刑事事件において、犯罪現場に残された指紋は、犯罪者の弁解の余地のない、最重要証拠となるのであります。
今回、小沢秘書裁判判決に異議をとなえるかたがたは、この事実とする裁判所の判断を、まるで指紋はなかったかのような言説を展開されるのであります。
例えば、5千万円強奪の犯行現場に、犯罪者の指紋がある。
これを、まるでなかったかのように強弁しても、と言うか、これを否定すること自体、ここで「負け」確定であります。
今回の裁判における「指紋」とは。
5000万の授受があったとされるホテルでの日付時刻人数記載の領収書が、元社長の供述どおり、残されていたのであります。
もちろんこれで5000万の授受の証明には、ならない。
しかし、この領収書は指紋同様、最重要証拠に変わりないのであります。もちろん、被告側がその場に同席していたとの直接的証拠は、微塵もない。
ところがどっこい、ここに落とし穴があったのであります。
裁判とは、いったいなんであるか、小沢秘書弁護団は、まるでわかってはいないのであります。
犯罪があったとする証人の証言が、最重要証拠で裏づけされたのであります。
この一点をもって、控訴審、最高裁における結末は、KAI的に火を見るよりあきらかなんであります。
この判決を不当と批判する方々の中に、元社長が翌年春の5千万を含めて1億円ネコババしたと主張する方がいるのでありますが、ではこのネコババした1億円は、いったいどこに消えたのでありましょうか?
会社の経理に詳しい方であれば、1億円の裏金をつくって、そのうえこれを隠すことがいかに大変なことか、簡単におわかりいただけるのでありますが、こう言う批判をするど素人は裏金だから隠すのは容易と勘違いするんであります。
さて小沢裁判はどうなるか。
やはり焦点は4億円の金の動きであります。億単位の個人の金の出し入れに、小沢自身が関与していないとの主張など到底受け入れられるものではなく、今回の最重要証拠効果でもって有罪確定であります。
すなわち5千万の金が小沢側に流れたのが事実とすると、もうこれだけで裏献金受領の「共同正犯」を立派に構成するのであります。
あとは、いかに政治家人生に決着をつけるか、のみ。覚悟するときであります。 KAI
さて、「心と言葉」であります。
この両者は密接に絡んでいるのでありますが、KAIにとって子どものころからの永遠のテーマであるのであります。
まず、心とは何か。
子ども時代あれこれ考えた結果の結論は、心とはモノの世界を写す鏡である、と言うことでありました。ですから、心を理解するためには、あいまいな心理学ではなく物理学の研究こそ近道であると考え、物理への道を歩み始めたのであります。ただそれが大学の教養課程レベルのあまりの低さにあえなく頓挫。
ほどなくして、この方向がコンピュータソフトウェアと言う言語、すなわち「言葉」へと向かうことになるのでありますが、こちらは後半のお話。
以来幾歳月。
心が何であるか明確にわかるようになったのは、いまから6年前ウチダ先生のブログを読んだのがきっかけであります。
誰にでもわかるけれど、人間の潜在能力の最大のものは「予知」である。どのような強健俊敏なる身体能力の持ち主も、「予知」能力のある人間の前では無力だからである。
(中略)「予知」というのは、別に特殊な能力ではない。
ある意味では誰でも備わっている。
というのは、予知能力というのはほんとうは「これから起こること」を予見するのではなく、何かを「これから起こす」遠隔操作力のことだからである。
(多田塾合宿から帰る)
あたかもこれは、シュレディンガー方程式を目の前にして、これをどうやって数値計算すれば解けるのか、その万能のオペレーショナルな方法がわかったようなものであります。(かえってわからんってか^^;)
ご説明しましょう。
人の心はともかく、自分の心とはどうなっているのか。これを考えるとき、私たちはついついこれを「主観的」ではなく「客観的」に捉えようとするのでありますが、この「客観性」がくせものだったのであります。
「客観性」を担保するものなど、どこにもないのであります。これがあるかのように議論するからおかしくなるのであります。
ではどうすればいいのか。
心とは、すべてこれは「内なる」ものとし、すべてここから始まるとするのであります。
例えば、太陽。朝日が昇り、日中の強い陽射しから、夕日に沈んでいく。
確かにこれは「客観的」事実かもしれないけれど、これを理解し認識しているのは、自分の心の中でしかない。
