに障害が発生し、すべての仮想サーバに接続できない状態となった。仮想サーバが起動できない事象も発生しているほか、顧客のデータに不整合が生じた可能性もあるという。
原因はファイルシステムの不具合。当初は5月9日11時、次いで12日10時ごろの復旧を見込んでいたが、データ不整合解消のためのファイルチェックが難航し、想定を大きく上回る時間を要する状態になっている。復旧時期は未定で、データ復旧の可否も含め、判明次第報告していくという。
これを受けてNTTPCコミュニケーションズでは、WebARENA CLOUD9の新規申し込み受付を一時停止した。同社広報によると、障害の影響を受けたユーザーへの対応については検討中で、原因究明と復旧作業を進めつつ、個別に対応していく方向という。
(NTTPCのクラウドサービスで障害、復旧時期は未定)
先日のAmazonクラウドの大規模障害もまた、これは同様なんであります。
こうした措置により、復旧作業が進んでいきました。
4月22日 02:00AM(PDT)、EBSチームは大量の新たな容量を追加することに成功しレプリケーションのバックログの作業を開始。
4月22日の昼過ぎには、ほぼ復旧状態へ。
4月22日 12:30PM (PDT)、9時間に渡ってEBSボリューム復旧が行われ、障害の発生したアベイラビリティ・ゾーンの全体の2.2%以外が復旧しました。
そして翌日、最終的にEBSへのAPIアクセスが利用可能となりました。
4月23 日 6:15 PM(PDT)、障害の発生したアベイラビリティ・ゾーンのEBSへのAPIアクセスが利用可能となりました。
(Amazonクラウドの大規模障害、そのときに内部で何が起きていたのか? 日本語での要約)
それは、単にAmazonクラウドのPaaS(IaaS)としての機能が復旧したに過ぎないのであって、これによってその上で動作していたアプリケーションサービスが元通り無事復旧したかどうか、なんらの保証もなされてはいないのであります。
これが、何を意味しているかと言えば、アプリケーションサービスの安全な動作保証のないクラウドサービスには、もとからなんの付加価値もないサービスなんだと言うことなんであります。
いやそうではない、とAmazonクラウドの立場からすれば、これはアプリケーションレベルでの問題であって我々の関与する問題ではないのだと主張したいところではありますが、しかしそうはならないのがクラウドサービスと言う「ビジネスモデル」の本質なんであります。
これは実は、なんら複雑な問題でもなんでもない。
ソフトウェアビジネスの歴史を振り返るまでもなく、人々はソフトウェアの何に価値を見出してきたかと言えば、それは「アプリケーション」をおいて他にはないのであります。
もちろん、これはWindowsに代表されるような「基盤」となるソフトウェアの価値をなんら否定はしない。否定はしないけれど、「基盤」の上に「アプリケーション」があってこそ、その価値に意味があると言えるのであります。
いまやこれで最も成功していると言えるのが、AppleのiOSビジネス。
しかしこれは直接的な意味でのクラウドビジネスではない。はたしてクラウドビジネスにおいても通用するのかと言えば、もちろんこれは通用するし、通用する以上にクラウドビジネスとは、「基盤」のビジネスそのものなんであります。
しかも、そのPaaSと言う「基盤」の上で動作するサービス(SaaS)としての「アプリケーション」もまた「基盤」ビジネスとなって、「基盤」ビジネスが重層構造を成しているのであります。
更に言えば、SaaSとしての「アプリケーション」を「基盤」とするならば、その付加価値である更なる上位の「アプリケーション」とは、いったいどこにあるのか。
これがすなわち「自己組織化アプリケーション」であり、ユーザー自身が人の「行動」としての「アプリケーション」の役割を担っていると考えるのであります。
ここまで考えてきて初めて、クラウドと言うビジネスの「ビジネスモデル」とはいったいいかなるものであるのか、明確に理解することが可能になるのであります。
それは、人々の「思考」や「感情」あるいは「行動」に直接的に作用する、「基盤」となる「アプリケーション」の開発およびサービスであり、またこれを支える「基盤」の開発とサービスであるのであります。
Google検索のような不特定多数を対象とするものから、会社組織そのもののビジネスに作用するクラウドERP、人間のコミュニケーションに作用するさまざまなかたちのSNSなど、これらすでにあるサービスだけではない。
ここにはあらたなビジネスチャンスが無限にあるのであります。
