もういいかげんこのテーマでこのレポート書くのを止めようと思っているのに、毎日が次から次へと事例満載なんであります。
今日も、1年生の自民党参議院議員が民主政権の政務官になったと言う。
参議院議員だから、まだあと5年の任期があると勘違いしての、自民党離脱であります。
自民党議員として当選した、つまり、自民党支持者の代表、代議員であることをものの見事に忘れてしまうのも、「バカ」の典型なんであります。
この場合の「思考のフレーム」が、「民主党村」にあるのは、これまたいちいちご説明するまでもないのでありますが、なんのことはない俄仕立ての「脱原発村」への風見鶏でもあるのであります。もちろん自民党が「脱原発村」になることが永遠にない=5年後の選挙で勝てない、とのよみでもあるのであります。
この論理は、第一回の実証研究編で取り上げた加藤紘一と見事なまでに一致しているのであります。
まず「自民党」村。彼は、この村にあっても震災対応はたいして変わらないと書いている。もちろんこれは、自民党の不信任案の趣旨説明を読めば、まったく異なる立場にあることは一目瞭然であります。にもかかわらず、これを否定するかのようなことを書くのは、すでにこの男が「自民党」村にはいないと言うことであり、「民主党」村、すなわち次の衆議院選挙では、鵜の目鷹の目、情況によっては民主党から出るつもりで準備していることを、明確に示すものであります。
(バカはいかに思考するのか−−実証研究編)
この際、自民党も「脱原発」をうたって、しかし(50年単位の)段階的と言っておけば、バカ「国民」にはわかりゃしないんであります。つまり、争点を「脱原発」にしないで「復旧復興」の一点に絞って、「脱原発」しか言及しない党の無責任を徹底的に追及すればいいのであります。
そしてこの肝心要の「復旧復興」。
五百旗頭(いおきべ)くんの復興構想会議であります。
予想通り、夢も希望もないものに仕上がりましたが、「WHY」も「WHAT」もない、ただあるのが「HOW」だけと言う典型的「霞ヶ関村」の役人の作文でありました。
この「霞ヶ関村」と言う「思考のフレーム」。確かにその内部では一見論理的整合性がとられているように見えても、徹底して「WHY」と「WHAT」が排除されるのであります。もちろんわかってやっていることではありますが、役人の既得権護持と言う「WHY」と「WHAT」なんであります。
古賀茂明くんも、こんな「バカの思考過程」に挑んでも軽くいなされて、はいお仕舞いなんであります。所詮「バカの思考過程」においては、誰も議論と言う土俵に立つことはないのであります。
それにしても、この奇妙な閉塞感。いやなことが起きなければいいのですが、心配の種がつきることはないのであります。 KAI
久しぶりにあおい書店まででかけていって、本を買った。きっかけはこのブログを読んだからであります。
それは
「お金持ちになる訓練法」
です。
僕のライフワークは「攻略」であり、過去、様々な分野こ攻略するために研究を重ねてきました。その中で、多くの人の興味の対象である「お金」に関して研究していた時期もあります。
特に熱心に研究していたのは2005年なのですが
この時期は、お金持ちの人を見かけたら話しかけて仲良くなったり、
直接会いに行ってお金の話を聞いたりしていたのですが、結局のところ、お金持ちになるための方法は
(きっとみなさんも聞いたことがあると思いますが)
他人を喜ばせることを楽しむ
ということでした。
(ウケる日記、お金持ちになる方法)
「まあフォードくんはすごい子やったで。フォードくんの作ったT型フォードは、世界で一五〇〇万台も生産されたんやからな。で、そのフォードくんがこんなこと言うてたんや。『もし私がお客さんに何が欲しいかとたずねたら、彼らは速く走れる馬を、と答えていただろう』この意味分かるか?」
(中略)
ガネーシャは「やっぱり自分にはわからへんわな」とにんまりして言った。
「ええか? 人の欲を満たすにはな、人に『何が欲しいんですか?』って聞いて回ればええってことやないんやで。もしかしたら人はこう言うかもしれへんやろ。『何が欲しいか分からない』。でもな、それでも人にはなにかしらの欲があるんや」
ガネーシャは続けた。
「人はな、わざわざ『○○が欲しい』なんて教えてくれへんのや。人が何を欲しがっているかをこっちが考えて、予想して、提案していかなあかんのや。人の欲満たす、いうんはそれくらい難しいことなんやで。そのことをフォードくんは誰より理解してたんや。人間には、もっと速(はよ)う快適に移動したいっちゅう欲がある。でも、当時、みんなが考えてたんは『馬がもっと速く走ればいいのに』ちゅうことなんや。でもフォードくんは、人の欲を満たすには、より速く、より遠くまで走るには、馬ではなくて機械に走らせなあかんことが分かってたんや。だからフォードくんは、馬やなく、T型フォードを作ったんやで」
(夢をかなえるゾウ 文庫版、飛鳥新社、水野敬也、2011/5/20、p.64-65)
アプリケーションに人は何を欲望するのか
この著書から引用したお話は、昔からよく聞くお話であります。ウォークマンしかりiPhoneしかり、お客さんに何がほしいかたずねても、誰も答えることはないのであります。しかしこの答えることのできないものにこそ、人が欲していたもの、そのものの答えがあったと言う真実であります。
