コミットメント不全症候群について、前回次のような議論をしたのであります。
この典型の記事をご紹介するのであります。
量的緩和を行わざるを得ない状況とは、ゼロ金利状態ということである。金利は極限まで下がっている。
ゼロ金利のとき、銀行など金融機関、幅広く言えば投資家には手元の資金を活用するには、二つの選択肢がある。
(中略)
だから、量的緩和は、日本全体への景気には明らかにマイナスなのである。
(量的緩和は景気を悪化させる)
皮肉は、中国禅宗の達磨大師の「皮肉骨髄(ひにくこつずい)」が語源で、元仏語。
「皮肉骨髄」とは、「我が皮を得たり」「我が肉を得たり」「我が骨を得たり」「我が髄を得たり」と、大師が弟子たちの修行を評価した言葉である。
骨や髄は「要点」や「心の底」の喩えで「本質の理解」を意味し、皮や肉は表面にあることから「本質を理解していない」といった非難の言葉であった。
そこから、皮肉だけが批評の言葉として残り、欠点などを非難する意味で使われるようになった。
(【皮肉の語源・由来】)
そもそも、「景気」や「株価」が、「金融緩和」なる人為的「操作」による有意の「事象」とするならば、経済問題などと言うものは、とっくの昔から解決されていたのでありますが、現実はそうではない。
彼らが決定的に見落としているのが、「景気」や「株価」といったものが、「情報」の従属変数であるってことであります。すなわち経済変数なるものからは、明らかに「独立」しているのであります。
しかも、この「情報」とは、「未来」の情報であります。
すなわち、「量的緩和」といった実績としての統計データと言う「過去」情報に依存して、「景気」や「株価」が変動するなどと言うことはあり得ないと、ちょっと頭を働かせればこれは自明なことであるにもかかわらず、彼らは、まことにもって、かように「オツム」が弱いのであります。IQや東大がいかに「デタラメ」であるか、この一事が万事をもってしても明らかに証明されているのであります。
では、真実の「景気」および「株価」とは、何か。
これに決定的に影響を与えるのが、先述の「未来」の情報でありますが、もう少しわかりやすい言葉で申しあげますならば、「将来」どうなるかであります。ですから、上場企業であれば、例えばソフトバンクの孫社長が、ちかい「将来」こうすると、自らの「意志」を市場に発信することで(これをマーケットへの「メッセージ」と呼ぶのであります)、これに期待が集まれば「株価」が上がり、結果「景気」も上向くのであります。
ここで言うところの、孫正義の「意志」こそ、冒頭の問題の「コミットメント」なのであります。
すなわちつまり、「意志」=「コミットメント」=「メッセージ」と言うわけであります。
これを見事に証明する記事が、こちらであります。
小渕首相は視察先で野菜のかぶを両手に持って万歳し、「かぶ(株価)上がれ」とテレビカメラの前で演じて見せた事で知られる。総合経済対策などで財政出動を繰り返し、景気回復に重点を置いた。在任期間中の株価上昇率は26%に達し、辞任直前には一時、日経平均株価が2万円を回復した。逆に次の森喜朗首相時代は株価が大きく下落(-31%)。兜町などからブーイングを浴びたことも退陣の遠因になった。歴代首相は株価をかなり意識してきたのである。
(内閣支持率急落の背景に野田首相の"鈍感力"あり。このまま日本経済の先行きに明るい兆しが見えなければ株価急落で命運尽きる?)小渕、森以降の首相で在任中に株価が上がったのは小泉純一郎首相の11%と、安倍晋三首相の6%だけ。小泉氏は構造改革路線を取ったため、外国人投資家などの日本株買いを誘発し、株価は上昇した。安倍氏は今年9月に自民党総裁に再び就任して「日本経済再生本部」を立ち上げたが、経済関連の講演では必ずといって良いほど、首相在任中に株価が上昇したことを持ち出している。
安倍氏は小泉氏の構造改革路線を引き継いだが、福田康夫首相(-26%)は小泉路線の修正に動いたと市場で見られたこともあり、株価は下落した。麻生太郎首相(-15%)はリーマン・ショックに直面、株価は下落した。
民主党政権になってからは株価は低迷から脱することができなくなっている。鳩山首相(-7%)、菅首相(-6%)ともに在任中に株価は下落した。リーマン・ショックの震源地である米国のNYダウがすでにショック前の水準を回復している一方で、日本の日経平均株価はいまだにショック前の7割の水準だ。
では、野田首相就任以降はどうか。就任時点で8,950円だった日経平均株価は就任直後に11月に8,135円まで売られたが、今年3月には1万円を超えた。もちろん、首相の経済政策だけで株価が決まるわけではないが、3党合意を取り付けて、予算を通過させた時期と付合する。ところが、その後、じわじわと下げ、ついに降り出しである8,900円にまで戻っている。
(3/3)
今回の日銀の金融緩和もそうでありますが、一見物価上昇率1%と言いながらあくまでこれは「不断」の努力表明ではない。これは、「コミットメント」とははるか隔絶した、「一刻」であり「その場しのぎ」の意見表明にすぎなかったのであります。
さて、肝心の、反成長主義者と反格差社会主義者であります。
実は、ここにも「コミットメント」が深く関わっているのでありますが、これからこれをご説明するのであります。