あらゆる目前の事象は、実は自分の心の中の世界なんであります。(ここまでは子ども時代のモノを写す鏡と同じ)
であるならば、心を理解しようと思うなら、今一度この自分の心の中に入りなおして、心の世界を眺める必要があるのではないかと、そう言うことなんであります。(これを内省と言います)
そこで問題となるのが、自分の心の中の大きさであります。
この一番大きいものが「大気」であり、自分の大きさが「気分」となるのであります。
「大気」は、これまでの話と一見矛盾するかのようにみえますが、私たち人間を含むすべての生物、すべての生命、さらには地球から宇宙まであらゆるものを覆い尽くすものであり、たったひとつのものであります。
私たちの心は、この「大気」の中にあって、この一部を「気分」として共有していると考えるわけであります。
一人一人の心の中は、一見他人からは窺い知ることのできない閉じた世界としての心の作用があると、そう言うふうについつい思ってしまうのでありますが、そうではなく「大気」と言う大きな流れが、一人ひとりの心に作用していると、こう考えればいいと言うことであります。
ここで、もっとも重要なことは、「大気」も「気分」も、時間軸上の拡がりを持つと言うことであります。もちろん過去に向けて拡がっているだけではなく、未来へも過去と同様に拡がっているのであります。ただこれは単に言葉の上で過去と未来と呼んでいるだけで実際は地平線のような一様な拡がりにすぎないのであります。
そして、この時間軸をコントロールしようとするのが、ウチダ先生の「予知能力」であり、「遠隔操作力」であります。
と言うことで、以下長くなりますので、ポイントだけ。
これもまたシンクロニシティ。このところKAIはなぜかコズミックづいているかと思ったら、こんなビッグニュースであります。
素粒子ニュートリノが飛ぶスピードは光より速い−。名古屋大などの国際実験チームが23日、光より速いものはないとするアインシュタインの相対性理論の前提を覆すような測定結果を発表した。測定の正しさが証明されれば、現代物理学に根底から見直しを迫ることになる。名大の小松雅宏准教授は「衝撃的な結果だが、実験チームとしてはデータの検証を尽くした上での数値だ。どういう解釈が可能なのか、理論研究者への問題提起となるだろう」としている。
チームは、欧州合同原子核研究所(スイス・フランス国境)の加速器から約730キロ離れたイタリアのグランサッソ地下研究所の検出器に向けてニュートリノ発射し、発射時と到着時を測定。3年間の実験で蓄積した約1万6千回のデータから速度を計算した。
その結果、秒速約30万キロの光が約2.4ミリ秒かかるところを、ニュートリノは1億分の6秒早く到着していたことが判明。ニュートリノの速度は光より10万分の2速いことになる。
(ニュートリノが光速超えた? 「相対論」覆す可能性 名古屋大などが測定)
スーパーカミオカンデ実験を率いる東大の鈴木洋一郎教授も「別の機関による検証実験で、結果の正しさを確かめることが大事だ」と慎重な姿勢だ。
鈴木氏は、昭和62年に小柴昌俊氏がニュートリノを検出した実験で、超新星爆発で出た光とニュートリノがほぼ同時に観測されたことを指摘。「両者の速度に今回のような違いがあるとすると、ニュートリノは光よりも1年は早く地球に到達していなければおかしいことになる」と語る。
(光速超えるニュートリノ 「タイムマシン可能に」 専門家ら驚き「検証を」)
これはしかし、確かに矛盾があるかのようにみえてそうではないとKAIは考えるのでありますが、この名大の実験は、量子相関の問題ではないかと思うのであります。つまり、今回なぜかペアニュートリノの片方だけの速度を観測したと言うことであります。ペアのもう一方を観測して重ねあわすと小柴の観測とつじつまがあう。
もちろん、これには今回なぜペアニュートリノが発生ししかもこの片方だけを観測することになったかの説明が必要ではありますが。(単なるイタリア側の検出器の特性問題だったりして)
さて、本題の巨大リンゴであります。
これをご説明する前に、まずブラックホールであります。