さらにこれも昔から言われることでありますが、車が人の足の拡張であり、テレビは人の目の拡張、電話は耳、飛行機は翼の拡張であり、コンピュータは人間の脳の拡張であると。
今回は、このフォードが言うところの、お客さんが望む「速く走れる馬」をヒントに、人が望む「アプリケーション」とは何であるのか、これを考察するのであります。
コンピュータが人間の脳となった初期のころ、人は「速く走れる馬」と同じように「アプリケーション」を人の何と見なしたかといえば、それは「手作業」であったのであります。
EXCELのような表計算やワープロに始まり、経理や給与計算などあらゆる業務が「速く走れる手作業」に置き換えられていったのであります。
フォードの車が、この「馬」に置き換えられると、やがて人々は、「馬」のイメージはすっかり忘れ去り、人の足の拡張は「車」にとってかわってしまうのであります。
同様に「アプリケーション」もまた、あらゆる人間の「手作業」の拡張として機能し始めたのであります。しかしこれはまた、「アプリケーション」が再びかたちを変えた「馬」に戻ることを意味することでもあるのであります。
再び人々は「速く走れる馬」を求め始める。これに、21世紀のフォードはいかなる答えを見出すのか。
もちろんこれこそKAIの答えでもあるのでありますが、この答えをご説明する前に、いま一度、再び人々が欲し始めた「速く走れる馬」の正体、いったいぜんたいこれがなんであるのか。
なんと人々が求め始めているのは、「速く走れる馬」の「馬」が、「人間」そのものにまでエスカレートし、「速く走れる人」を欲しはじめているのであります。人馬は区別できるけれど、この「人間」を区別することはできない。
だから、人々は、人間を「奴隷」や「アンドロイド」型ロボットのように、無意識ながら考え始めているのであります。アンドロイド型ロボットの研究開発が著しいのも、この人々にある無意識構造の変化と決して無縁ではないのであります。
すでにこの被害は現実になりつつあるのであります。
これに、受託請負型のシステム開発が、「真面目」に答えていく。
「人」を「アプリケーション」に置き換えれば、確かに「早く走れる」かもしれないけれど、これで実現できることはただ一つ。現状維持。現状維持以上のものは、何一つ生み出されることがないのであります。
人々の創意工夫に貢献するはずの「アプリケーション」が、そうではなく、ただ現状維持にのみ使われる。そう言う「アプリケーション」を、「速く走れる馬」として人々が求めている。つまりはそう言うことなんであります。
これに21世紀のフォードが、異を唱えなければうそになる。
そしてこれを実現するのが、「アプリケーション」とは「組織図」と言う「ペリー」の発想。「組織図」の中にすべての機能が配置され、これを「人」が縦横無尽に使いこなせばいいだけ。
T型フォードに、ブレークとアクセル、それにハンドルが標準となったと同じように、「組織図」の中の「アプリケーション」にはMVCがインターフェイスの標準となって、「人」がこれを「ドライブ」していくと言う考え方に根本から変えていくのであります。
この「価値」を人々が理解し認めるようになるまでには、まだしばらくは時間がかかるけれど、KAIはこの普及を決してあきらめることはないのであります。 KAI
星野も、北京オリンピック以来、運をなくしてしまって久しいけれど、北京で勝てなかった理由をいまだ理解せぬまま、楽天でこれまた繰り返しているのであります。
「交流戦、阪神7‐0楽天」(19日、甲子園)
孝行息子の出現を待った父の日だったが、オヤジの期待は裏切られた。守備のミスが重なり、打線も4安打無得点に封じられての完敗だ。試合後、星野監督は少し笑ってみせながら、帰りのバスへとゆっくり歩いた。
「(ミスは)甘さというか、(チームに)DNAとしてあるんじゃないか。先発ピッチャーも、6日も1週間もあけてもらって。(全体的に)先発が、あれだけぶざまでは毎回勝てんやろ」
自滅のような形で流れを失った。まずは、三回2死二塁からブラゼルの三塁への飛球を遊撃・松井稼も追い、三塁・草野と軽く接触して草野が落球。2点目を奪われた。さらに四回無死二塁からは、スタンリッジのバントを処理した嶋の三塁への送球が悪送球となって失策に。そこから一気に3点を奪われた。
守備のミスに足を引っ張られる形で、永井も5回で降板。6月は田中以外の先発に勝ち星が付いていない。「どういう調整しとるんや。お前ら(報道陣)とは話し合いはせん。オレがチェックしないと」と星野監督。冗談交じりとはいえ、思うようにいかない現状があるからこその言葉だ。
これで「古巣」阪神との対戦成績は2勝2敗の五分となり、交流戦は9勝13敗2分けで終了。「立て直すにも、ありすぎてどこから手を付けていいか分からない」。24日の西武戦で再開するリーグ戦まで、頭を悩ませる日々が続く。
(星野監督「ミスのDNAある!ぶざまだ」)
その、選手の「気持ち」とは、野村解任後のブラウン監督時代のまま、まったく変わってはいないのであります。
楽天の選手たちは、本来はみな楽観主義者だった。野村監督におだてられてここまで来てしまったのは、楽観主義者以外のなにものでもない。そんな彼らを、野村監督の解任は、ものの見事に悲観論者に変えてしまったのであります。
開幕以来の最悪の勝率は、解任が間違っていると思う選手たちが、無意識的に解任が間違いであったことを証明しようとしている結果なのであります。そしてこれをメディアが補強する。昨シーズン、初っぱなからメディアに野村監督のぼやき映像が出ない日はなかったのに、今季、取材記者すら集まらない。