まずは、この記事をお読みいただきたいのであります。
異常な日本を正当化する「反成長主義」
日本に妖怪が徘徊している。「反成長主義」という妖怪が。IMF・世銀総会はグローバルリセッションの危険、という問題提起をした。世界の困難は、供給力が増大した一方、深刻な需要不足に直面しているところにある。財政再建も重要だが各国は各々の国内需要の喚起を、と呼び掛けた。そうした中で、需要創造に後ろ向きの日本の姿が際立っている。その日本は世界で唯一デフレに陥り、経済成長のマヒ状態に陥り、世界最悪の株価が続いているが、その原因でもあり症状でもあるものが「反成長主義」という妖怪である。図表1、2を参照されたい。リーマンショック以降対岸の火事であったはずの日本が、最も深刻な株価低迷を余儀なくされている。住宅バブルとも、ユーロ危機とも、銀行の不良債権と資本不足とも無縁であったはずの日本を異常株安に陥れたものこそ、「反成長主義」という妖怪である。リーマンショック後底値からの直近株価の回復度合いは、米国10割、ドイツ9割の上昇に対して、日本は1割と危機の震源地である米欧をはるかに上回る低迷ぶりである。
また、株式の益回りが社債利回りの8倍という異常なリスク回避を定着させ、金融市場を機能停止に追い込んだのも「反成長主義」という妖怪である。本レポートの末尾に示すように(図表4、5、6)、リスク選好指標である「株式益回り/社債利回り倍率」は1990年の日本のバブルピーク時0.25倍、1999年の米国ITバブルピーク時0.5倍に対して、現在の日本は8倍、米国は2倍、である。1930年代以降、米国でこの比率が最も高かったのは1949年の5倍であることを考えると、如何に今の日本が異常なリスク回避心理にとらわれているかがわかる。
(間近に迫る政策転換 〜日本に定着した「反成長主義」の追放を〜)
ウチダ先生やそのお友達をはじめとする方々は、人間の成長と老化とを日本社会に当てはめて、反成長社会をまずもって受け入れることが寛容であると説くのであります。
この「論」がいかに、時間軸上非論理的であるかは、例えば人間の誕生をいつにして、その成長がいつで、いま老年期にさしかかったとして、寿命はいつかを、そのまま日本の歴史上のできごとにあてはめてみるならば、まるで現在だけが拡大鏡で人生に対応するだけで、では日本社会の寿命はいつなのか、まったくもって説明になっていないことからも、明々白々に「史実」に反するのであります。
みなさまには、これがいかなることを意味しているか、よくお考えいただきたいのであります。
すなわち、この「反成長主義者」とは、一見「成長」しない社会を受け入れるがごとくに見えながら、実は「成長」しない社会へと自ら導く役割を果たす人々であったのであります。
つまり、「反成長」に「コミットメント」する方々であります。
これが、すなわち、上記引用のとおり、民主党歴代の3首相であったと、こうお考えいただければまことにすっきりご納得いただけるのではないかと、KAIは考えるのであります。
これは、「反格差社会主義者」についても、ぴったしかんかん、あてはまるのであります。
日本の格差はデフレが原因
成長を敵視・軽視し、デフレを容認する人々は、図表3に示される、日本だけに訪れた長期賃金下落は不可避であり受け入れるべきもの、と言うのだろうか。回避すべく努力する余地はないのだろうか。否、日本の格差は貧しきものの更なる賃金下落によってもたらされた。相対的に賃金水準が低い非製造業の賃金下落が大きいことからもそれは明瞭である。他方、米欧や中国、アジアでの格差は、豊かな者の更なる所得増によってもたらされた。欧米の格差拡大の原因が行き過ぎたレバレッジとバブル形成にあったという側面はあるだろう。しかし、所得格差の事情は日本では全く異なっているのである。日本の格差はデフレ、成長の停止によってもたらされたわけで、それを金融資本主義や、バブル、過度の成長等に帰するのは白を黒と言いつのるこじつけとしか言いようがない。デフレ脱却と成長力の回復こそが日本の格差を縮小する経路であろう。
(間近に迫る政策転換 〜日本に定着した「反成長主義」の追放を〜)
であるにもかかわらず、「反格差」と言う。この原因が、例えば「デフレ」であるとするならば、「反格差」のためには「デフレ」退治しかない。
ところがであります。にもかかわらず、「反成長」を唱えるのであります。
これは、「反格差」へと「コミットメント」していると言えるのであります。すなわち「社会主義」、「共産主義」をひたすら実現するための、「行動実体」として、彼らは「機能」しているのであります。
でも、他の誰も、こんなこと「望んではいない」んだよね。ひょっとして、自分たちにも「自覚」がないのかもしれない。
まことに、怖いお話であります、これは。
と言うことで、まとめであります。
まず、ポイントは、これ。
「意志」=「コミットメント」=「メッセージ」
この結果の、景気や株価に影響を与えるのは、金融緩和と言う「事実」ではなく、金融緩和への「コミットメント」である。
「成長」への「コミットメント」が、「成長」を導く。
「反格差」への「コミットメント」が、「デフレ」および「成長」しない社会の原因となっている。
