この答えは、間違いなくYESであります。
■巻き返しを始めた
そもそもテレビというのも山あり谷あり。未来永劫、厳しい環境が続くということはなく、大事なのは「その谷の間になにを売るんや」ということでしょう。我々の場合は発電用のソーラーパネルであったり、白物系の家電であったりと、さまざまなテレビ以外の事業があるわけですしね。
いずれの事業にしても大事なのは「お客様価値」を明確にすること。私が無事に社長になれたら(笑)、何がお客様にとって大事な価値なのか、その判断を私がやっていかないとならないんだと思っています。「大きな工場を稼動させてしまった、だからテレビを大量に売りたい」ということでは、お客様の価値には直結しにくいわけです。
さらにこれからは単品をお客様に買っていただいてそれで終わり、次はまた別の商品を売りますという単品売り切り型の事業から、売った後もメンテナンスをさせていただきます、追加のサービスを提供しますといった、お客様と継続的な関係を大事にしていく形の事業もしていきたいとは思っています。
たとえば我々のパソコン『レッツノート』にしても、法人のお客様ごとにサービスをカスタマイズしていて、ソフトのインストールから、周辺機器の変更まで、手取り足取りやらせていただいているわけです。このようにサービスとモノ作りを合体させてやっていくことは大切になってくるでしょう。さらに言えば、そうすることで日本国内に生産拠点を残せるようにもなりますからね。
(注目の津賀一宏・新社長に独占直撃インタビュー「パナソニック社員に告ぐ」「テレビ、やめますか?」赤字7800億円--- 未曾有の危機にどう立ち向かうのか)
この一点において、津賀一宏は、間違いなくパナソニックを再生させることができるのであります。
すなわち、津賀一宏にとって、パナソニックの抱える問題の本質とは何か?
「お客様価値」を明確にすること
これが理解できていれば、もうなにも怖いものなしであります。
ふりかえれば、カルロス・ゴーン、竹中平蔵、とみなこの「意志」にあふれていたのであります。
コストカッターとの異名を持つゴーンでありますが、彼の本質はこんなところにあるのではまったくないのであります。
新年会で力説した話です。
ゴーンによる日産の復活の本質は、恐らく誰も理解できていません。これは、世のコストカッターが必ずしもうまくやれなかった事実をみればあきらかです。コストカットすれば復活できるのであれば、世の苦境企業は、すべて復活できます。
まったく想像ですが、ゴーンによる日産の復活の本質は、事実の確認、です。
購買部門のコストをチェックすると、その事実を認識していたのが、G(ゴーン)以前は主任はおろか担当者、しかも、この担当者も前任者からの引継ぎ、と言うありさまで、誰も数字の意味を説明できないのです。
これが蔓延している怖さ。担当役員が報告する数字にまったく根拠がないとは、機能不全以外何者でもありません。これがG以前の日産、今のSONYの実態だと、筆者は思います。誰が悪いとあえて言いません。
ゴーンは、これをひとつひとつ正していきました。担当役員が説明できなければ、担当課長をつれてきて説明させます。その課長も説明できません。主任もダメ。担当者もダメ。ここでやっと、自分たちの組織がなにをやってきたか、明白になるのです。そう、なにも、やってこなかったことが。
ここでやるべきことは、事実の確認です。技術にとって、事実こそすべてです。事実が把握できなくして、一歩も前進は、できません。事実に基づき機能する組織に日産を再構成したことが、ゴーン革命の本質であると、新年あらためて認識したしだいです。 KAI
(コストカッターゴーンの本質)
東電をはじめとして、日本の大企業、政府系機関、その大半に蔓延する、前任者の踏襲と言う悪弊。中身を理解しないかたちだけの仕事であり、それでも大過なくすんでしまう怖ろしさであります。
これに徹底的にメスを入れ、「事実の確認」をとおして「顧客価値」を創造する「意志」を明確に示すことができたからこそ、日産は復活したのであります。
竹中平蔵も、またしかりであります。
金融担当大臣就任当時、「日本の銀行はいたって健全であり、公的資金の投入は必要ない」などと発言し、その姿勢から、経済財政政策担当大臣の竹中平蔵と対立した。この対立は、そのまま内閣府経済財政諮問会議などの場で議論が繰り返され、最終的に、内閣改造時に柳澤が更迭され、竹中が金融担当大臣を兼務することで決着した。
(柳澤伯夫、Wikipedia)
このWikipediaの柳澤の発言がいかに人々を不幸のどん底に導くものであるか、竹中はしっかりとこれを理解し、断固この「意志」を貫徹したのであります。
未曾有の経済危機である。
株価が下げ止まらない。理由は、前回書いたとおり。
識者は、欧米の指導者に、日本の経験に学べと言う。これはこれで正しいけれど、では日本の経験とはなんだったのか。これを正しく理解している識者は、ほとんどいない。
2003年5月17日、りそな銀行が国有化された。
この時、榊原英資は、この国有化を指揮する竹中平蔵を、ペーパードライバーと酷評し運転する資格すらないとこき下ろしたが、結果はこれを境に株価が反転し、日本経済復活へ大きく面舵をきることに成功したのでした。
以来、榊原がこれに始末をつけた様子は見受けられません。所詮この程度の男にすぎないと言うことですが、他の識者といわれる方々も、目くそ鼻くそです。
当時も今も彼らが理解できていないのは、竹中平蔵がよく使う「メッセージ」と言う概念です。
国有化当時の「空気」を一言で言えば、「銀行憎し」です。いつになっても反省しない銀行経営者。相変わらずの高給取りの銀行員。世間の「空気」はきわめて重苦しく、閉塞感に覆われていました。識者といわれる人々は、この「空気」が読めない。榊原を始めとしたこのKYな奴が的外れなことを言うから、余計「気分」が悪くなる。
この状況の中の国有化とは、いかなる「メッセージ」であったのか。
それは、銀行経営者に責任を取らせること、この一点であったのです。
(日本の経験に学べと言うけれど)
しかし、敵対する人物ばかりでなく、これから恩恵を享受した人々までもが小泉・竹中批判に加担し、その結果の、菅と民主政権による大震災と原発事故と言う国難であります。
これが何を「意味」しているのか。もはや言うまでもないことであります。 KAI
さて、今回は、「日本国憲法」であります。
なぜ、いまここで「日本国憲法」が問題となるのか。まずこのお話から始めるとするのであります。
以前、「対米従属批判」について議論したのでありますが、この議論から見えてきたことは、いまのいま日本と言う国家が直面する政治的、経済的、社会的困難の大本にあるのが「官僚機構」をおいて他にないと言う、厳然たる事実であります。
これは、個々の官僚と言う「個人」レベルの話とはまったくもって異なるレベルのお話であり、「官僚機構」のお話とは、つまるところ国家体制を既定する「日本国憲法」それ自体の問題であり、この問題の議論にたどり着くのであります。
とは言え、これは「官僚機構」の問題を解決するために「憲法改正」が必要であるなどとする短絡的議論では、もちろんないのであります。(たとえ何年かのちに「憲法改正」が実現したとしても「官僚機構」の問題は微動だにしないとKAIは思うのでありますが)
そうではなく、今回やろうとする議論とは、「官僚機構」による「支配なき被支配体制」を支える「対米従属批判」の典型、「日本国憲法」は米国の押し付け論の見直しであります。これによって、「日本国憲法」が本来持っていた「正統性」を取り戻すとともに、換わりに「支配なき被支配体制」から偽りの「正統性」を奪い去ることを目的とするのであります。
こんなことを、ずっと考えていたら、なんとまあ、またしてもシンクロニシティ。
堤 (中略)
貫太郎について語ればキリがない。ここらでやめるけど、「昭和の三傑」の一番目は鈴木貫太郎というわけよ。シマジ 二番目が幣原喜重郎(引用者注・しではらきじゅうろう)ですか。
(5/7)堤 そう。この幣原も「軟弱外交」の代名詞として汚名を着せられている。ところがこの幣原が「太平洋のシーザー」を自称する占領総督マッカーサーを相手に一世一代の大芝居を打つんだ。
喉が渇いた。何か呑ませてくれ。
堤 立ちゃん、日本国憲法の第9条、あれはアメリカから押しつけられたものだと思う?