当然こんなことになるのは、簡単に予想できたこと。
(楽天が勝てないのにはわけがある週末テニス)
まずは選手たちを悲観論の呪縛から解き放ち、楽観主義者たちにもどしてあげることが先決なんでありますが、この選手たちの「気持ち」を理解することができない星野には、まずもってこれができるわけがないのであります。
それにしても楽天の選手たちは、なぜいまだにこの悲観論を引きずったままでいるのか。
それは、野村解任の間違いとブラウン監督の失敗のいずれをも反省することなく、星野監督と言う三度目の正直ならぬ失敗を、三木谷が繰り返し続けるからに他ならないからであります。
野球のやの字も知らんで、ようやれますな。
(岡田監督と野村監督、あと週末テニス)
野球チームの監督がなんたるかを、まるで理解しないまま、子会社のトップの首を挿げ替えるかのように監督を変えていく。
野球チームの監督とは、これは決してサッカーの監督でもなければ、ほかのいかなるチームスポーツの監督とも、まったく異なる種類の監督なんであります。
なにが違うのかと言えば、野球とは、監督同士、1対1で戦う、唯一のチームスポーツ(アメフトも比較的これに近い)なんだと言うことであり、これはあたかも将棋における二人の棋士の戦いと同じと言っても過言ではないのであります。この場合、選手一人一人が将棋のコマなんであります。
これを理解する一番の好例が、ヤクルト監督就任時の野村の言葉であります。
自らキャッチャー出身の野村にとって、捕手がチームの要であることを知り尽くしていた彼が、まず一番に手掛けたのが、自覚に欠ける古田に「野球」のやの字を教えることだったと言うのであります。
このかいあって野村ヤクルトはみるみる強くなりヤクルトの黄金時代を築いたのであります。
野村の考える「野球」は、選手が戦うのではなく監督が戦う。監督が戦うためには、将棋のコマのように選手が監督の忠実な手足にならなければ、絶対に勝つことができない。そのために、古田にしつこいまでに戦い方を教え込んでいったのであります。この古田がピッチャーを教え、野手に指示を出して、野村の野球を教えていく。勝つ方法を教えていくのであります。
これが、星野も、もちろん三木谷も、わかっていない。
星野は、たまたま野村阪神の後釜で成功したかに見えるけれど、すべては野村が育てた選手のおかげ。中日時代も、後に中日常勝監督となる選手落合を擁していただけのこと。落合が選手でいながら監督の働きをしていたのであります。
これを理解していれば、野球の監督の首を挿げ替えることの意味がよくわかるはず。
実は、野球の監督ほど、選手が選ぶ監督はいないのであります。
これを如実にあらわす出来事があったのであります。
やはり星野が、あのWBC監督就任をイチローをはじめとした選手たちに拒否され、結局これが原ジャパンの優勝につながったと言う「事件」がありましたが、まさにこれのことなんであります。
お話を楽天にもどして、選手たちはいまだ望む「監督」を得ていないことが、選手たちの悲観論と言う呪縛から抜け出せない根本の原因なんであります。
もはや、野村も体力的に無理となれば、残るは落合くらいしかいないけれど、もちろんノーと断られて、もはやオーナー交代くらいしか楽天に道はないのであります。 KAI
もしこんなことが行われれば、これはもう「バカ」の圧勝に終わるんだろうなと思うと、一挙に目の前が真っ暗になり、目眩がしてきた。
「一点突破、全面展開」とは、菅直人がよく口にする、自身が得意とする行動パターンのことだ。これを今の状況にあてはめ、菅直人になったつもりで今後の行動を勝手に想像すれば、仮に「再生可能エネルギー促進法」が通らない場合は、解散権を行使し、衆議院解散、総選挙に打ってでるのではないか。その場合に実施される総選挙は、「脱原発解散総選挙」とされ、脱原発の是非を問う実質的な国民投票となるだろう。
私は菅直人という政治家については、お遍路姿を公開するよう所が昔から虫が好かず、顔も見たくないくらいだが、仮にそうした状況が到来したら、迷わず菅直人政権を支持する。
(菅直人首相が目論む?「脱原発解散総選挙」というウルトラ延命策)
日本を代表するような大学の教授からして、「バカ」まるだし、まるで論理思考の体をなさない「散文」を書き散らかすのであります。
原発は近代技術の極致である。近代技術はどこかで人間の支配の領域を超えてしまう。近代技術をささえるものは専門科学であるが、専門科学は、つねに一定の仮定(想定)のもとで理論的な正解をだしてくる。その想定のもとで技術がつくられる。これは原発にせよ、ロケットにせよ、ITにせよ、遺伝子工学にせよ同じことだ。ところが、じっさいにはたいてい「想定外」のことがおきる。というよりむしろ近代技術そのものが「想定外」を生みだしてしまうのである。
たとえば、3年ほど前にリーマン・ショックが起きたが、これなどまさしく「金融工学」という独特の技術が生みだしたパニックといっても過言ではない。「金融工学」という「技術」は、ITや統計学や数学の技法を駆使して金融取引のリスクを管理できるとした。それは一定の統計上の想定のもとでは成り立つが、じっさいには、金融工学を使った取引そのものが金融市場を不安定にして「想定外」を生みだしたのである。