非常に大規模なデータの集合体を、このレポートでは「ビッグデータ」と呼んでいるのですが、そのビッグデータの活用によってイノベーションや競争力が生まれることを、ヘルスケア・小売業・公共部門・製造業・位置情報の5分野を事例として解説しています。PDFファイルで150ページを超える内容ですが、興味のある方はぜひ目を通してみて下さい。
それではデータが重要なのは良いとして、どうやったらその有効活用が実現できるのか。本レポートでは次のように提言しています:
- 「ビッグデータ」にタイミングよくアクセスすることを容易にする
- 変動性を可視化し、パフォーマンスを改善するために、データと実験を活用する
- セグメンテーションを詳細化し、よりカスタマイズされたアクションを行う
- 自動化アルゴリズムを通じて、人間による意志決定を代替、あるいは支援する
- イノベーションを起こし、新たなビジネスモデル・製品・サービスを開発する
これらの提言を通じて言えるのは、いまや「データをどう集め、誰が分析するか」という話をしている段階ではなく、「どう使ってもらうか」を考える段階に来ているということではないでしょうか。ネット&モバイルの時代、今までは取れなかったデータが取れるようになるというのはもはや当たり前であり、デジタル化されたデータを扱うコストもごく小さいものになりつつあります(マッキンゼーのレポートでは、冒頭で「世界中にある楽曲全てを保存するために必要なハードディスクは600ドルで買うことができる」という例が紹介されています)。ではどこで他社と差別化が図れるのかと言えば、実際にデータを活用する部分であり、提言の最初に「タイミングよくアクセスすることを可能にする」という内容が掲げられているのは決して偶然ではないと思います。
(ビッグデータ、スマートデバイス)
しかし、問題は、これが「ビジネスモデル」として成立するかどうか、これが一番重要なんであります。
KAIはかねてより、ソフトセクターのビジネスモデルには、情報単価モデルと機能単価モデルの2つしかないと申し上げてきましたが、ここでもまたこれは同じなんであります。
やっぱり、ビジネスの基本は誰に何を売るか、です。
ビジネスにおいて、難しい理屈は不用。この何を売るか、そしてその単価はいくらか。この正確な認識なくして、ビジネスは成り立ちません。
ではWeb2.0業界とは、一体何を売る商売か。言い換えれば機能単価か情報単価か。この詳しい説明はこの2つのエントリーを参照ください。
(広告モデル考)
「基盤」ビジネスと言う「ビジネスモデル」は、言ってしまえば機能単価モデルのことであります。
これに「クラウド」と言う「アプリケーション」の「基盤」ビジネスが加わったことで初めて、情報単価モデルのビジネスが可能になったと、こう考えればいいのであります。
しかしあくまで基本は、機能単価モデルであります。その必要とされる「機能」に応じた市場価格が「健全」な形で形成される世界の構築に、いま私たちは、真剣に取り組んでいく必要があるのであります。
標題の「成功法則」としてあらためてこれをまとめて言えば、その「機能」にみあった月額いくらの、毎日の社会生活やビジネスに不可欠となる「基盤」の「アプリケーション」の構築及びこのサービス。これが、あなたのクラウドビジネスを成功へと導くキーとなるのであります。 KAI
まずは、この記事の写真をご覧いただきたいのであります。
プロ野球の日本ハム対オリックス戦が開かれた15日、会場となった函館オーシャンスタジアム(北海道函館市)の上空に、太陽を取り囲むような光の輪が現れた。太陽に薄い雲がかかった際に現れる「日暈(ひがさ)」と呼ばれる現象で、虹のように見えることから「白虹(はっこう)」とも言われる。古代中国では、白虹が天子を表す日(太陽)を貫くことは大乱の兆しとされ、司馬遷の『史記』にも記述がある。
(動乱呼ぶ?「光の輪」が出現 日ハム−オリックス)
大乱の兆し
すなわちこれは常々KAIがここでなんども申し上げてきた「大気」の乱れであります。
「大気」は、その中にいるすべての人々のそれぞれ一人一人の気である「気分」を、すべてにおいて支配しているのであります。つまりは、人はこの「気分」の中で、行動し、思い考え、感じ、生きているのであります。
しかし、これを人が理解することは容易ではない。
「白虹」 → 「大乱の兆し」 → 「個人的な出来事」
この一連の流れをもって、これを「占いの遂行性」と呼ぶのであります。
またまたわかりにくいもの言いですまない。
そもそも占いとは元からこう言うものなんでありますが、大抵の人は、これをまったく逆に理解なさっているのであります。
例えば街場の占い師に運勢を観てもらう。これこれこう言う災いがあるからこうしたほうがよい。