「事実」と、これに相対する、「メッセージ」と言う未来への「情報」、この違いが扱えない経済学など、なんの役にもたたないことは、本年度のノーベル経済学賞の受賞理由を読めば歴然であります。
いま、世の中は、「コミットメント」する「リーダー」のみを、求めてやまないのであります。 KAI
BLOGOSなどに掲載されている、一連の週刊朝日問題に関する記事に寄せられる多くのコメントを読みながら、突然ある「事実」に気が付いた。そして、この「事実」が何を意味しているのか、ここ2、3日考えているうち、これまたこの思いついた「意味」の重大さに、いまKAIはあらためて驚愕するのを禁じえないのであります。(ちょっと大げさだけどね)
それがなんであるのかここでご紹介する前に、表題の「ロジックとレトリック」に関して、KAIはこう書いてきたのであります。
この竹中の存在を理由に維新に嫌悪をしめすやからが多いのでありますが、彼らこそこの「言葉の信頼性」に背を向け、「レトリック」と言う「バカの思考過程」に身を投じたかつての民主党投票者であり、彼らに乗じて格差を生んだとして小泉竹中改革を自らの手で潰した現在の自民党なのであります。
(中略)
しかし、「レトリック」こそ「思考」であるとの教育環境で育ってきた朝日記者をはじめとした多くの日本人は、これを「独裁」と決め付ける。彼らの「レトリック」思考(?!)によれば、まず「結論」が先にあって、これに導く論理はすべて「ポピュリズム」であり、「説明不足」となるのであります。
(情報戦とは−−孫子の兵法応用編・パート5)
しかし、これをもう少し「深く」考察する必要を感じて、いったいなぜ彼らが「憎悪」や「嫌悪」を感じて、そのうえさらにこれがいったいなぜ「レトリック」思考に繋がっていくのか。
今回あらたに発見した「事実」と、その驚愕する「意味」とは、実はこの先に繋がるお話であったのであります。
そして、この発見した「事実」とは。
それは、ホモサピエンスと旧人との間の進化の闘争にも似た、「種」の生存に直結するお話だったのであります。もう少し具体的に申しあげますならば、人類は、今世紀に入って、突然ホモサピエンスから、これを超える第二のホモサピエンスへの進化を開始したのであります。
この原因となったのが、「コンピュータ」。
ホモサピエンスが、第二の脳である「コンピュータ」を獲得することによって、人類史上初めての生物学的「進化」を、突如駆動させたのであります。
この結果、「プログラム」と言う「ロジック」を獲得した「次人類」と、これを獲得しない、いままでどおりの「人類」、つまり「前人類」、この二つに大きく「種」が分化し始めたのであります。
であるからして、女が自らの遺伝子を残すために、徹底して優生指向に走り、またこれを妨げるものを、「本能的」、「無意識的」に排除する行動に専心するのと、まったくもって同種の事象こそ、今回の「憎悪」や「嫌悪」といった心理的動因に対する、フロイト的説明となるのであります。
つまり、反橋下、反竹中を声高に叫ぶ人たちとは、これが論理的、理性的判断とはまったく関係なく、「前人類」である自分たちとはまったく異種となる「次人類」を、感覚的、本能的、動物的に受容することの不可能である人々であったのであります。
そして、この「意味」とは、これが「種」の生き残りをかけた、壮絶かつ凄惨な「戦い」の始まりであったのであり、自分たちの「種」がこの新しく誕生した「種」に支配され、滅ぼされることへの「恐怖」からくる、まさに生死をかけた「戦い」の始まりでもあったのであります。
ぜひとも、この事態を冷静にお考えいただきたいのでありますが、例えばいま、コンピュータのプログラム言語の一つでも書ける方々と、そうではない人々との間の「意識」の違いであります。
前者は、コンピュータとは、制御可能であると思うし、後者は制御できない、ただ従うしかないと思うのであります。
後者の人間は、ですから、できるだけこの状況に取り込まれることを避けようとするのでありますが、それは例えばSNSのように周りの人間がすでに受け入れているものに限ってこれを「安全」なものとして、同化をはたすのであります。
「プログラム」とは、「ロジック」であります。
実は、法律も一種の「プログラム」であり、法論理と言う「ロジック」であります。
ただこういったいままでの「ロジック」は、この恣意的運用が許されていたのであります。
しかし、いまのコンピュータ「プログラム」と言う「ロジック」は、そうはいかない。この新しい「ロジック」は、従来からのロジックとは本質的に異なるものであったのであります。
そして、この新しい「ロジック」と言うDNA、遺伝子を獲得したのが「次人類」であり、これが、橋下であり、竹中であったのであります。
新しい「ロジック」の世界で生きているものからすれば、テレビ番組に出演して意見を言う竹中平蔵と、他の出演者の発言との間には、くっきり明瞭な、歴然たる「違い」がまことにもって鮮明に見えてくるのでありますが、それが「ロジック」と言うものであります。
橋下徹のツイッターも、まったくもって同様であります。
しかし、「前人類」からすると、これがまったく見えない。