立木 普通の人はあれはイヤイヤ押しつけられたと思っているでしょう。
堤 それにオレは異を唱えたんだ。なるほど憲法は全体としてアメリカに押しつけられたけど、憲法9条だけは違う。日本側から、幣原から言い出したんだ。
瀬尾 凄い仮説ですよね。
堤 いや仮説ではなく真実だと、おれは確信している。だって史料を眼光紙背に徹して読めば、そうなる。
シマジ マッカーサーとやり合うとき、幣原が名うての英語使いであったのがよかったですよね。しかも凄い教養人だった。
堤 マッカーサーは、シェークスピアを縦横に引く幣原の英語に舌を巻いたほどだ。幣原の大仕事は2つある。1つは天皇の「人間宣言」、もう1つは世界初の「戦力放棄」を新憲法に謳うことだ。言うなら日本の国の大柱2本を建て替える。幣原は73歳、老骨にムチ打ち、不退転の決意で智略の限りを尽くした。憲法に「戦争放棄」を謳っている国々はたくさんある。珍しくもない。第二項にいう「戦力放棄」は世界初のビックリ条項だ。
シマジ 言ってみれば、「戦争放棄」とはチンチンは持ってるが女と寝ませんということで、「戦力放棄」はチンチンもチョン切りますってことですよね。
堤 いかにもシマちゃんらしい表現だが、まあ、そういうことだ。
瀬尾 マッカーサーも驚いたでしょうね。日本の国がチンチンまで斬って差し出してきたんですからね。
堤 腰が抜けるほど驚いたと、回想録に書いていますよ。なにしろヤツは軍人だからね。一国が戦力を一切放棄するってんだからビックリするのも当然だ。
瀬尾 このお陰でわが国は戦後早い復興が出来て、若者が朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かず、1人も戦死しなかったんですよね。
堤 そのとおり。勝った国が負けた国の戦力を使うのは世界史の常だ。日本の場合も、アメリカの圧力をモロに受けて、徴兵制か志願制かはともかく、若者が駆り出される可能性があったんだ。アメリカがそう出来なかったのは、憲法9条を楯に使ったからだ。
アメリカは民主主義を標榜する以上、憲法に反することは強要できない。韓国、フィリピン、タイからベトナム戦争に兵隊が駆り出された。韓国なんて精鋭のタイガー師団5万人をベトナムに派遣させられて、タイガーぶりを発揮したために、いまだにベトナム人から恨みをかっている。
日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも、一兵も出さない。吉田茂が憲法9条を楯に頑張ったからだ。再軍備をせまるアメリカの国務省長官ダレスを向こうにまわして、のらりくらりと要求に応じない。結果、警察予備隊は作らされたけど、ひたすら経済立国・軽武装国家に終始した。憲法9条というのは、いうなら擬態なんだよ。生物は危機に瀕すると死んだふりしたり体の色を変えたりする。国家も生命体なんだ。降伏した日本を、さらにどうやっていたぶってやろうかと、戦勝国はてぐすね引いている。
(堤堯 第3回「いよいよ話題は救国の政治家・鈴木貫太郎へ・・・でも、その前に賭けゴルフの名勝負を一席」)
KAIはこれを読んで、まさに溜飲おろすがごとくであったのであります。
日本国憲法の第9条。これを変えるべしと主張する人々も、そのままにすべきだとする人々も、ともに共有する必要がありますのは、この9条が、私たち日本人の「意志」によるものであったと言う「真実」であります。これを言う堤堯(つつみぎょう)とは、『文藝春秋』元編集長。発言の信憑性はそれなりに保証されていると思うのであります。
「正統性」思想にとって、この日本人による「意志」がきわめて重要なキーワードとなるのであります。
それは、すなわちたとえ9条と言う一部だけであっても、日本国憲法の「正統性」を保証することになるからであります。堤の言うとおり、戦後「日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも、一兵も出さない」ことを貫くことができたことからも裏付けられているのであります。
これにたいして、憲法の正統性を否定し、「憲法の破棄」を唱えるのが、石原慎太郎。
それは憲法改正などという迂遠(うえん)な策ではなしに、しっかりした内閣が憲法の破棄を宣言して即座に新しい憲法を作成したらいいのだ。憲法の改正にはいろいろ繁雑な手続きがいるが、破棄は指導者の決断で決まる。それを阻害する法的根拠はどこにもない。
敗戦まで続いていた明治憲法の七十三条、七十五条からしても占領軍が占領のための手立てとして押しつけた現憲法が無効なことは、美濃部達吉や清瀬一郎、そして共産党の野坂参三までが唱えていた。
思い返してみるがいい、敗戦の後占領支配された国家で、占領支配による有効な国家解体の手立てとして一方的に押しつけられた憲法なるものが独立を取り戻した後にも正統性を持つ訳がどこにあるのだろうか。前文からして醜く誤った日本語でつづられた法律が、自主性を取り戻した国家においても通用するといった事例は人間の歴史の中でどこにも見当たらない。「破棄」という言葉はとげとげしく感じられもしようが、要するに履きにくくなって靴ずれを起こす古い靴を捨てるのと同じことだ。
(【日本よ】石原慎太郎 歴史的に無効な憲法の破棄を)
つまり、「破棄」することはできないってことであります。
より現実的なのは、いままでどおりの「憲法改正」。産経新聞が憲法起草委員会を立ち上げたと言う。
■9条、天皇…不明確な規定が誤解招く
現行憲法をめぐり、さまざまな欠陥が指摘されている。
最大の欠陥は「戦争の放棄」を定めた9条の規定だ。普通の主権国家が持っている軍隊の保有を禁じている。
国民の生命や財産を守ることが国家の一義的な使命にもかかわらず、「国際平和を誠実に希求」するだけで、無防備、無抵抗の国家であるかのような錯覚さえ抱かせる。
自衛隊が自衛のための「戦力」か「実力組織」かも明確ではない。同盟国が攻撃を受けた場合の集団的自衛権についても、政府は「行使できない」として、自衛隊の行動を縛ってきた。
国際貢献においても9条は足かせとなっている。カンボジア初の民主選挙が行われた平成4年、国連平和維持活動(PKO)協力法により、自衛隊がカンボジアに派遣されたが、武器使用は正当防衛などの場合に限定された。
15年末からイラク特措法により、自衛隊がイラクにも派遣された際、同じように武器使用を厳しく制限された。
中国の軍拡と北朝鮮の核開発が深刻な脅威となっているにもかかわらず、前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」することをうたっている。
(現行憲法、多くの不備)天皇に関する条文についても「国民統合の象徴」とはどう定義されるのか、が明確でない。日本を代表する国家元首なのか、そうでないのかが、条文に定められていないからだ。
昭和天皇崩御の際、当時の竹下登内閣は憲法20条の政教分離規定を厳格に解釈し、ご大喪を皇室行事の「葬場殿の儀」と国の儀式としての「大喪の礼」にわけて行い、日本の伝統を軽視した行為と批判された。政教分離と伝統行事の関係が不明確だからだ。
家族の規定がないことも現行憲法の欠陥である。戦後、行きすぎた個人主義が広がり、少年犯罪の凶悪化などを招いているとの指摘もある。
権利と義務のバランスも失している。権利に関する規定は第10条から第40条まで並ぶが、義務に関しては3カ条のみ。憲法は「公権力の行使を制限するために主権者が定める根本規範」という理念が強調されすぎているためだ。しかし、憲法は古来の歴史や伝統などを踏まえた、国のありようを体現する根本法規という側面も持つ。
このほか、現行憲法には非常時対処への規定が著しく不備であることや極めて改正が困難である点など問題点が山積している。
(2/2ページ)
もし、ここで指摘されている現行憲法の問題点がすべて正されたとして、これが何年あとかは知りませんが、果たしてこれが根本的な政治的、社会的問題の解決に繋がるかどうかであります。
(・・・考え中・・・)
どうでしょう?
いままでと、なんにも変わらないのではないでしょうか?
確かに、上記引用の記事の中で指摘されている問題は解決するかもしれません。しかしこれらは、決して、いまの日本をおおう「根本的な政治的、社会的問題」の中心ではないのであります。
この問題の「中心」とは、これがかの「支配なき被支配体制」なんでありますが、この認識こそがいまのいま私たちには最も重要であると、KAIは考えるわけであります。
つまり、これを打ち破るにはどうすればいいかと。
これが、すなわち「現憲法」の「正統性」を認めることから始まる。こう認識するわけであります。
これは、別に「憲法改正」が必要ないと申しあげているわけでもなんでもないのであります。
単に、「現憲法」に「正統性」がないから「憲法改正」が必要である、とは言わないでいただきたいのであります。そうではなく、「現憲法」には「正統性」があるからこそ、なおいっそうの「憲法改正」が必要である、こうお考えいただきたいのであります。
これで何が変わるのでありましょうか?
それは、現在の問題が対米従属からとも現憲法からともまったく関係ないところにあるとの認識に、みなさんが決定的に目覚めることなんであります。覚醒することなんであります。
ここで初めて「戦線が統一」されるのであります。
「アラブの春」ならぬ、「日本の夜明け」の「戦線統一」であります。
戦うべき相手は、対米従属でも、日本国憲法でも、民主党でも、まったくなく、それは「官僚機構」であると言うことであります。この「きっかけ」こそが、日本国憲法の「正統性」認識にあると、KAIは考えるのであります。 KAI
やはり、急ぎすぎたようであります。
追補の追補であります。
Google+について言えば、いまだ機能単価モデルが完成したわけでもなんでもないと言うことであります。単に、Facebook追撃のため「個人情報」をベースにした広告モデルの開発へと全社上げての大きくシフトする中にあって、従来からのF1、M1といった古い広告モデルに先祖がえりしただけなんだと思うわけであります。
反対に、Facebookからしてみたら、Facebook Adsと言うかたちで情報単価モデルを実現するつもりが、開けてみてびっくり、これが機能単価モデルを実現してしまったと言うことではないかと。
このあたり、今後ここに随時書き足していきたいと思います。 KAI
ソーシャルゲームビジネスに正統性はあるのか?
今回のテーマは、ソーシャルゲームビジネス。と、その前に、まず問題は、「ソーシャルビジネス」のビジネスモデルであります。
そもそもにおいて、この「ソーシャルビジネス」とは、いったい「誰に」対して、「何を」提供して、利益を得る商売であるのか。
まずもって、これを考察する必要があるのであります。
そこで、これを読み解くキーワードとなるのが、最近あまり言われることのなくなったこの用語、「CGM」であります。
Consumer Generated Mediaとはインターネットなどを活用して消費者が内容を生成していくメディア。かつての消費者は文字通り企業から提供される商品やサービスを金銭で消費するだけの存在であったが、市場が成熟していくにつれ、消費者でも確かで肥えた目を持つ消費者が生産者並の知識を持ち始めたことに由来する。このような消費者は生産消費者の一形態ともされる。個人の情報発信をデータベース化、メディア化したウェブサイトを指す。商品・サービスに関する情報を交換するものから、単に日常の出来事をつづったものまでさまざまなものがある。
(Consumer Generated Media、Wikipedia )
つまり、「情報」と「情報」の、一種の「物々交換」であります。映画「ソーシャルネットワーク」をご覧になった方はすでにご存知のとおり、初期のFacebookとは、一切広告なしのこの「物々交換」のみで運営されていたのであります。ザッカーバーグはこれを意識的に進めていたのであります。
ですから、もちろん、この時点では、ビジネスとして成立していなかったわけであります。
しかし、一定数以上のユーザーを獲得した時点で、目立たないように徐々にではあるけれど広告をスタートさせ、いよいよにして今に至るわけであります。
前回までにご説明のとおり、広告には機能単価モデルと情報単価モデルがあるのでありますが、Facebookの広告とは明らかに「機能単価モデル」となるのであります。これは、情報単価モデルが、Facebook側からのなんらかの「独自情報」の提供によってのみ成立し、彼らがこれを持ち合わせているわけではないことから考えても、これは当然の結論であります。
とは言え、テレビ局の番組枠の販売と言う機能単価モデルとは、桁が違うのであります。
Facebookにとって、テレビ局の番組枠に相当する広告スペースは、無限に近いものがあるのであります。そして、これがすなわちFacebookの恐ろしいまでの現在の時価総額を担保しているのであります。
さらに重要なことは、テレビ局にとっての視聴者は、単に視聴率と言う番組枠の価値をあげるためだけの存在であったのでありますが、Facebookにとってユーザーはこれとはまったく違う存在なんであります。すなわち、ユーザー自身が「情報」と言う対価を支払う、立派な「顧客」となるのであります。
要するに、ソーシャルビジネスとは、「ユーザー」と「スポンサー」が共存する、「顧客」の「ハイブリッド」ビジネスであります。(それぞれの「顧客」ごとのビジネスモデルのご説明は割愛させていただくのであります)
さて、肝心のこのビジネスの「正統性」問題であります。
実は、ネット通販で購入した靴が、まったくの偽物だったのです。
よくある話かもしれませんね。しかし、仮にも事件リポーターのくせに、なぜそんなサイトに引っかかってしまったのでしょうか。
その偽物サイトはまだ存続し、被害者が続々と出ているようです。
他の方の被害を食い止めるためにも、ここで意地を見せて返金方法を公表いたします。■ニセモノつかまされる!?