などと言われて、もちろんこれは思いっきりあなたの「個人的」運勢のようでもあるのですが、これは別に占い師があなたの「個人的」運勢を占っているのではないのであります。まずはあなたをとりまく「大気」があり、この中であなたがいったいどういった位置にあり、これからどういった流れの中にあるかを、ただ述べているだけなんであります。「大気」から自ずと出てくる答えなんであります。
これはあらゆる「占い」で、すべてに共通して言えることなんであります。
みなさんにはおなじみの「血液型占い」。
この占いでさえ、そうなんであります。別にオレはこんなもの信じちゃいないよ、と言いながらB型のオレって絶対こうじゃないと、信じてないと言いながらこれを意識する。意識するから、いつのまにか絶対こうじゃないと思う自分に、どんどん近づいていくのであります。
これは、血液型占いは、「論理的」に正しいとか正しくないとかいった次元のお話ではないのであります。毎朝テレビでやっている、今日の一番運勢のいい人は「あ」行の名前の人って占いも、KAIはこれをサイコロ振り振りやっているんだろうと思うけれども、それでもしかし、この「占いの遂行性」は絶対なんであります。
更に言えば、例えば占い師に「この結婚は必ず不幸になるからおやめなさい」と言われても、これに逆らって結婚したとすると、案の定やっぱり「不幸」になる。これは間違いなく「不幸」になる。
だからダメなんではなく、「不幸になるからおやめなさい」と言うのに逆らおうとするから「不幸」にどんどん近づいていこうとするんであります。(これにいかに対処したらいいのかはまた別の機会にお話させていただくのであります)
ものごとと言うのはすべてそうなんであります。「大気」の流れに逆らおうとすればするだけ、これが「病気」となってバランスをとろうとするのであります。
では、占い師の言うとおりに従うしかないのかと言えば、基本的にはそう言うことであるけれども、そもそもにおいて占いを信じない人は最初から占い師の前に立つことはないのであります。
もとに戻って「白虹」について言えば、これを目撃することのなかった人はもとより、たとえ目撃したとしても、これを意識することのない人々にとって、なにも起こらない。ただこれに「大乱の兆し」を感じた人だけに、「遂行性」が駆動し始めるのであります。
さて、この新聞記事の写真を見て、あなたはいかがなるのでありましょうか? KAI
なぜ、こんなにまでに「バカ」国民が増殖してしまったのか、真面目に考察するのであります。
と、いきなり結論でありますが、その直接の原因は、21世紀社会の「情報爆発」であり、これに対する人類の「防衛反応」であります。
ここで、「日本」ではなく「人類」とあえて言うのは、その「情報爆発」も「防衛反応」も、決して「日本」に限った局所的現象ではなく、地球規模の問題なんであります。ただこれが「日本」では、結果的に国民の「バカ」化と言う形で顕在化した、ただそれだけのことなんであります。
そもそも、人間の「思考」とは、なんであるか。
これを考察する上で重要なヒントになるのが、「思考」と、その対を成す概念、「感情」との比較であります。すなわち「感情」とは「内在性」であり、「思考」は「外在性」であると言うこと。これがきわめて重要となるのであります。
人は、いかに「思考」するのか。
それはまず、「思考のフレーム」と言う「思考法則」の世界の中で、人がものごとを考えると言うことを理解する必要があるのであります。この「思考のフレーム」とは、その世界におけるコミュニケーション言語でもあるのでありますが、「思考」における価値判断の枠組みであり、その世界の「ルール」がこれですべて決まる力を持っているのであります。
さて、この「思考のフレーム」とはいったいどこにあるのか。これを説明するのが、さきほどの思考の「外在性」。つまり、思考する本人の中にではなく、その本人が関係する「他者」との関係の中にあると言うことなんであります。これを具体的に言えば、学者であれば、学者の思考とは、「アカデミズム」社会と言う世界の「思考のフレーム」の産物に他ならないのであります。
そこで、本題であります。
「情報爆発」以前の、思考過程とは。
それは「常識」と言う「思考のフレーム」による思考以外にはないのであります。もちろんこの「常識」はひとつではない。「重層」であり、かつ「多様」なんであります。これが「アカデミズム」社会を始めとしたさまざまなコミュニティを横断して「思考のフレーム」を形成していると言えるのであります。
ですから、私たちは、自分の頭と言う「自分自身」の考え方によって「思考」していると思いがちですが、実際はそうではなく、所属する社会の持つ、より大きな「思考のフレーム」の中に組み込まれて、その枠組みの中でしかものごとを考えることができない。そう言うことなんであります。
また、そうであるからこそ、「思考過程」を社会で共有することができるし、コミュニケーションも成立するのであります。