そこでわれわれは一つの逆説に直面する。それは、近代技術はある「想定」をおかねば成立しないのだが、ほかならぬその技術そのものが「想定外」の事態を生みだしてしまう、ということだ。
今回の原発もその面が強い。発端は予想を超えた巨大津波だが、その後の事態がどう進行するのかは「想定外」になってしまい、管理不能に陥ったのである。
こういう技術によってわれわれの生活が維持されていることをまずは知っておかねばならない。ITにせよ、遺伝子工学や生命技術にせよ、じっさい、いかなる「想定外」を生みだすかは不明といわねばならない。そして技術が高度化すればするほど、「想定外」が起きるリスクは高まるであろう。われわれはその途方もない危険を受け入れることで、今日の豊かさを作り上げてきた、というほかない。
(【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 原発事故の意味するもの)
【ウィーン=木村正人】2034年までに寿命を迎える原子力発電所の全廃を決めたスイスの原子力安全当局が福島第1原発事故について「想定外の事態は何一つ起きていない」と日本の安全対策の不備を指摘する報告書をまとめていたことが19日、分かった。原発の安全強化策を協議する国際原子力機関(IAEA)閣僚級会合が20〜24日開かれるが、こうした加盟国の厳しい目が日本側の対応に改めて注がれそうだ。
スイスの原子力安全当局が事故を分析して5月5日に同国政府に報告した。
産経新聞が入手した報告書によると、(1)緊急システムに津波防護策が施されていなかった(2)冷却用水源や電源の多様化が図られていなかった(3)使用済み核燃料プールの構造が内外の衝撃に対して無防備で確実な冷却機能もなかった(4)原子炉格納容器のベント(排気)システムが不十分だった−と指摘されている。
その上で「携帯用ディーゼル発電機やポンプの備えがあれば、もっと短時間で原子炉への注水を再開できた」として少なくとも2号機と3号機の炉心損傷は避けられたと分析。「最初の3日間に3号機と4号機の使用済み核燃料の加熱と放射性物質の放出を防ぐために貯蔵プールに注水できなかった事実はもっと不可解だ」と厳しく批判した。
(脱原発のスイス当局が福島事故を厳しく指摘「想定外の事態ではない」)
報告書は「過去500年に福島第1原発の安全基準を超える津波が19回も起きているのに十分な対策を怠ってきたことは日本の安全基準への不信感を醸成している」とも指摘している。スイスの国民議会(下院)は今月8日、既存の原子炉5基を順次停止する脱原発議案を可決している。
一方、日本を現地調査したIAEAの調査団は閣僚級会合で調査報告書を発表するが、IAEA派遣団の一員として2007年の新潟・中越沖地震で自動停止した柏崎刈羽原発の損傷を調査した英ブリストル大のウィリー・アスピナル教授は「IAEAが独自に調査して改善を求めるというより現場を視察して日本側から調査結果の報告を受けただけ。それが日本政府の要請だった」とIAEAの調査能力の限界を指摘する。
((2/2ページ))
これこそ、「バカの思考過程」を理解するにあたって、実証研究するにはうってつけの事例となるのであります。
そのためには、「バカ」ではない方の、スイス当局の思考過程を見るのが一番なんであります。
(1)緊急システムに津波防護策が施されていなかった
(2)冷却用水源や電源の多様化が図られていなかった
(3)使用済み核燃料プールの構造が内外の衝撃に対して無防備で確実な冷却機能もなかった
(4)原子炉格納容器のベント(排気)システムが不十分だった
「バカ」ではない「普通」の人間の思考過程とは、つまりはこう言うことなんであります。あらゆる論述にはその根拠となるものを示して初めて、論理思考の体をなすのであります。
論理思考の議論においては、まずはその「根拠」が正しいかどうかの議論から始めるだけでいい。簡単で明快なんであります。
これに対して、「バカの思考過程」では、突然ふってわいたようにまったく関係ないところから「想定外」と言う言葉が飛び出してきて、なぜかまったく理由も不明なまま無根拠にこれが原発事故対応に適用される。
これがすなわち、かの有名な「レトリック」と呼ぶ手法でありまして、実はこれこそが「バカの思考過程」を示す典型的特徴と言えるものなのであります。
いったい「レトリック」とは、どう言うことなのか。
この「レトリック」であることと、「バカの思考過程」との間には、きわめて密接な関係があるのであります。
すなわちそれは、同じ「思考のフレーム」に「所属」することをもって論述が完結する(かのようにみえる)社会においては、その論述の正当性、あるいは、その信憑性は、その論述の中身とはまったくもって無関係に、いかにその「レトリック」が巧みであるかに大きく依存しており、またこの村の住民も「レトリック」でものごとを考えることに慣れ切ってしまって、これ以外の考える力を誰も持ち合わせてはいないのであります。
冒頭のカトラー氏の論理も、一見正当な議論のようでいて、いまのいま困窮を極める被災者切り捨て政権を正当化する解散総選挙に与する、性の悪い「レトリック」と言わざるを得ないのであります。
これを小泉郵政解散などと重ね合わせるなど、とんでもないのであります。
原発避難を強いられいまだ帰還の目途さえつかない福島住民はじめとして、今回の地震の被災者救済をおいて他に、いまのいま、緊急にしてかつ重点的に政治が取り組むべきテーマがいったいぜんたいどこにあると言うのでありましょうか。