購入に至る経緯をまず話します。冬に向けて暖かいムートンブーツを購入したいと思っていましたが、人気ブランドのugg(アグ)のブーツは2万円台後半。買うのにちょっと迷っていました。
その頃ちょうど入会したばかりのfacebookのスポンサー広告画面に、「ugg日本唯一の公式サイト」が表示されたのです。
(スポンサー広告でまがい物をつかまされたのに、あんまりなFacebookの対応!偽物サイトをぶっとばせ!!)
根本的には、問題の解決は以下の記述に集約されているのであります。
http://www.uggjpstore.com/Shipping_Information-9.html
「何かわからないことがあれば、いつでもお問い合わせください.Email : andyuggsale@hotmail.com」
(同上)
まずFacebookであります。こんな「スポンサー」を「顧客」とする仕掛け自体に、おおいなる欠陥があるのであります。
この点においては、Googleのアドワーズ、アドセンスは、数段上をいっていると言えるのでありますが、これが改善されない限り、Facebookの機能単価モデルにはあきらかに「正統性」がないと言わざるを得ないのであります。
そこでであります。
「ユーザー」と言う「顧客」にとっての「正統性」とは?
これもまた、hotmailであります。
ブランドが、hotmailとは、これいかに、なるレベルを要求されていることを知るべきであります。
全然関係ない話ではありますが、AIJ問題で基金運用担当者への同情論があるのでありますが、KAIに言わせれば「笑止」であります。
金儲けのカラクリでも申しあげたとおりであります。大の大人がこの程度の知識さえ持たないで何億ものお金を扱うなんて、なんとまあ、日本と言う国は子ども社会になりはてたことかと、ただただあきれはてるばかりであります。
すなわち、これはFacebookにおいても、「自己責任」としか言いようがないのであります。
さて、問題は、まだ二つ残っているのであります。一つは、前回取り上げたグーグルの「広告」問題。そしてもう一つが、ソーシャルゲームビジネス問題であります。
いつもであれば、ここで稿をわけるところでありますが、今回はあとがつかえていますので、一挙に結論であります。
■グーグルの「広告」問題
いままでの検索ビジネスにおける情報単価モデルの「顧客」は、「インターネットユーザー」。Google+の「顧客」とは、広告の「スポンサー」。この「ハイブリッド」ビジネスにおける「何を」それぞれの顧客に「与える」と言う確固たる「意志」が問われている。こう考える必要があるのであります。
■ソーシャルゲームビジネス問題
そもそも「ソーシャル」の本質が「CGM」であることを考えると、いまの「ソーシャルゲーム」は、この「ソーシャル」から大きく外れてしまっているのが、ことの本質であります。
石島:「ポケモン+ノブナガの野望」の元になったふたつのソフトは、共に「信長の野望」、「ポケモン」という人気ゲームブランドです。このようにブランドが存在するということは、コンテンツビジネスにサステナビリティ(維持可能性)があることを証明している。「ポケモン」だから、「信長の野望」だから、売れ続けるわけですが、このようなブランドになれるヒット作はどうしたら作れるのでしょう。
襟川:まず個人に内在したところで言うと、「ゲームが好きだ」という人が企業にいるのが原点です。好きでもっといいものを作りたいという気持ちが心の底にあると、どんなことでも一生懸命やりますからね。
石島:しかし、作るのが好きという気持ちだけで、一大ブランドに育つほどのヒット作を産み出せるものでしょうか。ゲームを作りたい人はたくさんいますが、その気持ちだけで一生食べていくのは難しいように感じています。
石島:襟川さんがおっしゃったように、本当に「作るのが好き」という気持ちを持った人がゲーム企業の原動力になっているのは事実です。ただ、その「好き」加減が、人並みでは全然足りない。
よく、「一発屋」っていう言葉を聞きますよね。この事実から分かることは、どんな人でも一生のうちにひとついい曲をつくるとか、いい詞を書くという可能性があるということです。では、それを100つくれるかって言うと、普通はつくれない。そのレベルを維持して数こなせる人がプロですよ。
継続して食べていけている人は、好きという気持ちも並大抵ではない。どんどん作らずにはいられないし、そんな情熱でものをつくっている。襟川さんもそうです。襟川さんの次々と新しいものを生み出していくパワーや量は並大抵ではない。開発者の場合は、この「並大抵ではない好き」という気持ちが重要ですし、そういう人を探し続けることが、コンテンツ企業にとっては非常に重要なことです。
(“集金マシン”としてのソーシャルゲームに明日は創れない!「ポケモン+ノブナガの野望」の制作トップが語るビジネスサステナビリティ――石原恒和ポケモン社長×襟川陽一コーエーテクモゲームス社長)
小倉昌男の「意志」がごとく、初心にかえって、もういちど、ビジネスをリセットするしか、GREEには未来はないとKAIは思うのであります。 KAI
(追補)
以前Facebookの広告売上を情報単価モデルとご説明していましたので、これについて補足しておくのであります。
もともとSNSは、情報単価モデルである広告売上がメインのビジネスモデル。Facebookにいたっては、2009年571億円の売上に対して562億円、実に98%を広告売上が占めているのであります。ただこの広告売上の中身が違う。
(1) セルフ広告売上 (315億円)
AdwordsやOvertureと同様,広告主は広告代理店を経由することなく,直接ウェブ上から広告出稿できる仕組みで,Facebook Adsとネーミングされている。実際に入力してみると驚くほど簡単で,入力には5分もあれば十分。広告は承認を経て約1-2日後に表示されはじめる。
(【最新版】Facebook ビジネスモデルを徹底分析 〜 mixi,GREE,モバゲーと比較)
そうです、あのGoogleのAdSenseやAdWordsと一緒なのであります。これこそ「人間関係」向上に貢献する、間接的な機能提供に他ならないのであります。
(がんばれミクシィ!)
8億4500万人のユーザーにとっては、この個人情報自体を消費しながら、「スポンサー」経由でこの情報料を支払っているとみなせなくもないのでありますが、むしろ広告それ自体が、Facebookと言う「場」の「機能」として組み込まれていると考えるのが自然かもしれません。
いずれにせよ、8億4500万人もの「個人情報」がFacebookと言うただ1社に独占的に集積されていることの問題こそ、ここにきてこの「正統性」問題の本質がある気がしてきました。これはまた別途に稿をあらためて考察する必要があると考えております。
私たちの「顧客」とは、いったい誰であるのか?
この問いは、自分たちが携わっているビジネスとはいったいどのようなものであるのか、すなわちビジネスの本質を理解するうえで、きわめて重要な問題となるのであります。
このテーマで言い残したことがあります。それは、テレビ局にとって、放送と通信では、お客様が違うってことです。
番組枠をスポンサーに販売すると言う機能単価モデルでは、テレビ局にとって、お客様とはスポンサー企業です。視聴者は、サシミのツマならぬ、視聴率と言うパフォーマンスを保証する、いわばサーバント、召使いです。このことを主人であるテレビ局があからさまに言うはずもなく、視聴者はカミサマであるかのように祭り上げられる、オメデタイ存在以外なにものでもありません。
これに対して、通信における情報単価モデルでは、一般消費者がテレビ局のお客様となります。ここでは、広告モデルの広告出稿企業は、一般消費者からの情報単価と言う代金を回収する、集金代行業者の扱いになります。つまりこちらがサーバントです。
(放送と通信とビジネスモデル(3))
そのビジネスの「顧客」が違えば、当然のごとくそのビジネスモデルも、まったく異なるものになるのであります。
そして、その「顧客」に対して「何を」与えるのかと言う「意志」こそが、そのビジネスに「正統性」を賦与することになると言うのが、前編のお話であったわけであります。
そこで、であります。
前回の続き、ゴールドマン・サックスおよびグーグルにとって、彼らの「顧客」とはいったい誰であるのか?
まず、ゴールドマン・サックスであります。
ゴールドマン・サックス(Goldman Sachs, NYSE: GS)は、アメリカの金融グループであり、世界最大級の投資銀行である。歴史は古くドイツ出身のユダヤ系のマーカス・ゴールドマンによって1869年に設立された。
モルガン・スタンレーやJPモルガン等とともに、投資銀行業務の幅広い分野においてリーグテーブル上位に位置する名門投資銀行と言われている。概要
取引業務(株式、債券、通貨などの金融資産や不動産の売買、資金の貸付)、投資銀行業務、富裕層へのプライベート・バンキング、保険業務を主としている。
(ゴールドマン・サックス、Wikipedia)
この「顧客」である「金持ち」相手に、取引業務や投資銀行業務による「手数料」収入を得ると言うのが、ごくごく大雑把に言うところの彼らのビジネスモデルであるのであります。
しかし、このゴールドマン・サックスが、変わってしまった。
「極度の金儲け主義に陥り、顧客の利益を全く顧みない」
「常にクライアントにとって正しいことをする」、「金儲けが全てではなかった」、「その微塵も目にすることはない」
それは、「金儲け」それ自体が彼らにとっての「自己目的」と化し、ゴールドマン・サックスにとって、「顧客」が「顧客」ではなくなってしまったってことであります。なんと、「自分自身」を「顧客」にして商売を始めてしまったと言う他はないのであります。
なぜ?