例えば「論理的思考」などといっても、これはあくまで「思考のフレーム」の中でのみ通用するものであり、もしこの「思考のフレーム」で処理しきれない事態が生じたときは、この「論理的思考」自体が用をなさなくなるのであります。
すなわち、これが21世紀のインターネット社会と言う「情報爆発」社会で起きていることであり、これに対して私たちはいかなる「防衛反応」をしているのか。これを理解することこそ、今回の「考察」の結論となるのであります。
この「防衛反応」の顕著な例が、あの「北アフリカ・中東における政変」であります。
彼らがとった「防衛反応」とは、「思考のフレーム」の拡大であり、再構築であります。「情報爆発」を「思考のフレーム」の枠の中に取り込むためには、「枠」自体を「情報爆発」をそのまま処理できる大きさにまで拡げるしか手はないのであります。そしてこの結果が、いままでの政治体制自体の否定に繋がった。そう言うことなんであります。
一方この「情報爆発」の主役であるアメリカを中心とした欧米社会はと言うと、彼らの「思考のフレーム」には最初からこの「情報爆発」を処理する「枠」が含まれていた。それがYAHOO!の情報インデックス化と、Googleのすべての情報を整理しつくすと言う野望であり、これまで目に見えない不可知とされてきた私たちの人間関係でさえ、Facebookはこれを白日のもとに「整理」しようとするのであります。(余談でありますが、Facebookを利用する方々は、自分の人間関係が、赤の他人に「捕捉」されていることの恐怖感をなぜ感じないのか、KAIは不思議でしかたないのであります)
なぜ彼らの「思考のフレーム」がそうであったのかは、「キリスト教文化」が強く影響しているとだけ申し上げて、これは別の機会にご説明するとして、肝心要のわが「日本」はいったいぜんたいどうなっているのか。
それをご説明するならば、従来からの日本の「思考のフレーム」とは、言ってしまえば「テレビ」であり、テレビ画面の「枠」こそ「思考のフレーム」と化していたのであります。それも、「自分自身」でものごとを考えるのではなく、「テレビ」の中の「考え」に同調することがすなわち、自分の「思考」であると信じてきたのであります。
これは、前回のエントリー「知性だけが救いだ」の中で取り上げた「村治主義」とも直接繋がる話でもあるのであります。すなわち「村」社会で生きてきたと言う事実は、そのまま「村」社会の「思考のフレーム」そのものの中に生きてきたと言うことであり、「テレビ」こそこの「村」としての機能を果たしてきたのであります。
こんな中で「情報爆発」が起こった。しかし、これは「テレビ」村ではなく「インターネット」村で、起こった。そしてこれは、いまのいまも進行中の出来事なんであります。
果たしてこの「情報爆発」にわが「日本」は、「テレビ」村の「思考のフレーム」をそのまま適用しようとするのであります。
「オビに短しタスキに長し」。なんと「日本」は、一生懸命タスキでオビを締めようとしはじめたのであります。
しかも、自分の頭で「思考」するのではなく、「思考のフレーム」に自分が所属(同調)することが「思考」することであると勘違いしているから、「論理思考」の体をなさない。いわゆる、「風」とか「空気」と言う「思考のフレーム」そのものに、ただ流されていくだけであります。
バカはいかに思考するのか。
これこそ「バカ」がいかに「思考」するのか、の答えであります。
そもそもにおいて「バカ」は「思考」するのではなく、「村」に「所属」すると言うかたちで「思考(のフレーム)」に「同調」することでもって、これを「思考」したと考えているのであります。
もっと言えば、自分はどの(小さな)「村」(「思考のフレーム」)に所属するべきか、鵜の目鷹の目であたりをみまわす風見鶏以外の何者でもないと言えるのであります。
では、この「バカ」につける薬は、ほんとにないのでしょうか。
これがあるとすれば、それは「テレビ」村の中に「インターネット」村の大きさを持つ「思考のフレーム」の構築であります。
それがNHKや既存のキー局で実現されることはあり得ないでありましょうが、インターネットテレビの方向性とはこれ以外にはないのであります。恐らくこれが孫正義によって実現されれば、KAIはもう文句はないのであります。 KAI
中部電力が受け入れたそうな。
おまけにこんなアンケート結果だそうな。
【問】菅直人内閣を支持するか
支持する32.4%
支持しない62.2%
その他、分からない5.4%
【問】震災対応に問題があるとして“菅降ろし”の声が高まっているが
同調できる43.0%
同調できない51.0%
その他、分からない6.0%
(震災への備え「首都機能のバックアップ必要」91%(5月5日調査))
おまけに、“菅降ろし”同調できない51%!