ブラックホールは単に元の星の構成物質がシュヴァルツシルト半径よりも小さく圧縮されてしまった状態の天体であり、事象の地平面の位置に何か構造があるわけではない。よってブラックホールに向かって落下する物体は事象の地平面を超えてそのまま中へ落ちて行く。ブラックホールから離れた位置の観測者から見ると、物体が事象の地平面に近づくにつれて、相対論的効果によって物体の時間の進み方が遅れるように見える。よってこの観測者からは、ブラックホールに落ちていく物体は最終的に事象の地平面の位置で永久に停止するように見える[4]。同時に、物体から出た光は赤方偏移を受けるため、物体は落ちていくにつれて次第に赤くなり、やがて可視光から赤外線、電波へと移り変わって、事象の地平面に達した段階で完全に見えなくなるとされる[要出典]。
ブラックホールの中心には密度、重力が無限大である特異点があるとされる。
(ブラックホール、Wikipedia)
特異点とは、広中平祐がこれを説明するのに用いた喩えで言えば、上空から見た8の字状のコースを走るジェットコースターであります。交差する場所が特異点であり、もし2台のコースターが交差点でぶつかれば大事故になりますが、互いに通り抜けていくことができればここは特異点でもなんでもない場所になります。そうです、立体交差させればなんのことはないのですが、これを特異点の解消と呼ぶのであります。
つまり、特異点をなくすには(2次元から3次元と言うように)次元を上げてやればいいと言うことであります。
ブラックホールと言う特異点も、同様に考えればいいわけでありますが、具体的にどうやるか。
実は、宇宙には特異点が、あと二つあるのであります。
それは、宇宙の「始まり」と「終わり」であります。
この二つを合わせて三つの特異点が、巨大リンゴで、特異点解消となるのであります。
まず、この絵をご覧いただきたいのであります。
この絵の右端の半径がどんどん拡がってめくれていく感じを想像してみてください。これを外側に反転させて左端に集めると、どうなるか。
こうなるのであります。
こう考えると、加速度的膨張宇宙も簡単に理解できるのであります。反転して拡がる状態は、われわれの常識では光のスピードをはるかに超えていくのであります。
そしてまた、走る姿をいつまでも追いかけてくる影のように、宇宙の始まりは、いつまでも永遠に宇宙の始まりであり、夕日を追いかけるがごとく宇宙の終わりはいつまでも続くのであります。
おまけに、こんな話題も見つかりましたが、これはまた次回と言うことで。
宇宙最大の爆発現象と呼ばれる「ガンマ線バースト」は、新しく生まれたブラックホール周辺から放出されたガスの塊から発生することが、金沢大学の米徳(よねとく)大輔助教(宇宙物理学)らの研究でわかった。
謎の多い爆発現象の実態に迫る成果で、19日から鹿児島市で始まる日本天文学会で発表する。
ガンマ線バーストは、放射線の一種であるガンマ線が数十秒の短時間だけ大量に放射される現象で、宇宙初期の姿を解明するカギとされる。約4億3500万年前に起こった生物大量絶滅の原因という説もある。太陽の30倍以上の重い星が爆発してブラックホールができる際に生じると考えられているが、詳しい仕組みはわかっていなかった。
研究チームは、太陽光のわずかな圧力を帆に受けて加速する日本の宇宙ヨット「イカロス」に載せた装置で、昨年8月26日に発生したガンマ線バーストを観測し、データを分析した。
(宇宙最大の爆発、ブラックホール周辺のガス塊で)
ちょうど、こんなことを考えて続けているからこそ、こんな素敵な文章との出会いがあるのであります。
夢の実現のためのヒント
「好き」なことを研究して仕事にしたいと夢を語る子供。
「どうやったらその夢が実現できますか?」と。
それに対し、本居宣長の偉業を例に出す太田。
本居は学問的好奇心だけで趣味で『古事記』と「一生付き合い」最終的には、それを解読した。
そして、本居宣長を評した小林秀雄の言葉について語り始める。
対象と長ーく付き合う事、何十年も付き合っていればそのことが理解できるってことが学問。っていうのを小林秀雄が言ってて。
その人の喩えで僕が感動したのは、君たちのお父さん、お母さんが、君たちを産んでずっと今まで十何歳まで育ててきたわけだよね。
そうすると例えば君たちがなんか元気なさそうにしてるとさ、(親は)「学校でなんかあった?」ってピンとくるわけだよ。
それが学問なんだって。
だから普通の親は君たちを学問として勉強しようと思ってるんじゃないんだけど自然と君たちに興味があるから君たちのことが全部分かるようになる。
だから、夢を叶えたいっていうのは、その興味を持ち続けて長ーくその対象と付き合う、付き合い続けるってことじゃないかなって気がしますね。