見えるのは、自分たち同様の「レトリック」まみれの「橋下」像。決して「ロジック」をここに彼らが見出すことは一生かかってもありえないのであります。残念ながら、人は、自分たちの「レベル」でしか、他人の「レベル」を評価することはできないのであります。
ここで、ひとつご注意いただきたいのは、たとえば生まれてすぐからスマートフォンやiPadの世界に住んでいる子どもたちのことであります。
この子どもたちが、「次人類」であるかと言えば、これがまったく逆であり、「前人類」そのままであることを認識する必要があるのであります。なぜなら、この彼らや、彼女たちが、決して「プログラム」的思考ができるわけではなく、そもそもにおいて直感的インターフェイスとは、「前人類」が得意な「レトリック」思考そのものであるからであります。
でありますから、「次人類」にとって、この「戦い」は容易ならざるものがあるのであります。
さて、ここで、今回の週刊朝日問題について、あらためて振り返ってみると、週刊朝日や佐野眞一が「DNA」と言う言葉を持ち出してきたのも、あるいは橋下がこれを優生思想であると批判したのも、決してこれは比喩でもなんでもなく、今回の問題の「本質」そのものであったのであります。
はたしてこれは、フィクションで終わってしまうのか、はたまた壮大なるノンフィクションなるものとなるのか。これを決めるのは、あなた。 KAI
「言葉の信頼性」がいかに強力な「武器」であるか、これをまざまざとみせつけた「勝利」であります。
朝日新聞出版(東京都中央区築地)は19日夜、「週刊朝日」10月26日号で始まった橋下徹大阪市長に関する連載記事「ハシシタ 奴(やつ)の本性」について、2回目以降の掲載を打ち切ると発表した。
次号で「おわび」を掲載する。
連載打ち切りの理由を巡り、河畠大四・週刊朝日編集長名で、「記事中で同和地区などに関する不適切な記述が複数あり、このまま連載の継続はできないとの最終判断に至りました。橋下市長をはじめとした関係者の皆様に、改めて深くおわび申し上げます。不適切な記述を掲載した全責任は当編集部にあり、再発防止に努めます。連載の中止で、読者の皆様にもご迷惑をおかけすることをおわびします」とのコメントを出した。
親会社の朝日新聞社は19日夜、「当社は、差別や偏見などの人権侵害をなくす報道姿勢を貫いています。当社から2008年に分社化した朝日新聞出版が編集・発行する『週刊朝日』が、連載記事の同和地区などに関する不適切な記述で橋下市長をはじめ、多くの方々にご迷惑をおかけしたことを深刻に受け止めています」との広報部コメントを発表した。
(橋下氏に関する連載、週刊朝日が打ち切り発表、2012年10月19日22時42分 読売新聞)
今回は、この徹底解説であります。
維新と言う「革命政権」の本質は、「言葉の信頼性」であります。
日本の100年有余の政党政治において、橋下徹の「革命政権」によって歴史上初めて「言葉の信頼性」を担保する政権が誕生する。
これが、維新を支持する人たちの真実の心であります。
この「心の炎」は、なにがあろうとも決して消えることはないのであります。
(情報戦とは−−孫子の兵法応用編・パート5)
そもそも橋下徹に対する「出自」攻撃は、昨年(2011)10月、新潮、文春が時をはかったかのように一斉にキャンペーンを開始したのであります。
両誌共に読みましたが、「ハシゲはブラク、親父はヨゴレでジサツ、叔父貴もヨゴレ、従兄弟は金属バットでヒトゴロシ」と、アンパンマンやウンコチンチンなネタが大好きな子供たちが喜びそうな内容で、「だからなんだ?」という肝要な結論部分をあっさり読者の手に委ねるという芸術映画の様な記事でグイグイ惹き込まれますし、橋下徹さん好き嫌い以前の話として、人権守護特殊団体さんが手を叩いて喜びそうな新たな人権侵犯事案提供に感涙を禁じえませんし、橋下さんの出自も大事ですがそれより何故に新潮・文春両誌が同じタイミングで新潮45の「差別専門ルポライター上原善広さん」記事の後追い書かざるを得ないのか、その辺の理由や因果関係の背景が非常に興味津々な案件であります。
(週刊新潮・文春の「橋下徹・出自報道」に対し本人がツイッターでコメント)
そして1年たって、まったく同じネタで話を蒸し返したのが週刊朝日。これにまたしても橋下徹は、ツイッターで反撃する。
朝日新聞は血脈主義、身分制度を前提にするのかどうかということ。これは優生思想、民族浄化思想にもつながる極めて危険な思想だ - 2012年10月18日のツイート
今回は、この展開を、問題の張本人である佐野眞一は、記事の中でこう予測していたのであります。
オレの身元調査までするのか。橋下はそう言って、自分に刃向かう者と見るや生来の攻撃的な本性をむき出しにするかもしれない。そして、いつもの通りツイッターで口汚い言葉を連発しながら、聞き分けのない幼児のようにわめき散らすかもしれない。
だが、平成の坂本龍馬を気取って“維新八策”なるマニュフェストを掲げ、この国の将来の舵取りをしようとする男に、それくらい調べられる覚悟がなければ、そもそも総理を目指そうとすること自体笑止千万である。
(週刊朝日は謝罪すべきではなかったし、連載を続けるべきだった)
これを、佐野眞一は、「いつもの通りツイッターで口汚い言葉を連発しながら、聞き分けのない幼児のようにわめき散らすかもしれない」と、過小評価していたのであります。