これこそが、今回のお話のポイント、経営者も社員も、この「何を」与えると言う「意志」を喪失し、これを見失ってしまったからなんであります。
創業の精神を忘れるな、とはよく言われる言葉であります。
この「創業の精神」こそ、ビジネスにおける「意志」以外の何者でもないのであります。
そして、もう一方のグーグルであります。
そして、ウィティカー氏は、「真実を言えば、私はこれまで広告にそれほど興味を持ったことがない。広告をクリックすることもない」と告白をしている。さらに、「私がeメール・メッセージに書く内容に基づいてGメールが広告を表示するのは、不気味だ(it creeps me out)」とも書いている。まさに、最近ここやここで紹介したように、グーグルの(元)社員ですらグーグルの広告表示について不気味(creepy)と感じると告白している。(但し、ウィティカー氏は、この点に関して基本的にフェースブックもツイッターも「同じ穴のムジナ」である点を指摘している。)
(「私がグーグル、ゴールドマン・サックスを辞めた理由」―大企業を去る優秀な人材たちと問われる企業文化)
まさに、グーグルにとって「顧客」とは誰であるのか?
この認識が、創業以来ずっとそうであった、「インターネットユーザー」から、広告の「スポンサー」へと、大きく変貌をとげてしまったのであります。そうです、「放送と通信」のビジネスモデルの違いそのものが、恐らく彼らの「無意識」の中でスイッチしてしまったのであります。
なぜ、そんなことが起きてしまうのか?
これをご説明するのが、次なるテーマ「ソーシャルビジネスと正統性」であります。乞うご期待。 KAI
ビジネスにおける「正統性」とは、実は単純なんであります。それは、消費者に支持され、成長していくことこそ、そのビジネスの「正統性」の証となるのであります。
と言いながら、お話はそんな簡単なものではないのも、事実であります。
つまり、「成長」とはあくまで「正統性」の結果であります。「成長」企業であるからしてそのビジネスに「正統性」がある、あるいは「成長」していないから「正統性」がないとは、必ずしもそうは言えないのであります。
それは、すなわち、ビジネスにおける「正統性」とは、その売上規模や社員数といった企業の外形的なものにあるのではなく、その企業が果たす社会的役割といった、ビジネスが「目的」とするものの中にこそ、その「正統性」の本質があるからであります。
そして、この「正統性」こそが、そのビジネスの「生存」と「成長」の「根拠」となり、そのビジネス自体の「フォース」を賦与することになるのであります。
このことの真髄を理解するためには、この一番の好例、かの「クロネコヤマトの宅急便」、小倉昌男の、ヤマト運輸の経営を知る必要があるのであります。
今や私たちの生活に欠かせない宅急便。その宅急便を創始したのが小倉昌男だ。父の創業した大和運輸(現ヤマト運輸)が経営危機にさらされた時、小倉は宅急便を考案した。宅急便のスタートには、役員が全員反対。しかし、小倉は「宅急便は絶対に儲かる」と確信していた。そして自分の信念を貫き通した。
(「宅急便」の生みの親 ヤマト運輸株式会社 元会長 小倉昌男)
ヤマト運輸は、監督官庁に楯突いてよく平気でしたね、と言う人がいる。別に楯突いた気持ちはない。正しいと思うことをしただけである。あえて言うならば、運輸省がヤマト運輸のやることに楯突いたのである。不当な処置を受けたら裁判所に申し出て是正を求めるのは当然で、変わったことをした意識はまったくない。
幸いにしてヤマト運輸はつぶれずにすんだ。しかし、役人のせいで、宅急便の全国展開が少なくとも五年は遅れている。規制行政がすでに時代遅れになっていることすら認識できない運輸省の役人の頭の悪さにはあきれるばかりであったが、何より申請事案を五年も六年も放っておいて心の痛まないことのほうが許せなかった。与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか。倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいいのである。
さらりと「与えられた仕事に最善を尽くすのが職業倫理でないか」と言う。「倫理観のひとかけらもない運輸省などない方がいい」と国家の向こうを端然と見ている。その中心に「心」というものがある。心というものを持てば、国家なんぞ怖いものでもなんでもないよと見切っている。
([書評]小倉昌男 経営学(小倉昌男))
私は、役人とは国民の利便を増進するために仕事をするものだと思っている。だから宅急便のネットワークを広げるために免許申請をしたとき、既存業者の利権を守るために拒否されたのは、芯から腹が立った。需給を調整するため免許を与えるどうかを決めるのは、役人の裁量権だという。では需給はどうかと聞いても資料も何も持っていない。行政指導をするための手段にすぎない許認可の権限を持つことが目的と化し、それを手放さないことに汲々としている役人の存在は、矮小としか言いようがないのである。
すべての役人がそうだというわけではないが、権力を行使することに魅力を感じて公務員になる人もいると聞く。何とも品性の落ちる話ではないか。
さらりと「品性」が語られる。さらりと語られるなかにマックス・ヴェーバーの社会哲学の神髄は語り尽くされている。
ヤマト便のビジネスを広げるあたり、小倉さんは淡々と過疎地に営業を広げることを考えていく。
ヤマト運輸は民間企業である。無理して郡部の集配をやらなくてもいいのではないか。郡部は郵便局に任せるべきではないか。赤字のところをやるのは官の責任である、という意見にはもっともなところがあった。
宅急便を初めてやろうと決心したとき、清水の舞台から飛び降りる気持ちであった。幸い狙いは当たり、五年で成功のめどがついた。だが次のステップとして郡部にサービスを拡大しようとしたとき、再び清水の舞台から飛び降りる気持ちになった。
ところが小倉さんは、「しかしよく考えてみると、郡部イコール過疎地、過疎地イコール赤字、という図式があるとは限らない」とまた理詰めで考えていく。
日本は山が多いから、地方には山奥の過疎地が多いことは否定できない。でも、過疎地から過疎地に行く荷物はほとんどないと思う。過疎地から出てくる荷物は都会に行き、過疎地に着く荷物は都会から来るのがほとんどである。過疎地の集荷や配達はコスト高からもしれないが、一方で、都会の集配車の集積率が高くなりコストが下がることを考えると、過疎地に営業を伸ばしたことによって収益が悪くなるとは考えられないのである。
そして再び清水の舞台から飛び降りてみせた。成功した。1997年、ヤマト便は全国ネットワークも完成した。つまり、ヤマト運輸はすでにユニバーサルサービス実現しているのである。
この「意志」の中にこそ、「正統性」経営、すなわちビジネスの「正統性」があるのであります。
「ネットワーク」とは、いったいなんであるのか。
それは、すべてが「繋がる」ことであります。
小倉は、これをしっかりと理解をし、全身全霊を懸け、実現したのであります。
はっきりと申しあげるならば、これ以外には、ビジネスの「正統性」は、一切ない。つまりはそう言うことなんであります。
この「意志」の存在如何と、そのビジネス、すなわちその企業の存在価値とは、直結しているのであります。企業が、これを見失ってしまっては、たちまちにして即刻退場を余儀なくされるのであります。
そして、この「意志」の喪失をもっとも敏感に感じとることができるのが、社員として「意志」なるものの実現に最前線で奮闘してきた人たちであります。
『オキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)』という世界中を巻き込んだ抗議活動は、まだ記憶に新しい。そんな中、ウォール街でトップの投資銀行の一つであるゴールドマン・サックスの欧州デリバティブ部門トップ、グレッグ・スミス(Greg Smith)氏が、3月14日付けのニューヨークタイムズ紙に『私がゴールドマン・サックスを去る理由(Why I Am Leaving Goldman Sachs)』と題して手記を発表した。同投資銀行の組織文化がいかに極度の金儲け主義に陥り、顧客の利益を全く顧みないものになっているかを綴った内容に、全米が一日中騒然となった。
グレッグ・スミス氏は、南アフリカ出身で、奨学金により授業料を全額免除してもらいスタンフォード大学へ進学。学部時代にサマー・インターンとしてゴールドマン・サックスで勤務し、卒業後も同行のニューヨーク・オフィスで10年間、そしてロンドン・オフィスで2年間勤務した。
スミス氏は手記の冒頭で、「ここ(ゴールドマン・サックス)の文化、人、アイデンティティーがいかに変化してきたか理解できるくらい、十分長い期間、私は勤務してきた。そしてここの今の環境は、私がこれまで見てきたことがないほど有毒で、破壊的なものとなっている」と綴っている。
(中略)
「懐疑的な世間一般には驚きに聞こえるかもしれないが、ゴールドマン・サックスの成功にとって、常に不可欠な部分が組織文化だった。それはチームワーク、高潔さ、謙虚さ、そして常にクライアントにとって正しいことをするといったことを中心にしていた。この文化が、ゴールドマン・サックスを偉大な場所にし、クライアントの信頼を143年間、勝ち取ることを可能にしていた秘密のソースだった。金儲けが全てではなかった。金儲けだけでは、これだけ長年にわたって会社を維持することはできない。この文化は、組織に対するプライドと信念とに関係していた。こういうのは悲しいことだが、今日、周りを見回してみて、私がこの銀行で何年間も喜んで勤務する理由だったこうした企業文化は、その微塵も目にすることはない。私は、プライドも信念も失ってしまった」。
(「私がグーグル、ゴールドマン・サックスを辞めた理由」―大企業を去る優秀な人材たちと問われる企業文化)
これが、なくなってしまった。
そして、時を同じくして、Googleでも、であります。
偶然にも、前日の3月13日、グーグルの元エンジニアリング・ディレクターであるジェームス・ウィティカー(James Whittaker)氏が、『私がグーグルを去った理由(Why I Left Google)』という投稿を自身のブログで行っている。ゴールドマン・サックスのスミス氏ほど全米では注目を集めていないが、その内容はスミス氏と同様、グーグルという会社の組織文化が変わってしまったことを正直に批判したものとなっている。
ウィティカー氏の意見を最も集約した言葉は以下だろう:
「私が大好きだったグーグルは、社員がイノベーションを引き起こすことができるようにするテクノロジー・カンパニーだった。私が去ったグーグルは、企業命令で単一のことに集中してしまっている広告企業だ」。
ウィティカー氏によると、初期からグーグルは広告による売上で運営されている企業だったかもしれないが、それが全面に出ることはなかったという。エリック・シュミット氏がCEOだった時代、既に広告ビジネスが主な収益源であったが、それは背景にあって、グーグルは第一にテクノロジー企業であるとほとんどのエンジニアたちは感じていた。優秀な人材を採用し、彼らのアイディアと才能に資金を投資し、イノベーションを引き起こすという循環が起きていた。しかし、ここ3年で組織文化は変わってしまったという。
(中略)
そして、ウィティカー氏は、「真実を言えば、私はこれまで広告にそれほど興味を持ったことがない。広告をクリックすることもない」と告白をしている。さらに、「私がeメール・メッセージに書く内容に基づいてGメールが広告を表示するのは、不気味だ(it creeps me out)」とも書いている。まさに、最近ここやここで紹介したように、グーグルの(元)社員ですらグーグルの広告表示について不気味(creepy)と感じると告白している。(但し、ウィティカー氏は、この点に関して基本的にフェースブックもツイッターも「同じ穴のムジナ」である点を指摘している。)
(「私がグーグル、ゴールドマン・サックスを辞めた理由」―大企業を去る優秀な人材たちと問われる企業文化)
金儲けなるものに「プライドと信念」と言う「意志」を見失ってしまった、ゴールドマン・サックス。
片や、「広告」と言う金儲けに、その「意志」なるものを見出せない、グーグル。
両社にとって、これは正念場であります。
この問題に、いかなる「解」を見出すことができるのか。
そのヒントを、いまここでお教えするのであります。
私たちの「顧客」とは、いったい誰であるのか?