万が一にも「脱原発解散総選挙」が挙行されたとしたら、「バカ」国民が「バカ」の圧勝を選ぶことはまず間違いないのでありますが、KAIはこの時、心の底から、国家的犯罪を犯した「バカ」と「国民」を死ぬまで呪い続けるのであります。 KAI
思うに、原発問題とはすなわち、原発周辺住民問題なんであります。
今回の原発事故の終息とは、この周辺住民が元の住んでいた家に帰り、日常を取り戻すことをおいて他には、あり得ないのであります。
であるならば、日本中の人々の「復興」のバロメーターを、この福島原発周辺住民の「自宅帰還」、これ一点に焦点をあてる以外にはないと、KAIは考えるのであります。
その指標として、現在ネットに表示されている電力使用量と同じように、原発周辺地域の放射線量をリアルタイムに表示し、「帰還」可能放射線量を目標値に、これを全国民が共有することを、KAIは提案するのであります。
このために、可及的速やかに、放射線量を自動で測定する装置を福島県の原発周辺地域の1000箇所に、これを重点的に設置し、リアルタイムにネットに流すようにするのであります。
こうすることによって、決死の覚悟で、原発の現場で昼夜を問わず作業されている人々にとっても、自分たちの終わりの見えない作業の「目標」を、避難した人々と間違いなく共有することができ、過酷な作業の一筋の光明を見出すきっかけに、間違いなくなるとKAIは思うのであります。
もちろん、当面は、「帰還」など望むべくもありません。
しかし、これを必ず、住民が戻れるまでに、下げる。
この大きな「目標」を、現地の作業員、避難している周辺住民、そして日本国民全員が共有する。これはとてつもなくおおきなことではないでしょうか。
ぜひ、こころある政治家のみなさん、これを実現してください。お願いします。 KAI
いささか時機を逸してしまいましたが、今年の全仏オープンは、きわめて得るものが大きい大会であったと言えるのではないかと思うのであります。
それは、トップレベルのプレーヤー同士の戦いにおいてゲームの勝敗を決する、その決定的要因とはいったいなんであるか。今大会の男子準決勝と決勝を観れば、これが手に取るように見えてくるのであります。
決勝
ラファエル ナダル/ロジャー フェデラー 7-5, 7-6 (7-3), 5-7, 6-1準決勝
ロジャー フェデラー/ノバック ジョコビッチ 7-6 (7-5), 6-3, 3-6, 7-6(7-5)
(全仏オープン (ATP)シングルス: 男子)
それは、今年になって全戦全勝のジョコビッチの存在であり、その彼に今年4連敗と一度も勝っていないナダル、同じく3連敗のフェデラーと、この三人の関係であります。
大方の大会前の予想では、準決勝でフェデラーに勝ったジョコビッチが、そのまま決勝でナダルをやぶっての優勝でありましたが、結果はご覧のとおり、ジョコビッチは準決勝で敗退、ナダルの優勝とあいなったのであります。
大会前の予想通り、もしジョコビッチが準決勝でフェデラーに勝っていたならば、これまた決勝でナダルに勝って優勝したのはまず間違いないのであります。しかし、そうはならなかった。
そのポイントは、二つ。
■ミスショットがきわめて少なくなるからエースでしか決まらない。
■エースを取るにはアンティシペーション外ししかない。
一番目は、トップレベルの選手同士の戦いですから、つまんないミスがきわめて少なくなるのは当然と言えば当然ではありますが、こうなってくるとポイントを得る方法はエースしかないのであります。
しかし、このエースも簡単には決まらない。
たとえばサービスエース。レシーバーを外に大きく追い出すサービスも、レシーバーがここに来ると予測していれば、逆にストレートのリターンエースで逆襲されてしまうのであります。
つまり、相手の予測(アンティシペーション)の裏の裏をかくショットの繰り返しでしかエースを取ることができないのであります。
これをいわゆる「心理戦」と呼ぶのでありますが、この「心理戦」における選手同士の「相性」と言うものの存在こそ、今大会ナダル優勝の秘密を探る大きなポイントなんであります。
すなわち、3人の相性はこうなっているのであります。
ジョコビッチ > ナダル
フェデラー > ジョコビッチ
ナダル > フェデラー
これはすなわち「三竦み」であります。
これを見れば、なぜナダルが優勝したかが、一目瞭然なんであります。ナダルにとって決勝でジョコビッチにあたらないようになること、すなわち準決勝でジョコビッチがフェデラーに敗退することが絶対条件であったわけであります。そして案の定、フェデラーに負けた。
すべて「相性」通りの結末であったのであります。
それにしてもこの「相性」、なぜ「三竦み」なのか。
それを説明するのが、勝負における「相性」とは「アンティシペーション」のことであると言う真実なんであります。
両方から見て「相性」がいいなどと言う相手は、いない。必ず「相性」が良い相手は、相手から見て「相性」が悪い相手となるのであります。
なぜか。
これを「アンティシペーション」すなわち「予測」で考えると、容易に理解ができるのであります。つまり、「相性」の良い相手は「予測」しやすい相手であり、「相性」の悪い相手は「予測」しにくい相手であると言うことなんであります。