そして、今回もまた、これを、識者と言われる方々は、「差別問題」と言う個別の問題に矮小化するのでありますが、佐野眞一同様に彼らには、歴史上いまなにが起こっているのか、かなしく、そして哀れなほどまでに、これを理解する能力に欠けているのであります。
「差別問題」など、これにまったくもって関係ないのであります。
「差別問題」以外でも、これから、たびたび、メディアと言う権力が「敗北」を喫する事例が、頻出するのであります。
なぜか。
それは、メディアが「言葉の信頼性」を疎かにするからであります。
ツイッターで口汚い言葉を連発
彼らにとって、ツイッターによる「議論」などあり得ない。ツイッターに書かれる言葉は、すべて「感情」との認識であります。
ところがどっこい、そうではない。
すでに、いくつも引用した橋下徹のツイッターをお読みいただければ、ことごとくにおいて、これが「明晰」なる論理で貫かれていることがわかるのであります。
これに対する、メディアと言う「権力」はどうか。
もちろん、彼らが、ツイッターで反論することもなければ、記者会見の場に出て正々堂々と「議論」に応ずることもない。せいぜいがゴミブロガーに、キャンキャンと吠えさせるだけ。まともな「論争」記事の一つも、いまだかつて書いたためしがないのであります。
これで「言葉の信頼性」を、築けるわけがないのであります。
すなわち、これが何を意味しているのか。
この本質を、みなさんは徹底して理解する必要があるのであります。
そして、それは、「言葉の信頼性」とは、その言葉の「コンテンツ」の「信頼性」ではなく、「言葉」による議論と言う「プロセス」としての「信頼性」以外の、何者でもない、つまりはそう言うことだったのであります。
であるからして、今回日本維新に参加した、数人の国会議員もそうであります。
まったくもって、彼らの中にこれをわかっている者は、一人としていないのでありますが、彼らにとって、この「言葉の信頼性」がいかに重要なる意味を持つのか、これから何度も何度も身をもって思い知らされることになるのであります。
でありますから、「レトリック」に代表される、「言葉の信頼性」ではない、「憎悪」や「嫌悪」に支配された人々にとって、せいぜいがBLOGOSやゴミ週刊誌に載せる三文記事が、まことにお似合いと言うわけであります。
勝負あったり。
と言うことであります。 KAI
さて、いよいよこの情報戦も佳境であります。
まずは、この「どしがたき自民党」であります。
■構造改革路線を支持する議員は少数派
いまや自民党内で「小泉改革」という言葉はタブーだ。「構造改革路線」という言葉も「小泉改革」と同義語として捉えられており、自民党議員でこの言葉を使う人は少数派だ。「改革なくして成長なし」という人口に膾炙したキャッチフレーズも今はほぼ死後になった。郵政選挙後の自民党内のムードと今のムードはまったく違うのだ。
それはもちろん民主党が小泉改革を意図的に否定し、格差拡大の元凶というレッテルを貼って政権交代を果たしたことが大きい。選挙で負けたキャッチフレーズなどおぞましいということだろう。
それを典型的に示したのが、郵政改革に対する自民党の態度の変化だ。今年3月末に自民党は、国民新党や民主党が進めた「郵政民営化を見直す改正法案」を総務会で"全会一致"で了承した。郵政選挙で自民党を圧勝に導いた「郵政民営化」を自己否定してみせたわけだ。
それに異を唱えたのは、小泉首相の政策を政務調査会長などとして支えた中川秀直・元幹事長らごく一部の議員だけだった(本欄関連記事参照)。つまり、現在の自民党内で、かつての安倍内閣の構造改革路線を支持する議員はおそらく、かなりの少数派と思われるのだ。
(「構造改革」 か、それとも 「バラマキ」か?選挙をひかえて路線対立で揺れる安倍総裁が求められる「首相時代の総括」)
この竹中の存在を理由に維新に嫌悪をしめすやからが多いのでありますが、彼らこそこの「言葉の信頼性」に背を向け、「レトリック」と言う「バカの思考過程」に身を投じたかつての民主党投票者であり、彼らに乗じて格差を生んだとして小泉竹中改革を自らの手で潰した現在の自民党なのであります。
(情報戦とは−−孫子の兵法応用編・パート5)
細かい分析は省略させていただくとしまして、結論から申しあげますならば、これは「何も考えてない」人々の結果であります。なんども申しあげております「レトリック」でしかものごとを判断できない人々であります。
日本の有権者の大半が、「これ」でありますから、これは致し方ないといえば致し方ないのでありますが、橋下「革命政権」にとっては、これは「大吉」であります。
つまり、「革命」を成就するためには、議会の過半数を占拠する必要があるのであります。これがもし「イデオロギー」を異にする勢力と手を組むしか方法がないとしたら、これはたとえいったんは過半数を制したとしても、維持しつづけることは不可能であるからであります。
自民党と言う政党自体も、これを支持する方々も、結局のところは「何も考えてない」のであります。「革命政権」と手を組むことになんのためらいもないのであります。
でありますならば、廃止を唱える参議院においてでさえ、過半数を押さえることが可能になるのであります。
さて、ではこれからいかなる展開となるのか、であります。