これをあらためて問いなおすことなんでありますが、この続きは、後編のお楽しみ。と言うことで、本日はこれにてお仕舞い。 KAI
3月8日に発表された新型iPad(第3世代)に対する評価が、二分しているのであります。
これを、「進化」と評価するのが、こちらの記事。
昨日、アップルが発表した“The New iPad”は、予想通りRetinaDisplay(レチーナ・ディスプレイ)を備えたものになった。このディスプレーはアップルのサイトで以下のように紹介されている。
(中略)
さて、これらの機能アップは、我々とアップルになにをもたらすのだろうか。
もちろん、我々はきれいな動画や画像をよりいっそう快適な気分で楽しめることになる。そして……この点が重要なのだが、我々ユーザーのなかには必ずやそれらコンテンツを享受するだけに飽き足らず、実際に作ってみたくなるものも出てくるだろう。というか、きっと出てくる。ニコ動における初音ミクの世界的大ヒットを見てみても、それはわかるだろう。
そして、そのことはつまり、高性能で使いやすい、コンテンツを作りやすいパソコンが必要になってくるわけだ。いままでの4倍の高精度の動画や画像を素早く制作・編集できるパソコンが求められる。そうこれがまたアップルにとってのパソコン・ビジネスをより大きく花咲かせることになるのだ。
もちろんwindowsマシンにとっても追い風だろう。ただ、アップルはマルティメディアの電子書籍が制作できるiBooks Authorを無料で配っているように、より簡単にそれらコンテンツを作ることができるMac用アプリケーションも同時に開発している。これはMacintoshのOSX上でしか動かない。そう。iPadが高性能になればなるほど、多くのクリエイターがそのiPadに自分の作品を載せたくなる。そのために高性能のMacintoshを買い求める。アップルは決してすべてのリソースをiPhone&iPadへシフトしているわけではなく「コンテンツの“体験”はiPhone&iPadに、“制作”はMacintoshへ」という戦略を鮮明に見せてくれるのだ。
(iPadの進化に隠されたアップルの戦略 田代 真人)
スティーブ・ジョブズ亡き後のアップル(ティッカー:AAPL)がどのように経営の舵を取っていくか注目されるところですが、昨日のiPad新製品の発表を見る限り、同社の将来は明るくないと感じました。
僕がそう思った理由は新しいiPadの意匠に関しては既に成功を収めているiPadというコンセプトを段階的(incremental)に改良し、価格維持を図るとともに、既に獲得した顧客をよろこばせる、ないしは既存のファンからdisられることを恐れる臆病な戦略を採っているからです。
(中略)
新しいiPadではピクセル数が増えただとか、クアッド・コアがどうのこうのとか、そういう事ばかりがプレゼンテーションで説明されていました。「より速く、より多機能で、より完璧な、、、」これらの訴求点は完全に守りに入っている企業が強調する安全な発想であり、(既存秩序をぶっ壊してやろう!)という危険思想とは対極にある凡庸なアプローチです。
ピクセル数を増やしたら電池の消耗が早くなったのでデバイスそのものの厚みを増さざるを得なくなり、結果としてニューiPadは重くなってしまった、、、
この手のトレード・オフは「あれもこれも」という凡庸なエンジニアが陥る典型的な問題であり、「なにが大事で、なにが大事じゃないか」をシビアに判断し、大事じゃないものはバッサリ切り捨てたスティーブ・ジョブズの美意識とは哀しいほどかけ離れています。
(典型的な「イノベーションのジレンマ」に陥るアップル)
KAIが初めてiPadを手に持ったときの感想は、見た目にくらべての、ずいぶんな重量感であったことを、いまでも鮮明に覚えているのであります。
iPadがねらう重要な分野である電子書籍リーダー市場において、そのもう一方の双璧、kindleが有利な位置を占めているのも、この「重量」における「軽さ」であります。単に「本」を読むだけなら片手でずっともっていても苦にならないkindleは、手放せないのであります。
この意味において、iPadが、ますます不利になるように、「重く」なったのは、いったいなぜなのか?
それは、彼ら開発者の中に、「使う」立場の人間がいないからであります。
そうです、いままでたった一人、その「立場」の人間、ジョブズがいなくなってしまったからであります。
ジョブズなら、手に持って、「重い」、たったこの一言で済んでいたでありましょうが、いまや誰もこれを言える人間がいなくなってしまった。
別に、二人いる必要は、ないのであります。松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、みな戦後一気に成長した会社には、「使う」立場の人間が、たった一人いたのであります。ただ、ソニーの井深大に対する盛田昭夫は分かる気がするけれど、ホンダのそれは、藤沢武夫ではないのかと思うかもしれない。ところがそうではないのであります。本田宗一郎ほど、自分たちが作ったものを「使う」と言うより、乗り回して楽しんだ人間はいないのであります。
iPadを使い倒して「楽しむ」人間ではなく、このiPadを作ることに喜びを感じる人間だけが残ってしまったと言うことであります。
しかし、この話は、なにも悲観的なことばかりでもないのであります。
確かにジョブズはいなくなった。いなくはなったけれども、アップルには、いまや何千万人の「使う」立場のユーザーがいるのであります。
この「ユーザー」が、アップルの「変節」を許さない。スティーブの「美意識」を、あくまで彼らはアップルに求め続けるのであります。
そして、Androidタブレットの競合メーカーにとってもこれはチャンスであります。より「軽い」、高解像度タブレットでアップルの牙城をつきくずす大きなチャンスがきたのであります。これが、またタブレット市場の活性化につながって、市場がより一層拡大していくことになるのであります。
とは言え、アップルは、「イノベーション」をやめてしまうことになるのかどうか。
確かにこれは未知数と言わざるを得ないのでありますが、これを議論する前に、気になったのが冒頭の田代真人氏の議論であります。氏は、
というか、きっと出てくる。ニコ動における初音ミクの世界的大ヒットを見てみても、それはわかるだろう。
「初音ミク」の「勝利」は、「コンテンツ」の勝利ではなく、それは「アプリケーション」の勝利であると言うことであります。ご存知の通り、これはヤマハが開発した音声合成システム「VOCALOID2」と言う「アプリケーション」によってもたらされた「ギフト」であります。
世の中にある、あらゆるすべての「コンテンツ」の「勝利」と思われるものは、実は、ことごとくすべてが、この「アプリケーション」と言う「ギフト」によってもたらされた「果実」であるのであります。(この詳細は、これだけでおそろしく長くなりますので割愛させていただくのであります)
スティーブジョブズは、マッキントッシュを作ったときに、これに気がついた。
そうです、あのハイパーカードであります。以来、EXCEL、DTPと、アップルの成功を支えてきた「真実」は、この「アプリケーション」にあったのであります。
同社のMS-DOS向け表計算ソフト「Microsoft Multiplan」及びグラフ作成ソフト「Microsoft Chart」は、Lotusの「1-2-3」に比べて性能が低く、米国市場においては大きく水を開けられていました(欧州市場ではMultiplanも高いシェアを確保していた)。その反省を踏まえた上で、GUIでの利用を前提に、Macintosh用アプリケーションソフトウェアとして開発されたものが「Microsoft Excel」です。
同製品は、GUI環境に特化した優れた操作性と高い性能を有し、Macintosh向け表計算ソフトのベストセラーとなりました。この過程でGUI環境のアプリケーション開発ノウハウを蓄積したMicrosoftは、他のオフィス向けアプリケーションにもExcelに似たインタフェースを用いるようになりました。また、Windowsのインタフェースは、Excelを基準に作られたとも言われています。
(EXCELの歴史)
EXCELとは、じつはアップル向けに開発された製品だったのであります。もちろん、この「ギフト」、「恩恵」を受けたのが、ジョブズだけではなかったのは、ご推察の通り、かのビルゲイツも同様であったのであります。
懸案である、アップルの次なる「イノベーション」。
この議論もまた、すべてこの中にあるのであります。
それは、iOSアプリであり、iCloudこそが、アップルの次なる「命運」を握っていると言うことであります。
その意味でiPad3の「変節」は、もちろんたちまち修正を余儀なくされるでありましょうが、そうではなくティム・クックがいかなるあらたなる「アプリケーション」を「発見」することができるのか。これにすべてがかかっていると言えるのであります。
そして、このお話は、最終的にキーを握るのが、ティムではなく、ジョナサン・アイブとなるであろうことも容易に推察できるのであります。
このアイブが、「ハードウェア」としての「iApple」ではなく、「アプリケーション」としての「iApple」をデザインする。このことだけにのみ、意味があることに、彼が目覚めることができるかどうか。あらためて言い直すならば、ここにすべてが、かかっていると、KAIは考えるのであります。 KAI
日曜夕方、なにげなく見ていた料理番組であります。スポンサーは家電メーカー。
GOPAN(ゴパン)で、パンを美味しく。
な、なんと、材料に、ショートニングがあるではありませんか!