更にもっと言えば、「相性」の良い相手には、相手の「予測」を外しやすいし、相手の「予測」を外すこと、すなわち「裏をかく」ことの難しい相手が「相性」が悪いとなるのであります。この「裏をかく」ことの難しい相手から見れば、相手が「裏をかく」ことを「予測」できると言うことでもあります。
これらのことを整理すると、この「予測」や「アンティシペーション」の意味が、「相手の気持ちがわかる」かどうかと強く関係していることに気付くのであります。
それも、頭で考えて「相手の気持ちがわかる」のではなく、無意識レベルで「相手の気持ちがわかる」かどうかがきわめて重要なんであります。
これが、この3人の「三竦み」の関係を生み出している。つまりはこう言うことなんでありますが、ではなぜジョコビッチに3連敗だったフェデラーの「相性」がこのジョコビッチに対して良くなっているのか。
これは実はジョコビッチは関係なくてフェデラー自身の問題であり、これがファミリーシートの中でふくよかでおだやかな表情をみせるミルカを見れば、すべて納得のいく話なんであります。
お話は、だいたいこれでお仕舞いなんでありますが、ひとつ気になることと言えば、人はなんで無意識に「相手の気持ちがわかる」のでしょうか、と言うこと。ま、これは次回のテーマと言うことで。 KAI
自業自得。
イタリアの、原発再開の是非を問う国民投票の結果を見て、一番にこれを想ったのであります。
もちろん原発推進派の人々のそれですが、この「自業」とは。
それは、原発推進の思いとはうらはらに、実際にやってきたことのことごとくが、反原発を利する結果になったと、つまりはそう言うことなんであります。
これは、今回の東電の対応を見れば一目瞭然であります。
すなわち、反原発の主張のポイントは、「原発怖い」と言う「イデオロギー」であります。これに対して、東電を始めとした推進派がやってきたことは、なにか。なんとこれが、「イデオロギー」には「イデオロギー」、なにを勘違いしたのか「イデオロギー」を「イメージ」ととらえて、「原発怖い」に対抗する「原発安全」、「原発エコ」のキャンペーンに邁進していったのであります。
「イデオロギー」論争が不毛であることは、歴史が証明する真実であります。
共産主義「イデオロギー」を駆逐したのも、資本主義経済の成功と言う「結果」であり、「原発怖い」と言う「イデオロギー」を駆逐するためには、「原発安全」と言う「結果」を示す以外にはなかったのであります。
そう言う意味で、今回の「フクシマ」において、もし女川同様、千年に一度の津波にも耐えたと言う「結果」を出すことができていたとするならば、イタリアの国民投票がまったく正反対の帰結を迎えていたことはまず間違いないのであります。
ここで、このことをもう少し精緻に考察する必要があるのであります。
人はなぜ、自分が望む方向とは違う(まったく反対の)方向に、運命が流れていくのか。
この運命の真理とも言うべき、「宇宙の法則」の謎を解く鍵こそ、「自業自得」なんであります。
運命は何によってきまるのか?
一言でいうと自業自得と教えられます。
業とは わたしたちの行い のこと
ですから
自分の運命は自分の行いが生みだしたものですよ
と教えるのが仏教です。
仏教では私たちの行いを、心と口と身体の3方面から教えられます。
これを身業(しんごう) 口業(くごう) 意業(いごう)・・・あわせて三業(さんごう)といいます。
心で思ったり、考えたりする行い・・目には見えませんがこれも心の行いです・・意業といいます。
身体でやるいろいろな行い・・走ったり蹴ったり殴ったり、これを身業といいます。
口でしゃべったりする行い・・悪口をいう、ほめる、説明するなど、これを口業といいます。
私たちの行いのすべては三業のどれかにはいるでしょう。私はこのメルマガを書いている→これは 身業ですね。
皆さんは読んでいる。→音読すれば口業です・・そんな人いないか・・
読みながらいろんなことを思うでしょう。→これは意業といいます。
私たちは心や口、体でいろいろなことを思ったり言ったりやったりします。
この三つの行いの中で一番 重たい行いは何でしょうか?
体の行い? 口の行い? 心の行い?
心の中では何を思っていても 言いさえしなければ やりさえしなければ
誰にもわからないから何を思っていてもいいだろう
という人もいる。
しかし、仏教は全く逆です。
心の行いこそ最も重いと説かれるのです。
殺るよりも
劣らぬものは
思う罪と仏教ではいいます。
口や身体で殺すのも恐ろしい罪ですが
心で殺す罪はもっと恐ろしいのだと教えられます。
では、なぜ、誰にもみえない心の行いが一番重たいと言われるのでしょうか??
次回、お話ししたいと思います。
【編集こーき】「自分の運命は自分の行いが生みだしたもの」
これが仏教の運命観です。
神がいて私たちの運命を決めたわけでもなく先祖のたたりで不幸になるわけでもありません。
手相などのよしあしで運命が決まるのでも絶対にない。
と教えられるのが仏教です。
厳しい・・と受け取られる方もあるでしょう・・
でも、苦しみを人のせいにしたり、
先祖や手相のせいにしていては、一時的な気休めになるかもしれませんが
問題は解決しません。
何でこんな結果になったのか、自分の心や口や身体の行いに原因が
なかったか?と自分の行いを見つめていけば、
どんな苦しみも反省と向上のチャンスにできるのではないでしょうか。
仏教を信じることを深信因果といいますが
仏教がわかれば努力向上主義になるんですね。
(自業自得とは仏教の教え)