ほんと、バカばっかりだ!
で、気が付いた。
今回のテーマは、「知」。この飢える「知」、であります。
なぜかこのところ、血(知)に飢えるドラキュラの気持ちが、よくわかるのであります。
(「知」のシンクロニシティ)
そうなんです。あまりにも周りが、「バカ」ばっかしだからだったんであります。「バカ」に汚染された空気の中では、「知性」こそ一服の清涼剤だったんであります。
と言うことで、この汚れた空気を吸ったあとのお口直しに、どうぞ。
部下からの報告を聞いて怒鳴り出すような上司のところには、しだいに不都合な情報は入らなくなる。確実に部下は、そうした上司に対してはできる限り二度と「悪い話」は伝えないように努力することになる。これが、なぜトップは怒鳴ってはいけないのかの理由である。こうした推論からは、あの人にはもう「悪い話」は何も伝わらなくなっているのだろうと思わざるを得ない。
(なぜトップは怒鳴ってはいけないのか)
続いては、こちら。
ベンチャー企業は大概がヤンキー的で、あまりエリートの雰囲気を感じる企業は少ないが、その中ではマッキンゼー出身の南場女史率いるDeNAがなんとなくエリート的だ。儲かるビジネスで冷静に儲ける小賢しさがある。何かにつけて計算高く、ロジカルにものを考えている印象で、行き当たりばったり感や気合で乗り切る感に乏しい。
携帯の無料ゲームサイトとしては後発のグリーに一旦は捲られるも、地道に客単価を吊り上げ、こっそり抜き返したかと思うと、いつの間にか収益的には倍近い差を付けるなど、やることにいちいちソツがない。以前に自社のプラットフォームにゲームを提供する開発会社に対して、優越的な立場を利用し、他プラットフォームへのゲーム提供をやめるように圧力をかけた問題が報じられた時も、南場女史は「あら、国内にライバルなんていたかしら(証拠はあって?)」という風情でシラを切っており、実に嫌味なエリートという感じであった。
(日本のベンチャー企業に見られる3つの類型)
この3分類の圧巻は、こちら。
かくして、菅直人首相の浜岡原発停止要請は、西洋型の「法治国家」の観点からは問題があるとしても、中国型の「徳治国家」のそれとしては、きわめて自然な行為ということになります(もちろん、伝統中国の儒学史が党争に彩られてきたように、原発がどの程度「道徳的」な施設かをめぐっては、存続容認派と反ないし脱原発派とのあいだで、果てしない論争が続くことになるでしょう)。もちろん、ここで「法の支配」のメリットを安易に譲るべきではないとは思いますが、しかし歴史的に見れば「もともと法治国家でなかった国が、その代行モードを村治から徳治に切り替えただけ」ともいえるので、ひょっとすると私たちは法治国家になる西洋化の夢をあきらめて、中国と同様の徳治社会に入ることを覚悟するべき時が来ているのかもしれません。
(法治国家をあきらめる? ポスト3.11と中国に似てゆく日本 - 與那覇 潤)
不可解きわまりなかった冒頭の中部電力の応諾やアンケートの結果も、こう考えるとすべて説明が付く。
もう、納得の嵐であります。
どうです?胸のもやもや、すっとしません? KAI
浜岡原発、運転停止要請。これを聞いて、一番に脳裏をかすめたのが、これ。
リーダーがいかなる言辞を弄しようとも、人々はこの人物が考えている「自分自身の問題」がいかなるものか、瞬時に感じ取ることができるのであります。
(末期的シンドロームの本質)
でも、いちばん生き延びる確率が高いのは、「今日はなんだかスタジアムに行くと『厭なこと』が起こりそうな気がするから行かない」と言って、予定をキャンセルして、家でふとんをかぶっている人間である。
WTCテロの日も、「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分がした」のでビルを離れた人が何人もいた。
彼らがなぜ危機を回避できたのかをエビデンス・ベースで示すことは誰にもできない。
「ただの偶然だ。理屈をつけるな」と眼を三角にして怒る人がいるけれど、そういう人には「そうですよね」と言ってお引き取り願うしかない。