(「未来はいつも面白い」太田光の最後の授業)
宇宙は、KAIにとって、中学生時代、相対性理論の本に没頭して以来の永遠のテーマでありますが、これがやっと具体的なかたちで、イメージできるようになったのであります。
宇宙とは、137億年前のビッグバンによって誕生したこと、この137億光年の拡がりを持つ宇宙全体は約4%の既知の物質と、20%から20数%のダークマターと言われる未知の物質、残りがダークエネルギーと言うこれまた未知のエネルギーで満たされていること、この宇宙全体は星の集合である銀河が一様に分布しているのではなくあたかも巨大な泡が無数にあってこの一つ一つの泡の表面膜の上に集中的に分布していること、この宇宙の膨張は減速するのではなく逆に加速度的であること、などなどが最先端の観測によって、はっきりと目で確認できるようになってきたのであります。
人類の宇宙観に革命を起こし続けている『ハッブル宇宙望遠鏡』。地上600キロの大気圏外にあり、大気の影響の受けないため、ゆらぎないクリアな映像で、彼方にある数千億個の星々が集まる"銀河"すら鮮烈に映し出すことができます。
これまでの地上観測により、地球の近くの銀河は、石けんの泡のような形に集っていることがわかってきました。泡の膜の部分に銀河が群れ集まり、泡の中は銀河がなく空っぽになっています。この銀河が作り出す泡構造は、地球の近くだけのことなのか、それとも遙か彼方まで続く構造なのかは、ながく謎に包まれていました。これを解くため、世界中から100名をこえる科学者が集まり、ハッブル史上最大の観測が行われました。そして、近くの宇宙だけではなく、はるか100億光年先まで、銀河が泡のように連なっていることが観測によって初めて解き明かされました。理論シミュレーションから、銀河の泡が出来るには、見えない謎の重力源「ダークマター」が必要だと考えられています。ダークマターがあると、その重力により光が曲げられます。この現象は、あたかもレンズのような働きをするため"重力レンズ"とよばれます。ごくわずか銀河の光の変化でさえ、ハッブルならくっきりと捉えることが可能です。そこで、これ測定することでダークマターの分布が調べられました。結果、泡のような銀河の分布とダークマターの分布がピタリと一致しました。銀河はダークマターの重力により、泡構造を作っていたのです。
2010年春、1個の天体で銀河系の半分(5万光年)もの大きさがある不思議な巨大天体が東京大学の大内正己准教授によって発見されました。この謎の天体までの距離は、129億光年。すなわち、129億年前もの「太古」の天体であることから「ヒミコ」と名付けられました。そして、ハッブル宇宙望遠鏡をつかっての「ヒミコ」の観測が行われます。宇宙探求の最前線(コズミックフロント)にたつ研究者を追いました。
(「ハッブル宇宙望遠鏡 銀河の泡の謎に挑む」)
そして、この番組で紹介された、吉田直紀(東京大学数物連携宇宙研究機構)による宇宙誕生から数億年間の数理シミュレーションの研究を目の当たりにして、まさに感動であります。
得られた結果は次のようにまとめられる.まず,ファースト・スターが誕生したのは宇宙創成から3億年ほど経った頃である.われわれの計算では宇宙の平均的な場所を仮定したが,場所によって多少の差があるため,宇宙の一番星が光り出したのは1億~3億年の頃というのが妥当であろう.いずれにせよ137億年の宇宙の進化史のかなり早い段階であることになる.次に,原始星(生まれたばかりの星)の質量は太陽の100分の1程度であった.中心温度は絶対温度1万度を超え,また密度は1cm3 あたり0.001g 程度,ちょうど空気と水の密度の間くらいに相当する.まわりには大量の温かいガスが存在し,それらが中心にむかって落ち込んでいくため,この小さな星の種はすぐに成長し,巨大な星になると考えられる.実際に3次元シミュレーションから得られたガスの降着率を用いて,原始星進化の詳細な理論計算をおこなったところ,最終的には質量がおよそ太陽の100倍以上にもなることがわかった.どうやら初期宇宙の星は小さく生まれて大きく育つようだ.質量が太陽の100倍というのは明るさでは太陽の百万倍以上にもなる.宇宙がまだ数億歳という若さの時に,このようなとても明るいファースト・スターが闇を照らし出し,暗黒時代に終わりを告げたのだろう.