運命とはなぜ「思ったとおり」にはならないのか、実はその答えは簡単なんであります。
それは、実際に「思っている」のは、「思ったとおり」と思っていることとまったくもって異なる(真逆の)ことを思っているからに他ならないからであります。
たとえば、会社を起業して、でも「思ったとおり」にはうまくいかなかったとする。この場合、まず間違いなく「思っている」のは「思ったとおり」のこととはまったく違うことを思っている自分に気づく必要があるのであります。
これが理解できずに「他人のせい」とかたづけてお仕舞いにしてしまう人が、「失敗」し、自分自身の問題と引き受け、地道に続けることができる人が、「成功」するのであります。つまりこれを逆に言えば、「失敗」する人は、これを最初から「失敗」すると「思っている」人が「失敗」すると言うことなんであります。
すなわち、自業自得とは、「失敗」にも働くし、「成功」にも働く、いずれの「結果」にも作用する、そう言うもんなんであります。
ですから、「運命」と言ういずれの「結果」にも、これを自分自身の問題として引き受ける。ものごとはすべてここからスタートするのであります。 KAI
震災から3ヶ月が経ってしまった。
言葉にならない苦難を前にして、哭く人々にあふれかえっている。
これがあの「バカ」によってもたらされていることは、まぎれもない「現実」なんであります。誰がやってもたいして変わりがなかったはずと、本人を含めこれを否定する方々がいかなる言辞を弄しようとも、3ヶ月たってもなお、ほんの少しの希望も持てず哭く人々にあふれかえっている現実が、これを明確に証明しているのであります。
このところなんども「バカ」を連発してきましたが、今回の災厄ほど、ほどこしようもないほどバカ「国民」が白日の下にさらされる事態は、かつてなかったのではないかと思うのであります。
いまも、たとえば「節電」ひとつをとっても、国民は「バカ」まるだしであります。
「節電」の声があがって、なぜか街灯が一斉に消えてしまった。
あのー、電力が足りなくなるのは真昼間なんですけど、なんで街灯消して自転車事故や痴漢を増やそうとするのか。まったくもって理解できないのであります。
サマータイム採用も、これまたわけがわからない。電力需要のピークは午後の2時前後。サマータイムでいったいこれのどこが解決になると言うのか、教えていただきたいものであります。
そして、バルセロナまででかけて行って、「バカ」を披露する人まで現れた。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
(村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下))
いや、たとえ百歩ゆずったとして、「核」エネルギー開発の実用化を、「核」アレルギーを理由に、国家の政策としておこなわないことを選択することが歴史上あり得たか。
それは、米国に真珠湾攻撃さえしかけなければ、原爆投下の悲劇にあうこともなかったと夢想するに等しい、歴史上の空想にすぎません。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
(村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下))
それが「共有できる物語」としての、過去の「空想」ではない、未来の具体的な「夢」の創造なのであります。
村上春樹的、知識人「バカ」のおおきな特徴として、自らの手で生み出した虚構の村社会を、自身の「思考のフレーム」と錯覚してしまうことにあります。もちろん熱心な読者は、この村社会の住民として疑いもなく、安易な「同調」と言う「バカ」をただ繰り返すだけなのであります。
その結果としての、「反核」、「反効率」と言う「思考のフレーム」。
実は、ここには、何の「夢」の創造もない。
あたかも「原子力発電に代わる有効なエネルギー開発」などといって、原発を放棄した日本だけが開発できるかのように、これまた根拠なき「夢想」をふりかざす。自分では、ほんのひとかけらのなにも創造できないくせに。
「効率」を否定するのも、結構。
しかし、だからといって、「非効率」社会にいまから戻すことが例えできたとして、そんな社会が成り立たないことくらい、考えろよ。そんなこと、バルセロナに飛行機ではなく貨物船にのって往復してから言えばいいのであります。
そうではなく、彼ら、職業的作家たちがまずてがけるべきことは、もっと高次の作業、すなわち、「新しい倫理や規範」=「反原発や反効率」などといった「ふるぼけた」イデオロギー的恒等式を超える、もっと目の覚めるような「非現実的」恒等式の創造とこれを言葉にすることをおいて、本当の意味の(思考する)「作家」にしかできることはないのであります。
そして今日も、「バカ」がくりかえされる。一向に哭く人々が減る気配さえない。嘆息。 KAI
今回の「ウソつき」バカの思考方法は、まさに「バカはいかに思考するのか」を理解するためにうってつけの、最大の具体的実例となるのであります。
いったいこのウソが「ばれない」世界とは、何か。それは、いってみれば負の「安心社会」。閉鎖的、閉じた社会であって、この中に住み続ける限り、この社会の住民にとってウソの「ばれる」心配のない社会。もちろん当の本人にとって、自分がこの閉じた社会の中にいる自覚は、もとよりあるわけではないのであります。
(人はなぜ「ばれる」ウソをつくのか?)