けれども、「どうして私だけが生き残ったのか、理由がわからない」ということは、よくある。その場合に「単なる偶然である」と言って済ませることのできる人はきわめて少ない。
ほとんどの人は「自分だけが生き残った理由」について考える。
(弁慶のデインジャー対応について)
今回は、これを二重の意味で、みなさんのこの感覚が試されているのであります。
それは巧妙なまでに、原発反対派に乗ずると言う形によって、この『厭なこと』の感覚を封じているからに他ならないからであります。
そもそもにおいて、この男の「自分自身の問題」が、まるで「国民」にはなく、「我欲」にあるのはいまさら言うまでもないのでありますが、これは今回の「唐突」記者会見からもまったくもって明らかなんであります。
すなわち、この運転停止要請のいったいどこに、福島の住民のような「国民」の存在が考慮されているのかと言えば、あるのは原発怖いと言う「プロパガンダ」のみ。
この「異常」な思考過程をして、「なんだか『厭なこと』が起こりそうな気分」を感じることができないのは、これから起こる「危機」を、あなたはこれを生き延びることはできない。そう申し上げるのであります。
おいおい、ぶっそうなことを言うもんじゃない、とお怒りになる前に、今一度よーくお考えいただきたいのであります。
これから来る「危機」。
これがなんであるのか、おわかりにならないこと自体が、そもそもにおいてあなたの「余命」が保証されないことと同義なんであります。
それは、間もなく来ると言うもう一度の「大地震」であり、これによる阿鼻叫喚の地獄絵であります。
なんだ、この男の言う通りじゃないか、と思うのは、だから「余命」がないと申し上げているのであります。この男が言っているのは「原発」対策。決して「大地震」対策ではないのであります。
いまのいま、眼前の「地獄絵」もままならないと言うのに、この男はもう次の「興味」であります。しかも肝心要の「大地震」対策ではない。
こんな男がリーダーのまま、もし本当に次の「大地震」が来たなら、いったいぜんたいこの国はどうなってしまうのでありましょうか。KAIは、瞬間的にこの恐怖感を抱かざるを得ないのであります。
もはや、一刻の猶予もないのであります。神様、どんな方法でもかまいません。一刻もはやくこの男を目の前から消し去ってください。お願いします。
と言うことで、地震以来、中止していた早朝の散歩を、ゴールデンウィークを契機に再開。
2ヶ月近くの間に、散歩コースの景色が一変。
もともとペリカン便の物流基地だったところがゆうパックのそれに変わって間もないと言うのに、空き倉庫になっていた。大丈夫かね、斎藤次郎くん。
その目の前の駐車場が、都心ではめずらしい広々とした駐車場つきコンビニに変身。と思いきや、こちらもお店の正面に設置した時計が止まったまま。1週間誰も直そうとしないで、時間は止まったまま。
そしてこの先にあった老舗のタクシー会社国際自動車が倒産、車も人もいなくなってもぬけのから。この不況でタクシー業界も淘汰の嵐に突入のようです。この余波をまともにくらったのが、この営業所周辺にあるタクシー運転手の自家用車目当てのコイン駐車場。夜間800円だ500円だと料金値下げ競争を繰り返した挙句、いまや1台もとまっていない。
さらに行くと、いままで花やしきと化していたビルの様相が一変。ビル一面を囲んでいた花壇の花がすべて枯れてなくなっていた。ビルの持ち主が中国山東省公使と変わっている。もともと子供服メーカーのオーナーがこのビルを建て、事業に失敗して、抵当に取られたもの。これを買った次の持ち主の、花好きの奥さんが、ビルの壁を花で埋め尽くした。それがまた次の持ち主に。
ま、変わったといってもこれぐらいですが、雨降りの日だけはどうしても散歩に出る気にならないのは、いたしかたないのであります。 KAI
p.s.池田先生がいいこと書いてます。「中部電力は法的根拠のない「要請」に屈服するな」と言うのは、その通りで、しっかり議論したうえで(つまり国民合意のもとで)法的手続きを経て浜岡を停止するのは、なんの問題もない。それは、すべての責任をこの男が取るということだからです。
ビンラーディンが殺害された。これもまた、このところ一連の踊る大気の流れの中の、単なるひとつの出来事にすぎない。