これを占うのが、東京維新の「大日本帝国憲法復活」支持問題であります。
日本維新の会代表の橋下徹大阪市長は12日、石原慎太郎東京都知事が同日の記者会見で「占領軍が作った憲法は廃棄したらいい」と述べたことについて、「憲法を勝手に破棄するのは権力者が絶対に踏み越えてはならない一線だ。国民としては怖いし、絶対に許されない」と批判。「この部分では石原知事と合わない」と断言した。
石原氏が新党結成に意欲をみせる中、かねて良好な関係にある橋下氏との憲法をめぐる主張の違いが如実に表れた形。両氏は消費税増税や原発政策などをめぐっても見解の相違がある。
ただ、橋下氏は「石原知事の政治家としてのキャリアや力は、日本にとって必要不可欠。しっかり話をさせていただきたい」とも述べ、石原氏側と維新との連携については「いろいろとお話をする中で…」と含みをもたせた。
(橋下氏、憲法問題で石原都知事を批判 次期衆院選連携には含み)
何が「大」で、何が「小」であるのか。これをみきわめさえすればよろしいのであります。
もちろん、こんなこと、石原も橋下も、百も承知であります。
つまり、「憲法」問題とは「小」であって、なんの問題もないのであります。
識者と言われる方々が、これを3年前の民主党と同じであると揶揄するのであります。
いわく、単に「反自民」の選挙互助政党が、てんこ盛りのマニフェストで国民を騙したと。
それで民主党に投票した人々は、マニフェスト詐欺の被害者だと。
何をかいわんや、であります。
KAIに言わせるならば、3年前の民主党投票者などと言うのは、マニフェスト詐欺の共犯者以外の何者でもないのであります。
それをいまさら、被害者面をするなどと言うのは、ちゃんちゃらおかしい。
それはなぜか、お答えするのであります。
「大同小異」の「大同」とは、「正統性」における「大同」であるからであります。
この観点に立って、いまあらためて3年前の民主党の「マニフェスト」をお読みいただきたいのであります。「縦価値」ではない「横価値」のオンパレードであります。
これに対する、維新八策。利益ではなく、公正であります。
3年前のマニフェスト詐欺の共犯者を支配していたのは、団塊に代表される利権集団の論理、そのものであります。
つまり、かっこよく言えば「反格差社会」の「論理」であります。
すなわち、議論より結論であり、議論を否定し、市場の否定なのであります。
これに対して、橋下「革命政権」の「論理」である、「公正社会」とは、議論を肯定し、市場を肯定することであります。最初から結論ありきの議論ではなく、議論の末に得た結論を「公是」とするのであります。「市場」もまた「正統性」として肯定する。
これこそが、「大同」であります。
これに直接的に「ロジック」で理解するものが「日本維新」を支持し、「レトリック」で理解するものが「自民」を支持することになる。今後の展開とは、つまりはこう言うことになっていくのであります。 KAI
山中伸弥京都大学教授の、2012年ノーベル医学生理学賞受賞は、まことに喜ばしいかぎりでありますが、今回のこの受賞はKAIの「正統性」思想にとってもきわめて重要な意味があるのであります。
それは、今回の受賞が、英ケンブリッジ大のジョン・ガードン博士(79)との同時受賞であったことに、おおいに関係しているのであります。
山中伸弥は、ガードンとのノーベル賞同時受賞に関して、「ガードン先生との同時受賞が、一番うれしいと言っても過言ではない。ガードン先生はカエルの研究で、大人の細胞が受精卵の状態に戻るということを核移植技術で証明した。まさに、私のしている研究を開拓してもらった。ガードン先生が実験したのは1962年。私はその年の9月に生まれた。同時に受賞できたのは、研究者の人生として大きい。ガードン先生もまだ現役で活躍している。iPS細胞が本当の意味で、医学、創薬の応用に実現できる日まで頑張っていきたい」と述べている。
(ジョン・ガードン (生物学者)、Wikipedia)
すなわち、ガードン先生とこの山中伸弥との間の半世紀と言う時間を隔たる繋がりこそ、「正統性」の確かなる「証明」となるのであります。
つまり、時間軸上の繋がりこそ、「正統性」の絶対的担保となると言うことであります。
この、時間軸上の繋がりのことを「縦価値」と呼ぶのであります。これに対する「横価値」が、前回の「正義」や、これに伴うかたちの「善悪」、「正邪」、そして「良非」といったものになるのであります。
ここで、ウチダ先生であります。
このウチダ先生、「教育」と言う「基本問題」においては、きわめて卓越した知見を披露できるのに、これが「政治」や「外交」と言った「応用問題」となると、まるで「へろへろ」になるのは、なぜなのか。実はこれこそ「頭」の大きさ問題に帰するのでありますが、本題から逸れますのでこれはまたいつか。
(「正統性」思想とは−−正義と正統性)
前回引用した文章にもあるとおり、ウチダ先生は激しく「競争」なる概念を忌避されるのでありますが、これが「経済」や「市場」、あるいは「大学受験」といった分野に適用されることを「必要悪」と(KAIの推測ですが)お考えなのであります。
「必要悪」とは、「善悪」の「悪」であります。すなわち「横価値」であります。