しらなかった!
目を疑って、あらためてネットで、GOPANとショートニングで検索すると、どこでも標準の材料として出てくるのであります。
もしかして、と思ってグーグルで検索すると、なんと食パンの材料はショートニングだったのであります。
マーガリンとショートニングは健康の大敵
気になる記述であります。ためしに「ショートニング」でググってみたら、こんなことが書いてある。
ショートニング (shortening) は、主として植物油を原料とした、常温で半固形状(クリーム状)の、食用油脂である。マーガリンから水分と添加物を除いて純度の高い油脂にしたものと考えてよい。パンや焼き菓子の製造などにバターやラードの代用として利用される。無味無臭で、製菓に使用すると、さっくりと焼き上がる。揚げ油に使用すると、衣がパリッと仕上がる。この様に「さっくり」や「パリッ」という食感を表す意味での英語形容詞“short”が語源である。
(ショートニング、Wikipedia)
さらに、「人体への影響」と言うことでこんなことまで。
水素添加の処理時に脂肪酸が一部トランス化し、トランス脂肪酸が生成される。このトランス脂肪酸が心臓疾患・アレルギーを中心とする様々な健康被害を引き起こす可能性が指摘されている。詳しくはトランス脂肪酸を参照のこと。
アメリカそしてヨーロッパの大半の国が食品での使用に規制が設けられているが、日本においては食品に用いるにあたり法的規制が無い。
ほんと大丈夫かいなと、さらに調べると・・・
*欧米では、マーガリンを食べる=穏やかな自殺、とまで言われ規制されている
世間には知らされていない恐ろしい事実がもうひとつある。それは悪魔のオイル、ショートニングとマーガリンの正体である。これはラードの変わりに使われる常温で固形のオイルだが、これはトランス型という立体構造を持つ自然界に存在しない異常な油で、クッキーやパン、多くの菓子類のほとんどに原材料として使われています。このショートニングやマーガリンに含まれるトランス型脂肪酸は大腸炎やクローン病、その他まだ知られていない様々な疾患、各種アレルギーの元凶となることがわかっており、日本以外では禁止または制限されています。
分子構造がプラスティックと同じで常温で解けないことから、欧米では「プラスティックオイル」と呼ばれ敬遠されています。
(悪魔のオイル 「ショートニング」)
もちろん、日本マーガリン工業会のホームページには、こんなこと一言も書いてない。
現在の「ショートニング」という名称は、パン、ビスケットなどの原料として使用した場合、その口あたりをよくし、もろさを与えるという意味の英語(shorten)からきています。
ショートニングには味がないためそのまま食べることはなく、その食品のおいしいさを引き出すための欠かせない存在として、焼き菓子やパンに練りこんで使われるのはもちろん、意外と知られていないアイスクリームやフライ用としての用途があります。常温における伸びのよさ、生地への混ざりやすさなどに優れていて、名前の意味のようにクッキーやビスケットなどはサクサク、ポロポロとした軽い食感を出すことができるため、お菓子作りには欠かせないものとなっています。
◆ ショートケーキの名前は? ◆
ショートケーキには、ショートニングを入れて焼いたケーキという意味があるそうです。ショートケーキの発祥はアメリカ。私たちの知っている柔らかで繊細なショートケーキとは違い、元祖ショートケーキは、なんとサクサク、ポロポロのビスケット生地に生クリームと苺を挟んで層状にしたケーキ(?)だったとか。その後、日本にやって来たショートケーキはビスケットを柔らかいスポンジケーキにアレンジされ、今の姿になったのだとか。あなたならサクサクとふわふわのショートケーキ、どっちがお好み?
(ショートニングとラードの基礎知識 - 日本マーガリン工業会)
こんな名前の由来をきいてしまったら、目の前のクリスマスケーキに手がつけられないではありませんか。
(食を信じる力−−食とは何か?)
つくづく、日本って、どうしてこうなんだろうと、思うわけであります。
「食」をとおして人々に幸せを届けようとする人間が、ほんの少しでも「幸せ」に怪訝があるとき、なんでストップしないのか。
赤ちゃんに毒を飲ませると、同じではないのか。
なぜこう言う感覚が持てないのか。
KAIは、ほんとに腹立たしく、まったくもって許しがたいと思うのであります。
これこそ、この本質が「正統性」問題にあるのでありますが、ひとまず、全国のお母さん、いますぐパン食をおやめなさい。 KAI
(追記1)こんなページもありました。子どもが食べているもの、ほとんどが「汚染」されているようであります。嘆息。
3月8日 19時0分
とりすぎると心筋梗塞などのリスクを高めるとされる「トランス脂肪酸」について、食品安全委員会は、安全性を検討した結果、「通常の食生活では健康への影響は小さい」とする見解をまとめました。「トランス脂肪酸」は、マーガリンや洋菓子で使うショートニングという油に比較的多い脂肪分で、WHO=世界保健機関は、とりすぎると動脈硬化や心筋梗塞のリスクを高めるとして摂取量を食事でとるエネルギーの1%未満に抑えるべきだとしています。
食品安全委員会は、日本人の食生活を基にトランス脂肪酸の安全性を2年近くにわたって検討し、8日、見解をまとめました。
この中で、摂取カロリーに占めるトランス脂肪酸の割合は日本人の平均で0.31%にとどまり、洋菓子や油分の多い食品を頻繁に食べる人を除くと、高い人でも0.61%から1%だったとして「通常の食生活では健康への影響は小さい」と結論づけています。
ただ、10代後半の女性や20代の男女では、ほかの年代より高くなる傾向があったということで、「油分が多い食事に偏っている人は注意が必要だ」としています。
また、一部のマーガリンにはトランス脂肪酸の割合が10%を超えるものがあったとして、食品メーカーに改善を求めています。
トランス脂肪酸を巡っては、去年、消費者庁がほかの栄養成分と並べて表示するよう求める指針をまとめています。
(トランス脂肪酸“影響小さい”)
先月書きました、「小沢有罪確定」のエントリーにコメントをいただきましたので、あらためて新しいエントリーにしてご説明するのであります。
>この調書採用の意味はとてつもなく大きい。それは他の調書の大半が不採用となった中での、採用だからであります。つまり、供述の信用性に疑いをさしはさむ余地なしとされたわけであります。
刑事訴訟法第317条には、「事実の認定は、証拠による」旨の明文規定がある。(証拠裁判主義)
すなわち、厳格な証明の対象となる事実については、「証拠能力」を備えた証拠について 、法定の証拠調べ手続を踏まなければならないとされる。
証拠申請で提出される証拠には、証拠には証拠能力《刑事訴訟法319条》と、証明力《刑事訴訟法318条》があります。
これは、《刑事訴訟法319条》に定める裁判要件逸脱の、任意性の無い、又は違法手段で収集された証拠能力の無い違法証拠を除外したということであって、「証明力」とは違います。
残った証拠が信用されたわけではない。ここが間違いです。
法に照らして違法証拠を書類審査で選別したということで、それを信用するかどうかはまったく別問題なのです。(重要!!)
小沢氏側に不利な証拠とされるものは殆どが「証拠能力」の「書類審査」(刑事訴訟法319条〉段階でふるい落とされたということです。
今、「水戸黄門のインロウ」は小沢氏側に移ったといえるのではないでしょうか。
今のところ大善文男裁判官に対しては、「平成の児島惟謙」として後世の評価に耐えうる判断をしているとの評価がある。
小沢弁護団は、2月17日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し「元代表を有罪とする証拠はほとんど消えた。無罪獲得に向け、証拠を精査したい」と述べた。
Posted by: EXcite : March 5, 2012 01:22 PM
証拠能力と証明力
ある人・物を、訴訟において証拠方法として用いることのできる資格を、証拠能力(しょうこのうりょく)という。すなわち、証拠能力のない人、物、書面等については、これを取り調べて事実認定のために用いることはできない。
一方、ある証拠資料が、証明すべき事実の認定に実際に役立つ程度を、証明力(しょうめいりょく)、証拠力、証拠価値という。例えば、証拠能力のある書面を取り調べて証拠資料が得られたとしても、その内容が信用できなかったり、証明すべき事実とあまり関係がなかったりする場合には、事実認定には役に立たないから、証明力が低いことになる。
(証拠、Wikipedia)
その前提で、先の公判の裁判長の発言を今一度お読みいただきたいのであります。
「任意性には疑いがなく、特信性を肯定すべきものと認められる」
「特信性」とは、公判での証言と調書の内容に食い違いがある場合、調書が公判証言より信用できることを言うのでありまして、「特信性を肯定すべきもの」と言うことは、調書の内容を否定する証人の公判証言ではなく、調書の中に記述されている証人の「供述内容が信用できる」と、裁判長は決定づけたと言うことであります。
もちろん、この池田の供述の内容そのものが、被告関与の「証明力」を有するものかどうかの議論の余地はなくもないでしょうが、収支報告書の記載について池田と小沢の間で直接的な会話があったとする、そう言う池田の供述でありますから、小沢が「池田との間で直接的な会話は一切記憶にない」との法廷での「証言」を真っ向から否定する「証明力」のある証拠となるのは、まったくもって否定することのできない、事実であります。
このことからして、裁判官が、小沢の公判での「証言」に対して、その信用性に疑いの心証を持って、判決にのぞむことになるのは、これまた逃れようのない事実なのであります。 KAI
いまとりあえずなにを議論したいとか言えば、それはソーシャルゲームビジネスに正統性はあるのかってことであります。
その議論のためには、どうしても、ビジネスの正統性とは、を議論する必要があるのでありますが、前回の「金儲けのカラクリ」は、この議論のためのお膳立てといったわけであります。
もちろん、これ以外にさまざまなテーマがあるのであります。
それにしても、なんでこんな議論を始めたのか、原点に戻ってこれを振り返ってみるのであります。
いまや「論壇」なるものがあるのかどうか、皆目興味も知見も持ち合わせてはいないのでありますが、ネットでその片鱗を読ませていただくかぎりにおいて、恐ろしいまでにその「リアリティ」不在を感じざるをえないのであります。
要するに、「言うだけ番長」であります。
なら、おまえはどうなんだ、と言う反論に答えなくてはいけないと言う思いに駆られて書き始めたのが、今回のシリーズであります。(国家も人もその正統性を超えることはできない)
いま、なににいらだちを感じているかと言えば、3.11からの復興のあまりの遅れであります。
のうのうとワイングラスを片手に豪華な食事をしている連中の、KAIは気が知れないのであります。
別にのべつまくなく、ワインを飲んで豪華な食事をするなとは、言わない。
しかし、復興に直接的に関わる人間は、少なくとも首相以下政府関係者は、当面の目処がつくまで2年だろうが3年だろうが自粛いただきたいのであります。そうでなければ、理不尽にも家族を失い、いまだ仮設住宅で暮らす人々や、原発避難を余儀なくされ、故郷に帰る目処さえまったくもってたたないでいる何十万人もの人々にたいして、いかなる説明ができるのか、その「精神構造」が、KAIにはまるで理解できないのであります。
いえ、理解できないからこそ、これを理解するための思想的根拠を、いま模索し続けているのであります。
そして、ここで見えてきたのが、いまの日本人に決定的に欠けているのが、「正統性」思想であると。
それは「正義」でもなく、「共感」でもなく、「助け合い」でもなく、「きずな」でもない、もっともっと根源的なものであります。
これが、決定的に欠落しているがための、責任感の欠如、当事者意識の決定的不在、被害者でもないものの偽被害者意識と他罰感情、のいまやオンパレードであります。
例えば東電の電気料金の値上げ問題。一見枝野ががんばっているようにみせて、実は経産省や財務省のアリバイ作りだけのために動いている話であり、これを国民のためにやってくれていると思うお人よしの国民などが、典型であります。
東電が存続できる「正統性」など絶無にもかかわらず、だれもこれを阻止できないのは、いったいぜんたいなぜなのか。
ここに、メディアをも含めて、日本を大きく変えていくチャンスがあると思うわけでありますが、なぜ日本の「思想家」は、彼ら「思想家」人生にとって自らの「力量」を発揮できるこの空前絶後とも言うべきチャンスに、立ち上がらないのか?