オサマ・ビンラディンが殺されたらしい。アメリカ大統領が個人の殺害を発表するのも異例だが、あらためて考えると、10年も続いた「テロとの戦い」とは何だったのか、疑問をもたざるをえない。
(中略)
しかしアメリカの軍産複合体にとっては、これは大勝利だろう。冷戦後、減らされてきた軍事予算がこれで増額され、ソ連に代わる新たな敵を作り出すことで、ブッシュ政権は圧倒的な支持を得たからだ。政治家やメディアにとっては、テロはおいしいビジネスだ。彼らにとって重要なのは国民のバイアスに迎合して票や読者を獲得することであり、そのためには大事な問題より目立つ問題に全力を投入することが合理的なのだ。
(「テロとの戦い」とは何だったのか)
一方でまた、これをもっと大きな歴史の流れから見ると、別の見方が見えてくる。
◆詳しくは、拙著「ブッシュの陰謀−対テロ戦争・知られざるシナリオ」(KKベストセラーズ刊、2002年2月5日)を参照していただきたいが、1979年12月27日、ソ連軍がアフガニスタンに突如侵攻して軍事占領したのに対して、米国が、アラブ諸国から青年義勇兵を募集した。青年義勇兵のなかに、サウジアラビア王国の富豪の子弟オサマ・ビンラディンが含まれており、当時のジョージ・ウォーカー・ブッシュCIA長官(後の米大統領、パパ・ブッシュ)の下で、訓練を受けて、ソ連軍と戦った。10年にも及ぶアフガニスタン戦争の結果、敗れたソ連軍は1989年2月15日、撤退を完了した。
この10年の間に、隣国パキスタンに逃れたアフガニスタン国民の子どもたちが、神学校でイスラム教学を学び、パキスタンの支援を受けてアフガニスタン救済運動に立ち上がった。これが「タリバン」(本拠地・南部の都市カンダハル=世界最大規模の芥子の栽培地帯→資金源)である。10年にわたる内戦を経て、アフガニスタン国土の3分の2を実効支配するに至る。
一方、祖国に舞い戻ったオサマ・ビンラディンは、貧富の差が激しいサウジアラビア王国内の矛盾、不条理に気づき、「反政府運動」、すなわち、「サウジアラビア王室打倒」に立ち上がった。同時に「反米姿勢」を強めた。とくに湾岸戦争の際、ブッシュ大統領指揮下の米軍がサウジアラビア王国内の軍事基地(サウジアラビア王国によるイスラエル攻撃を抑制目的)からフセイン大統領のイラクをしたことに強く抗議した。
米クリントン大統領時代、ニューヨーク世界貿易センタービル爆破テロ事件やオクラホマシティ連邦政府ビル爆破テロ事件が発生、オサマ・ビンラディンが首謀者とみなされた。こうしたことに危険を感じたサウジアラビア王国政府は、オサマ・ビンラディンをスーダンに追放。だが、国連の圧力でスーダンから国外退去を命じられたオサマ・ビンラディンは、アフガニスタンに舞い戻り、タリバンと接触した。
ここでタリバンの立場が一変した。それまでタリバンを承認していた米国が態度を変えたのである。人権派のオルブライト国務長官が、「石油のために女性と子どもを犠牲にするな」と言いがかりをつけ、タリバン不承認に転じた。タリバンがイスラーム原理主義に基づき、「女性を差別し、子どもを犠牲にする」教育を推し進めていたことを捉えたのであった。
◆米国との対決姿勢を強めるオサマ・ビンラディンは1998年2月、「ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線」を結成、対米戦線の宗教命令「ファツー」を発令した。その3年後の2001年9月11日、ニューヨーク世界貿易センタービル、ペンタゴン同時多発テロ事件が起きたのであった。
オサマ・ビンラディンは殺害された。だが、対米戦線の宗教命令「ファツー」(ユダヤ人、キリスト教信者を皆殺しにせよ)が、解除されたという情報は、未だ聞いたことがないので、イスラム世界各地で蠢いている「アルカイダ」のなかで、この宗教命令「ファツー」は依然として、生き続けていると見なくてはならない。アルカイダによる「報復目的」の爆弾テロは、世界各地で頻発する可能性が大である。用心しなくてはならない。
(米海軍はオサマ・ビンラディン殺害に成功したが、対米戦線の宗教命令「ファツー」はだれが解除するのか?)