「ばれない」世界、すなわち、彼らは、きわめて狭い村社会の住民として「思考のフレーム」の中にいる。
このように、自らの頭で思考するのではなく、村社会の住民であることを確認することが、すなわち「思考」と理解している彼らにとって、いま、自分はどの「村」にあるかの認識が極めて重要なんであります。
不思議なことに、このバカのまわりには、コクーンにも似た岡田とたった二人の「村」が形成されている。
まもなく、このコクーンが破られ、彼らの「思考」が破綻するのは、いまさらこれに言及するまでもないのであります。
次なる、事例研究。
菅が地震や原発事故を起こしたわけでもなく、現状では誰がトップだったとしても今よりめざましくすばらしい対応ができるとは到底思えず、特にそれが、福田や安倍を次々に繰り出した自民党じゃぁねぇ、だいたいこんな状況下火中の栗を拾って総理をやりたいヤツが他にいるんか、信じられん、という私の感想と「ツイッター民意」はかなり多くの人に共通していたようだ。
それなりに、日本では民主主義が機能しているということだろう。
(ツイッター民意)
テレビと言う「枠」を、単に「ツイッター」に変えただけで、まったくもって自分の頭で「思考」することができない。
海外から発信する人間の典型ではありますが、日米の情報格差と言う、村社会の情報格差を利用することで、日本とは異なる村社会に同調することでもって、これを自らの「思考」となすとすることを生業にしてきた方々の、典型的思考パターンと言えるのであります。
(今回は、日本の民主主義が機能「していない」、典型的事例なんですけどね、これが「思考」できないんであります)
そして、こちらの事例。
さて、ここで心して冷静にならなければなりません。菅政権は確かにやり口が下手で、特に政治主導といって役人を活用しないなど僭越にもほどがある、とんでもないことです。しかし、原発の事故対応については、今が仮に自民党政権だったとしても、東電も安全委員会も、事実隠し、責任逃れはしていたはずですから、福島の処理は手こずったでしょう。
もちろん民主党政権は、東北大震災の対応以外でもいろいろと失敗をしていますから、民主党にとっては今後も苦闘が続くでしょう。我々は、今の日本の何が問題なのか、よくよく考えて判断していかなければなりません。日本が抱える大問題は、実は3・11以前から変わらずそこにあって、それが震災で増幅されたのだと考えるべきです。
(内閣不信任案否決を受けて〜日本の民主主義が「小沢一郎」から卒業した日〜)
それは、この加藤紘一と言う男が、いかなる村の「思考のフレーム」に所属しているか。これを研究する上で、おおいなるヒント満載の文章なんであります。
まず「自民党」村。彼は、この村にあっても震災対応はたいして変わらないと書いている。もちろんこれは、自民党の不信任案の趣旨説明を読めば、まったく異なる立場にあることは一目瞭然であります。にもかかわらず、これを否定するかのようなことを書くのは、すでにこの男が「自民党」村にはいないと言うことであり、「民主党」村、すなわち次の衆議院選挙では、鵜の目鷹の目、情況によっては民主党から出るつもりで準備していることを、明確に示すものであります。
そしてもう一つが、「小沢一郎」。
これについては、加藤紘一以外にも多くの人々がこれを言及しているけれども、一様にこれもまた、「思考のフレーム」から彼らが脱することはないのであります。
すなわち、「小沢一郎」村とは、メディアを始めとして彼らが自ら生み出した「思考のフレーム」であります。
小沢と言う一人の男が何を考えて行動しているか、自らの頭で「思考」することを放棄し、ひたすら「小沢一郎」村と言う「思考のフレーム」の中の住民でい続けることを、ただむやみに選択するのであります。これにとらわれているのは、他の誰でもない、「小沢一郎」村の住民だけであることに、誰も気づかないのであります。
決して、小沢は、終わりではない。民主党とは、「小沢一郎」村とはまったく違うところで、小沢一郎を必要としているのであります。すなわちそれは、小沢一郎の「経験」なんであります。
選挙が典型でありますが、野党との丁々発止の政権運営、これがいまできていないことが、民主党の一番の困難の原因なんであります。
なぜ民主党は、選挙で連戦連敗なのか。決してこれを執行部が総括できないのも、実はこのわけがここにあるからであります。
「民主党」が、次なる衆議院選挙に打って出るとき、小沢一郎の存在があるやいなや、きわめて重要なんであります。もちろん、小沢が選挙に優れて力を発揮する能力があるとは、KAIは微塵も思ってはいないけれど、いまの「民主党」村と言う「思考のフレーム」にとっては、不可欠であることはまず間違いないのであります。
これを一番に理解し「思考」しているのが、鳩山であり、真逆があの「バカ」であります。もちろんいずれも「バカの思考過程」に違いはないのでありますが。 KAI
それは鳩山に恥をかかせて、著しく鳩山のプライドを傷つけたことでありますが、これが致命的な失敗であったとは、まったくもって気づいてはいないのであります。
苦し紛れのウソ。
この人、子どものころから幾度となく繰り返してきたんだろうな、なんて思うけれど、ただ今回だけは、いままでとは決定的に違っているのであります。
大人のプライドある人間に「公の場」で恥をかかせる。
このことが何を意味しているか。大方、ウソつきに慣れ切ってしまってわかんなくなっちゃったってことなんでありましょう。
この怒りのエネルギーは、もちろん鳩山だけではない。直前まで「賛成票」を投じようとしていた議員も、またこれを注視していた国民もと、すべての怒りが「マグマ」となって、この「ウソつき」に天誅を下すのであります。
それにしても最後の最後に、とんでもないことをやらかしてしまったのであります。
他国も見ている公の場で、一国のリーダーがウソをつく。いくらウソをついていないと言い放っても、結果的に辞任をにおわせ、鳩山始め不信任賛成者を切り崩したと言う事実こそ、ウソつきの紛れもない明々白々の「証拠」であって、これを「証拠」と言わずして一体何を「証拠」と呼べばよろしいのでありましょうか。
ですから、「ペテン師」にも劣る「ウソつき」がこの国のリーダーとして、一刻たりとも他国と信頼ある関係を築くことは不可能であるばかりでなく、国内にあっては、この「ウソつき」による政治災害と言う「大乱」突入なんであります。
先日からのいやな兆しと思っていた「白虹」の示す「大乱」とは、大震災や大津波、原発事故のことかとおもっていたけれど、そうではなくまさにこの「政治災害」、このことであったのであります。
国家レベルで、いままさに大乱なんであります。
(白虹と占いの遂行性と言う法則)
そこまではならないでしょうと思うあなたは、甘い。
これを回避する手立てはないのか。
昨晩は、あまりの腹立たしさにまかせて、被災地の人々に檄をとばしてしまいましたが、苦しめられている人々やこれから苦しめられる人々こそがいま声をあげなければ、復興はおろかすべての状況は悪化するばかりなんであります。
そして「天誅」。とんでもないところから降りてくる。まずは、これを期待して、夢をつなぎに最終日残りものには福がある「ドリーム」ジャンボを、買いに行くのであります。 KAI