武道では強弱勝敗巧拙を論じません。
これが、間違いなのであります。
そうではなく、「市場」に代表される「経済」、「対米従属」の「外交」、「憲法」および「政治」といったことごとくの分野において、適用するべきは「横価値」ではなく「縦価値」、すなわち「正統性」であります。
例えば「市場」における「競争」も、一人一人の「正統性」を担保するための「修行」の場であると考えればよろしいのであります。「競争」とは、あくまで「手段」であります。
これを疑いもなく一心不乱に実践してきたのが、かの「ジョブズ」であります。
”私はこの時あらためて思った。大事なのは技術ではなく、それを使って何を生み出すことができるかだ。技術は短期間で廃れるが、生み出された物語は、何十年何百年と受け継がれていく。私がしたいのは性能の良いコンピューターを作ることではない。コンピューターを使って感動を巻き起こすことなのだ。”
(世界は勝手に変わるのではない、誰かの手で変えているのだ。 )
「人生」においても、「仕事」においても、あるいは「教育」、「子育て」、すべてにおいて「感動」を生み出す以外にはない。これが「すべて」なのです。 KAI
そろそろ最終章、ファイナルであります。
今回は、懸案の「正義と正統性」。
そして、これにジャストタイミングで、ウチダ先生が貴重なヒントを与えてくださったのでありますが、このお話はのちほどにして、まずは「正義」であります。
もちろん、「正義」とくれば、マイケル・サンデル先生であります。
共通善の追求
サンデルは正義を相対的なものとするウォルツァーの考え方を批判し、絶対的な共通善を議論により追求するコミュニタリアニズムのあり方を提言しています。ウォルツァーとサンデルの違いは、「共同体の正義を見出すにはアンケート調査で十分なのか、それとも議論が必要なのか」とも表現できるでしょう。
サンデルはまた、リベラリズムが浸透した社会が美徳に関する議論などを回避し、道徳的不一致を抑制する風潮を生んでいることを批判します。
例えば同性結婚の是非について、リベラリズムは「異性愛者と同性愛者には平等な権利がある」「そもそも政府が特定の人と人の結びつきに特別な価値を与えることには道理がない」といった主張をします。それは結婚の目的という人々の美徳の観念を無視した主張です。価値観の異なる人々は美徳の議論で合意できないので、政治はそのような議論を回避すべきだと考えるのです。
しかしサンデルは講義の中で、学生たちの議論が「結婚制度は2人の独占的で永続的な関係を賞賛する」という結論に達することを示しました。いつもこのように結論が出るとは限りませんが、道徳に関与する政治は、公正な社会の実現をより確実にする基盤になる、とサンデルは主張します。
(ハーバード白熱教室ノート)
「正義」を議論しはじめると、必ず出てくるのが、この「善悪」と、「正邪」、そして「良非」であります。
これに、道徳的、倫理的価値観を適用して、人は「正義」と「不正義」の間を峻別しようとするのであります。
しかし、これは、ことごとくに「正解」は、ないのであります。
なぜなら、これら「価値観」を共有するはずの「共同体」とは、これが「幻想」だからであります。
ここでみなさんには、よくお考えいただきたいのであります。
それは「物理的」大きさであります。
この文章をお読みのみなさんの、「頭」の大きさであります。
みなさん、お一人、お一人、この「頭」の中でものごとを思い、感じ、考えているのであります。決してこの「頭」を超えて、考えているなんてことはない(はず)。(実はこれがそうではないのでありますが、このテーマは別の機会に議論するのであります)
であるにもかかわらず、「共同体」と称して、あたかも自分の「頭」を超える、より大きな「頭」を、みなさんは「仮定」するのであります。あたかも、「共同体」なる「頭」を、であります。
ここに、道徳的、倫理的な「善悪」なるものが、ある。
こうみなさんは、信じるのであります。
これは、あたかも自己申告で、みなさんの「心臓」の重さを量るがごときものであります。
でも、そんな大きな「頭」は、ない。
あるのは、みなさん、お一人、お一人の「頭」の大きさでしかない。
であるからして、サンデルの「共通善」で言うところの「共通」に、その根拠は存在しないと、つまりはそう言うことなんであります。
すなわち、あらゆる「正義」から、その「恣意性」を免れるすべはないのであります。
まさに、ここにこそ、「正統性」が持つ意味の本質があるのであります。
すなわち、「正統性」とは、この一切の「恣意性」を排除する、そう言う「思想」なるものであります。
ここで、これを理解するための絶好の文章が、これであります。
競争させても、学力なんか伸びません。逆に、どんどん劣化してくるんです。
僕が合気道という武道を通じて教えているのは、「生きる知恵と力」をどう伸ばすかということです。武道では強弱勝敗巧拙を論じません。他者との相対的優劣は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい動きが冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが稽古の目的であって、同門の誰より技が巧いとか、動きが速いとかいうことには何の意味もないのです。