果たして、世界はこれらの「意志」で動いているのか。KAIは、これをまったく逆に考えるのであります。すなわち、世界の流れこそ、個々の「意志」を生み、個々の「意志」とは、世界の流れと言う「大気の流れ」の産物にすぎないのであると。
こう考えると、私たちの社会にとって、今回のようなビンラーディン殺害に至る「政治の力」とは一体なんであるのか、これが明確に理解ができるのであります。
つまりは、「政治の力」とは、それは「大気の力」の反映そのものであると言うこと。
彼の地に比して、日本の政治はなぜこれほどまでにじれったいのか。その理由も、これで容易に説明が付く。
エコノミスト誌の、日本の政治家は驚くほど自分のことばかり考えているという記事が紹介されています。国会中継を見ても、そこには菅総理追い落としの姿勢、権力闘争の姿しか無く、現場に任せればよいような細かな問題をとりあげ質問して得意げになっている国会議員の姿にも呆れる限りです。この危機のなかでも、権力闘争から抜け出せない体質が、海外から見ても不思議なのでしょう。しかし、これは自公だけの問題ではなく、民主党が政権を取るためにやってきたことでした。
(中略)
菅総理のリーダーシップに問題があるのなら、菅総理に欠けている復興のビジョン、日本再生のビジョンを堂々と語り、この人がリーダーになってくれたらいいねと感じさせればいいのですが、自公の人たちが「俺達が政権時代はもっときちんとやっていた」というのは誰も信用していません。あの程度のねじれで政権を投げ出した安倍さんや福田さんがこの危機で死を賭してまでリーダーとしてやれたのかという疑問がふっとでてきてしまいます。どの党も信頼の資産を持っているわけではなく、この復旧・復興への道は、政治家が信頼を勝ち取るコンテストの舞台なのだという認識にたって、政治家の皆さまには、ぜひどんどん生きたメッセージを発信し、行動していただきたいものです。
(自分のことだけを考えている政治家は信頼されない)
これが石破茂をして語らせると、こうなる。
補正予算の成立により、菅内閣は「一息ついた」という形になります。
実に不愉快なことですが、一方において世論調査では「菅内閣即時退陣」を求める声は二割程度しかなく、「年内一杯まで続けるべき」とするのが二割強、「来年九月の民主党代表任期満了まで続けるべき」という意見が三割もあるのです。
民主党内で「ポスト菅」の有力候補が見当たらないことが、「他に適当な人がいない」との消極的支持理由になっており、自民党の支持率は確かに民主党より10ポイント程度高いのですが、解散が当面行なわれない状況では如何ともしがたく、ただ閉塞感のみが漂います。民主党の政策に自民党の考えを極力反映させるしか当面の手はありません。
多くの方はご不満でしょうし、そのことは十分に承知していますが、今この作業を地道にこなすことなく、ただ徒に政局に走ることは決して良い結果をもたらさないのだと自分に言い聞かせる他はありません。とにかく少し疲れました。
(一次補正可決)
四方八方海に囲まれ、この恵まれた国土と言う「地」にあっては、地震、津波、原発災害と空前絶後の国家的危機に瀕してもなお、まず守るべきは「国土」ではなく自らの「利益」すなわち「我欲」のみ。この「大気の流れ」への反動こそ、戦うべき格好の敵と化す、奇妙な国家、ニッポン。
役人の不法行為による年金不正問題と、ウソの格差社会論で大きく振れた振り子の反動で、たまたま誕生した民主党政権でさえ、自分たちの「利益」を守るため自民党の「電力族」と結託して「積極的」に支えようとする。
こういった分野における、わがニッポンの「政治の力」とは、決して欧米に見劣りするものではなく、たぐいまれなるチカラを発揮しているのだと考えるのが、本来の本質をついた正しい見方なのであります。(ホントか?) KAI