ここにもまた、「思想家」自身の中にある「正統性」不在を、実見することになるのであります。
1年が経ってしまったいま、いまさら復興の遅れを嘆いても、これを非難しても、なんの役にも立たない。自民党が政権だったとしても大して変わらなかったはずと主張する人も含めて、なぜ私たちはこんな政権しか選ぶことができなかったのでありましょうか?
言葉をかえて言えば、私たちはどうすれば、こういった国難に際し機動的に国民に奉仕してくれる政権を、樹立することができるのでありましょうか?
この問題の解決こそが、今回の大震災の犠牲者を追悼するにあたって、唯一私たちの「希望」となるのであります。
もう生きている間に、二度とあってはならない歴史的災害に、立ち会った人間としての「責務」と考え、取り組んでいこうと思うのであります。合掌 KAI
で、「リスクヘッジ」であります。
もしあなたが、リンゴ農家をやっていて、安定した経営を目指しているとするのであります。
この安定経営とは、この秋のリンゴを販売するときの価格の安定のことであります。これが春先の時点では、価格がどうなるかわからない。わからないから、これを最初から決めてしまうのが、この「リスクヘッジ」であります。
これを前回の方程式で書くと、こんなに簡単になるのであります。
G=((P)−V)Q+PQ(実際の利益は、現物の(F+VQ)がこれからマイナスされる)
前回の方程式の後にPQが追加されるのは、秋になって実際にリンゴを販売する分が加わるからであります。
■250円の価格で「売る」権利を100個買って、150円に値下がりした場合
(P)=(250円)
V=150円
P=150円
G=((P)−V)Q+PQ=((250円)−150円)×100個+150円×100個=25,000円
■250円の価格で「売る」権利を100個買って、400円に値上がりした場合
(P)=(250円)
V=450円
P=450円
G=((P)−V)Q+PQ=((250円)−450円)×100個+450円×100個=25,000円
この二つの場合をみて、おわかりでしょうか?
そうです、V=Pになるのですから、VQとPQは常に相殺されて、(P)、すなわち最初に決めた単価だけが常に残ることになるのであります。つまり、秋になって市場の価格に影響されることなく、予定した価格で販売できるわけであります。
この仕掛けは、材料などを安定的に仕入れる際にも、まったく同じように適用することができるのであります。
そして、今回最後のご説明は、「空売り」であります。
「空売り」を式で書くとこうなります。
(P−V)Q=G
え?
何が違うのかって?
そうです、同じであります。
値下がりが確実と予想される商品は、すべて「空売り」であります。なんで「空売り」って言うかと言えば、実際に売る現物の商品を持っていないからであります。持っていないにもかかわらず売ることができるのは、返済期限付きで現物を借りることができるからであります。
そうすると、どうなるか?
「空売り」の時の単価は、P。返済期限になって、返済するための現物を買う時の単価が、V。当然値下がりになっているので、P>Vとなって、P−Vはプラスになるのであります。つまり、利益を得ることができるのであります。
いかがでしょうか?簡単でしょう?
もちろん実際に行われている取引は、その種類も内容も多種多様それにもっともっと複雑で、それこそ生き馬の目を抜くと言われる取引のオンパレードでありますが、これは別に金融取引に限った話ではないことは、今更ご説明するまでもないことであります。
しかし、この基本がわかっているのといないのでは、大違いであります。例えば、こんな記事に出会って、これを読んでみた感想は、いかがでしょう?
これに対抗するブリッジウォーターの策は、過小評価されている証券を買い、過大評価されている証券を空売りすることで、分散投資を大規模に展開することだ。たとえば、プラチナを買って銀を売る、あるいは30年物の英国債を買い10年物を売ると言った具合だ。そうすると分散投資の利益はたいてい市場の全般的な動向とは無関係な結果となるという。
'11年の初め、米国債を悲観的に捉えていたブリッジウォーターは、空売りを進めた。債券市場が崩れ始めると、この賭け(その後、ブリッジウォーターは買いに転じているが)は大いに報われることになった。コモディティと新興成長市場の通貨への賭けも同様だった。'11年夏の時点では、多くのヘッジファンドが利益を出すために四苦八苦する中、ピュアアルファファンドは10%以上のリターンという好成績を出している。
ダリオの成功の原因は何か?同僚のボブ・プリンスによれば、ダリオは「全体を俯瞰的にとらえる目を持ちながら、市場の機微にも通じている」トレーダー、ということになる。
多くのエコノミストはインフレや失業率、マネーサプライといった統計を見て、それらの数字が自動車やテクノロジーなどの産業にとって何を意味するか考える。
ダリオのやり方は逆だ。どんな市場でも目を付けたら、まず買い手と売り手を特定し、それらがどれほどの需要と供給を生むかを見積もる。そして彼の発見したことがすでに市場価格に反映されているかどうかをチェックする。反映されていなければ儲かる。米国債市場なら、ブリッジウォーターは毎週財務省のオークションを綿密に調査して誰が買っているのかを見る。アメリカの銀行か、外国の中央銀行か、はたまたライバルのヘッジファンドか。そして買っていないのは誰かも見る。コモディティ市場でも同じことをする。
「結局のところ、誰が買いそうで誰が売りそうか、そしてその理由は何か。儲けるために大切なのはその点に尽きるのです」
そう成功のカギを断言したダリオは、今後の世界経済をどう読んでいるのか。そして世界最大のファンドがいま抱えている「問題」とは何なのか。
(『ニューヨーカー』ジョン・カシディ記者のインサイドレポート 年俸30億ドル(2250億円) 世界最大のヘッジファンドを率いる男(レイ・ダリオ氏)の物語 上)
あたりまえのことを、あたりまえに書いてあるだけなんであります。
そうです、金儲けなんてものは、あたりまえのことを、あたりまえにやるだけなんであります。こんな超有名な世界的ファンドでさえ、こうなんであります。
ところが、これを当たり前にやらなかったから、巨額の資金消失となったのが、AIJ。
もう、何が問題だったのか、明白すぎるくらい明白でしょう?