競争というのはルールがあって、審判がいて、勝敗や記録のつけ方が決まっている競争です。武道が設定している状況は、生き死にです。
どこで、何が起きても生き延びる。それが武道修業の目的です。武道的な意味での「敵」とは、自分の生きる力を殺ぐものすべてがカウントされる。天変地異も、病気も老化も家庭不和も仕事上のトラブルも、全部そうです。どれも自分の心身のパフォーマンスを損なう。それがもたらすネガティブな影響をどう抑止するか。それが武道的な課題なんです。武道はもともと戦技であって、競技じゃない。
戦場に放り込まれたときに、「こんな不利なルールではゲームはできない」とか「こんな弱兵では戦えないから精兵と取り替えてくれ」いうような要請はできません。手持ちの資源でやりくりするしかない。その弱兵たちの才能をどうやって開花させ、能力を最大化させるか、それを考える。それを自分自身の心身について行うわけです。
おのれの潜在可能性を爆発的に開花させるためには、何をすればよいのか。
やればわかりますけれど、才能開発の最大のトリガーは「相互扶助」なんです。
「自分が守らなければならないものがいる」人間は強い。自分の能力の受益者が自分ひとりである人間は弱い。
遭難した場合でも、家で妻子が待っているという人は、独身者よりも生存確率が高いことが知られています。そういうものなんです。
集団もそうです。メンバーの中の「弱い個体」を守るために制度設計されている集団は強い。「強者連合」集団は強いように思えますが、メンバー資格のない「弱い個体」を摘発して、それを叩き出す作業に夢中になっているうちに、集団そのものが痩せ細ってしまう。競争的な発想をすると、修業の目的は地球上の70億人全員を倒してチャンピオンになるということになる。
すると、論理的には自分以外の70億ができるだけ弱くて、愚鈍で、無能であることを願うようになる。できれば、この世界にいるのが自分ひとりで、あとは全部消えてしまうことを願うようになる。
武道の目的はそれとは逆です。地上の70億人全員が武道の達人になることが目標だからです。
すべての人間がおのれの潜在可能性を開花させ、心身の能力を最大化した状態の世界はどれほど愉快で住みやすいか。
競争的なマインドの人は、つねにどうやったら周りの人間の心身の発達を阻害し、能力を下げることができるかを考える。
閉鎖集団内部での相対的優劣を競う限り、自分の能力を高めることと、他人の能力を引き下げることは同義ですから。日本の場合は、競争原理によって、これにみごとに成功した。その結果、全員が全員の足をひっぱるような情けない社会ができてしまった。
競争は国を滅ぼす。僕はそう考えています。
(「En Rich」のロングインタビュー)
と言うことで、「正統性」であります。
武道では強弱勝敗巧拙を論じません。他者との相対的優劣は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい動きが冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが稽古の目的であって、同門の誰より技が巧いとか、動きが速いとかいうことには何の意味もないのです。
これを、こう言い換えればいいのであります。
「正統性」思想では善悪正邪良非を論じません。他者との相対的価値は問題じゃないんです。競争相手がいるとしたら、それは「昨日の自分」です。昨日の自分よりどれくらい感覚が敏感になったか、どれくらい思考が冴えたか、どれくらい判断力が的確になったか、そういうところを自己点検することが思索瞑想の目的であって、同門の誰より道徳的とか、倫理的とかいうことには何の意味もないのです。
この「時間軸」上において、いかなる説明ができるのか。
これが「正統性」のすべてであります。
ものごとには、必ず、「善悪」、「正邪」の両面があるのであります。
しかし、「正統性」には、これがない。あるとすれば、偽りの「正統性」であります。
「時間軸」上においては、これを、例えば歴史問題における解釈のように、「正統性」のあるなしで論じることには、まるで意味がないのであります。そうではなく、あたかも「整合性」が取れているかのように見えるのが、偽りの「正統性」であります。
とは言え、あくまで「見えている」だけであります。
やがては、真の「正統性」によって、これは正されることになるのであります。もちろん、そのための「時間軸」上の猶予を要することは、いまさら申しあげるまでもないのであります。
さて、いかがでしたでしょうか。
昨年の3.11を起点とする、このシリーズ。
東北福島復興を果たさんがため、いま何ができるのか。
それは、「正義」の戦いでもなければ、「絆」の戦いでもないのであります。
そうではなく、これは、私たち一人一人の、「人生」と言う「正統性」の戦いであるのであります。
私たちは、なんのために、生まれ、生きているのか。それは紛れもなく、「人のため」であります。
私は、「人のため」になにをなしうるのか。
これに忠実に生きることこそが、人としての「正統性」であり、人としての「全て」であると、KAIは信じるのであります。
「正統性」に生きる。これ以外には、ないのであります。 KAI