中身を理解して「信頼」することに、何の問題もないのであります。
反対に、中身を理解しないまま「信頼」することは、これは「信頼」ではなく「妄信」と呼ぶのであります。 KAI
世の中には、「ビジネス」なり、「商売」なり、「金儲け」と言うと、こういったものを「低く」見る人々が、少なからずいるのであります。
そもそも、みなさんが成人するまでに受ける教育環境からして、この「お金」の大切さを理解し、これを生徒に伝えることのできる教師は皆無であると、KAIは断言してもいいと思うのであります。その理由は、また別の機会にご説明するとして、(以下略)
(お金とはなんであるのか?−−お金との付き合い方)
もちろんこれは、なにも教職者に限った話ではない。
仙谷氏は、自らの指示に従わない人物がよほど嫌なのであろう。公開を迫る声に対して、10日、こう述べた。
「(メディア側に)中・長期的国益よりも、今、映像を流し(報道し)たいというビジネス的欲望がある」「それで(公開しない)われわれに批判的になる」
(【櫻井よしこ 菅首相に申す】公開こそ国益だった)
「ビジネス的欲望」。これほどビジネスの価値を貶めた言葉を、半世紀以上生きてきたKAIでも見たことがない。そして、心の底から激しい憤りを感じないわけにはいかないのであります。
(耐えられない品性)
そんな彼らの主張を、それみたことかと勢いづかせる事件となったのが、AIJ問題であります。
そもそもにおいて、「彼ら」は、なぜ「金儲け」と言うものを「低く」見るのか。今回の標題のテーマについて、まずこの問題から考察するのであります。
そして、いきなりその答えでありますが、人の意識には「内なるもの」と「外なるもの」があり、「理解できない」とか「よくわからないもの」なる存在が、この「内」と「外」のどちらにあるのか、これが問題となるのであります。すなわち、「よくわからないもの」が「外」にあるときは、人はこれを「低く」見るのであります。反対に、「内」にあるときは、この「よくわからないもの」を「理解を超えるもの」として、あたかも心の中で「神」のごとく奉るのであります。
この詳細なる理路のご説明は、また別の機会に譲るとしまして、今回のポイントは、この「金儲け」なるものが、「彼ら」にとってなんだか「よくわからないもの」であり、かつ「外なるもの」であると言うことにあるのであります。
要するに、「金儲け」の意味も仕組みも、「彼ら」はこれをよく理解できないが故に、これを「忌避」ないし「毀損」させると言う形でもって「外なるもの」とすることで、自分自身の「内なるもの」の安定を図ろうとするのであります。
では、なぜ「彼ら」は「金儲け」の意味や仕組みがよく理解できないのか。次なる問題は、これであります。
これをご説明するために、まず、「金儲け」の基本、ビジネスモデルの方程式なるものを、みなさんにはご理解いただく必要があるのであります。
PQ=VQ+F+G
(P:売上単価、Q:売上数量、V:変動費単価、PQ:売上、VQ:変動費、F:固定費、G:利益)
(「モデル指向はなぜ必要か」から一部抜粋)
「商売」と書きましたが、別にこれに限ったことではなく、例えばサラリーマンの給料もまた、まったく同じこの方程式の世界なのであります。
もしあなたがサラリーマンなら、あなたの給料は、例えば月40万円とすると、PQ=40万円と書くことができるのであります。単位をつけて書き直すと、P=40万円/人月、Q=1人月、PQ=40万円/人月×1人月=40万円、となるのであります。
さらに右辺はどうなっているのかと言えば、VQとは仕入れですから、当然ゼロ。Fは固定費ですが、PQすなわち給料をもらうために毎月固定でかかる費用は、これもまた当然ゼロ。つまり、PQ=G(利益)となるのであります。(家賃は固定費ではないのですかと言う質問がありましたが、給与すなわち売上とは何の関係もありません。例えば実家に帰れば家賃はかからなくなります)
つまり、サラリーマンと言う「商売」は、給料と言う「売上」がまるまるそのまま「利益」となる、まことにもって「おいしい商売」なんであります。
これが、まったく同じ構造の、人材派遣ビジネスとなるとどうなるのか。
例えばあなたが派遣会社を通じて、A社で仕事をしたとしましょう。
派遣会社にとって、売上は、A社から支払われるあなたの給料分ですから、あなたが月40万円もらうためには、これに経費や利益を上乗せしてA社に請求する必要があります。これを式にすると、こうなります。
PQ=60万円
VQ=40万円
F=10万円
G=10万円
60万円売り上げても、たった?10万円の利益にしかなりません。
サラリーマンであるあなたの、売上がすべて利益になるのと、随分違うと思いませんか?
実は、これこそが、教師や弁護士といった方々が、「金儲け」とはなんであるのか、感覚的に理解できない根本の原因となるのであります。
ご説明しましょう。
教師や弁護士といった「彼ら」は、ビジネスモデルの方程式の左辺、すなわち「売上」までは、まず理解できるのであります。
しかし、方程式の「右辺」が、まるで理解ができていないのであります。あるいは、理解しようとすら、しないのであります。
しかも「彼ら」に限らず、世の中のほとんどの人々も、この「右辺」が理解できていない。それは、ネットを含めたあらゆる売り場で、安ければ安いほどいい、あるいは、さらなる値引きすらを求める一般の消費者の心理の中に、これを垣間見ることができるのであります。
「彼ら」の常識からすれば、「売上」とは「利益」であります。経営者は、すべて、がめつく儲けている、としか思えない。
この結果、「彼ら」は、ビジネスとは、「左辺」である「売上」、すなわち「PQ」としか、とらえらることができなくなってしまったのであります。この「事実」を証言する重要な記事があるのであります。
中沢 インターネットはそうした「呪いの言葉」が匿名で飛び交う空間で、僕自身は積極的に入っていこうとは思わない。でも、グリーンアクティブにはネットを新しいメディアとして政治的に活用できる若者たちに、仲間に入ってもらっているんです。
「アラブの春」の例もありますが、膨大な日和見細胞を善玉に変えることができるのは、あのメディアではないでしょうか。
(中略)
中沢 商品の単価×数量、GDPで国民の幸せをはかる時代はとっくに終わっている。それに代わる幸福の座標軸こそ、贈与の精神だと思います。
(特別対談 中沢新一×内田樹 「橋下現象と原発これからの日本を読む」)
※(引用者注)前段の発言は、今回の文脈とは関係ないのですが、前回書きました「短絡的思考」を示す証拠となるものであります。
これが、そうではなく、なるほどね、仕入れに結構かかるよね。ワタミの社員の給与ももっとあげてね、なんてことに「彼ら」の考えが及び出したら、この問題は一挙に解決するのでありますが、残念ながらそうはならない。
ビジネスモデルの方程式の「右辺」とは、その「金儲け」の仕組みそのものであります。すなわち「ノウハウ」であります。簡単には、これは明かされることはないのであります。ですから、ますます教師となる人間がこれを「理解」するチャンスに恵まれないままになっていくのであります。自分が「理解」しないことを、人は人に教えることはできない。期待することなど所詮無理なお話と言うべきものであったのであります。
しかし、さきの例えばワタミについて、その強烈な安値競争と言う下がり続ける売上単価の中からその利益を絞り出すために、固定費や仕入れ価格を限界まで削る努力に思い至らないのは、これまたこれは、これらサービスを享受する国民の「大罪」と言っても、差し支えないとさえ、KAIは思うのであります。
いまのいま、私たちの生活と言うものを支えているのは、「彼ら」の忌避する「ビジネス」であり「経済」であります。この根本の仕組みを理解しないがための、「不幸」としか言いようがない。私たちは、もはやこれを、これ以上は放置しておくわけにはいかないのであります。
いまや大問題となっている、かのAIJ問題。
この問題も実は、この会社の顧客である「基金の運用担当者」が、この会社がやっていた「金儲け」の「カラクリ」を最初からよく理解さえしていれば、まったくもってこんな被害にあうことはなかったのであります。
と言うことで、前置きが長くなりましたが、本題であります。
こういった世界を、「金融取引」と呼ぶのでありますが、もちろんこの世界でも、先のビジネスモデルの方程式は、まったくなんの問題もなくそのまま生きているのであります。
PQ=VQ+F+G
(P:売上単価、Q:売上数量、V:変動費単価、PQ:売上、VQ:変動費、F:固定費、G:利益)
(「モデル指向はなぜ必要か」から一部抜粋)
PQ=VQ+G
(P−V)Q=G
なんと、「金融取引」とは、まことにもって実に簡単なカラクリだったのであります。
これをデリバティブとか、リスクヘッジ、スペキュレーション、アービトラージなどと言う言葉で、いかにもこれは「高尚」で「難解」なビジネスなんですよと見せかけることによって、顧客の期待値を最大限に引き上げようとする、「粉飾」と言われても言い訳できない世界なんであります。
とは言え、決して間違ったビジネスでもなんでもない、「市場」を「安定化」させると言う目的をもった真っ当なビジネスなんであります。
ただ、まだこの単純化した方程式では、具体的になにがなんだか全然理解できないよ、KAIさん、とのクレームも多数。
と言うことで、この方程式を具体的にご説明するのであります。
まず、PやVをご説明する前に、Qについてお話しするのであります。
これは、つまり単純に「数量」のことでありますが、具体的には、穀物(コメ・大豆など)、砂糖、石油、貴金属(金・銀・白金)といったものが分かりやすい。
これらは、毎日、世界中の国にある「市場」で取引されているのであります。ただここが一番のポイントとなるのでありますが、これらの「市場」で取引されているのは、その商品と言う「実物」ではなく、その商品の「権利」と言うものが取引されているのであります。
すなわち「権利」とは、具体的には、「実物」の商品をある未来の「期日」を指定して「買う」あるいは「売る」ことができると言う、そう言う「権利」のことであります。
そして、その「権利」のうち、「買う」権利を、Vと呼び、「売る」権利を、Pと呼ぶのであります。
さらに、「権利」でありますから、この「売る」権利と「買う」権利は必ずペアにして取引すると言う決まりごとを導入することによって、実際に商品の「実物」を持っていなくても取引できるようになっているのであります。(売りと買いをペアにすることで実物商品の数量の影響を受けなくなります)
これを具体的な例でご説明するとしましょう。
■商品の価格が将来値上がりすると予想する場合(250円の価格で「買う」権利を100個買って、400円に値上がりした場合)
(V)=(250円)・・・最初から価格が決まっている場合はカッコつきで書きます。
P=400円
そうすると、利益はこうなります。
(P−V)Q=(P−(V))Q=(400円−(250円))×100個=15,000円
■商品の価格が将来値下がりすると予想する場合(250円の価格で「売る」権利を100個買って、150円に値下がりした場合)
(P)=(250円)
V=150円
G=(P−V)Q=((P)−V)Q=((250円)−150円)×100個=10,000円
ほんと、簡単な仕組みでしょう?
単に、PとVの差額だけの問題だったのであります。
さて、この予測が外れた場合、どうなるかを見てみましょう。
■商品の価格が将来値上がりすると予想して外れた場合(250円の価格で「買う」権利を100個買って、150円に値下がり)
(V)=(250円)
P=150円
G=(P−V)Q=(P−(V))Q=(150円−(250円))×100個=マイナス10,000円
■商品の価格が将来値下がりすると予想して外れた場合(250円の価格で「売る」権利を100個買って、400円に値上がり)
(P)=(250円)
V=400円
G=(P−V)Q=((P)−V)Q=((250円)−400円)×100個=マイナス15,000円
すなわち、いずれの場合でも、予想が外れた場合は、差額がマイナスとなって損することになるのであります。
しかしであります。だからといって、この差額がマイナスになることは、ネガティブな話でもなんでもない、と言うのが、次なるお話、「リスクヘッジ」でありますが、えらい長くなってしまいましたので、続きは後半に。 KAI