(ファースト・スター:宇宙の一番星の誕生 謎の「暗黒時代」に育った星と光を初めて再現)
その後、周囲のガスを取り込みながら数万年で太陽の100倍の質量に成長、最後は爆発してブラックホールになりました。この星の寿命は、わずか数百万年でした。
(宇宙で最初に生まれた星(ファーストスター))
国立天文台と宇宙航空研究開発機構(JAXA)の研究チームは9月8日、地球から約5440万光年の彼方にある「おとめ座A(M87)銀河」に潜む巨大ブラックホールの位置を正確に突き止めることに成功したことを発表した。
同成果は総合研究大学院大学物理科学研究科天文科学専攻・博士課程3年/国立天文台水沢VLBI観測所の秦和弘氏、宇宙航空研究開発機構 宇宙科学研究所・助教/総合研究大学院大学の土居明広氏、国立天文台水沢VLBI観測所・研究員の紀基樹氏、国立天文台ALMA推進室・研究員の永井洋氏、国立天文台水沢VLBI観測所・助教/総合研究大学院大学の萩原喜昭氏、国立天文台水沢VLBI観測所・教授/総合研究大学院大学の川口則幸氏によるもので、2011年9月8日発行の英国科学誌「Nature」に掲載された。
(国立天文台など、おとめ座Aに潜む巨大ブラックホールの居場所の特定に成功)
結局、宇宙とは巨大なリンゴだった。
ニュートンのリンゴも有名ですが、この巨大リンゴこそ宇宙の秘密を解き明かすもっとも重要な鍵となることが、いま鮮明にわかったのであります。
と言うことで、この続きは、次回と言うことで。 KAI
痛快であります。
米国ファンのみなさんには申し訳ないけれど、14回目のグランドスラム優勝を目指すセリーナ・ウィリアムズを、6-2、6-3のストレートで破ってグランドスラム全米初優勝であります。
朝から生中継をずっと観ていたのですが、ナブラチロワの試合前予想を大きく外して、ストーサーの圧勝であります。
もちろん女子は、ビリヤードの方ですが、この傾向はテニスにおいても顕著なんであります。
今年ウィンブルドン女子優勝のクビトバのストロークを見れば、男子のそれとほとんど変わらない。決勝戦の相手のシャラポアの「大女」がラケットを野球のバットのように振るスタイルとも、エナンのようなシャープな(古い男子のスタイルの)テニスとも違う、まさに男子のテニスを見ているような気になるのであります。
このスタイルのメリットは「安定」であります。
スピードに対してボールコントロールがきき、つまらないミスをしなくなるから、ゲームを見てても面白い。こう言うゲームの勝ち方を、真の「勝利」と言うんであります。
(希望は思わぬ処からやってくる)
なぜあいかわらずシャラポアと同じテニスのウィリアムズがすべてストレート勝ちで決勝まで勝ち上がったのか、このほうが不思議ではありますが、完璧なボールコントロールのストーサーにまったく「歯が立たない」のでありました。
これはストロークだけではないのであります。ストーサーのセカンドサービス。バンビジャンプ状のスピンサーブにウィリアムズ、おもわずのけぞりながらリターンしてネット。
これは、間違いなく男子テニスの中で鍛えられているのであります。
思うに、女子だからと言って、こう言うテニスができない理由はないのであります。その社会の中にいれば自然と鍛えられ、レベルを上げることができるのであります。
なんだか、社会全体のレベルを落としまくっている日本社会への、おおいなる教訓となる勝利であると、KAIは思うのであります。 KAI
3.11から、はや半年。
つくづくこの国の指導者も役人も、バカばっかりだと、確信するのであります。
なんで、今回の被災者の心情が、いの一番にくみ取れないのか。
いまNHKスペシャルをやっているのでありますが、このタイトルどおり、すべての被災者は「追い詰められている」のであります。
こんな中で、東電が値上げを画策していると言う。
恥を知れ、と言うしかないのであります。
東京電力の資産の実態などを調べる政府の経営・財務調査委員会(委員長・下河辺和彦弁護士)の6日の会合で、同社の電気料金の原価を過去10年分調べた結果、見積額が実績を常に上回り続けている項目があったことが報告された。調査委は、電気料金を必要以上に押し上げていた可能性があるとみて詳細を調べる。
調べたのは、家庭向けの電気料金を算定する際の「総括原価方式」。人件費や燃料費、修繕費など1年間にかかると想定する原価に、必要な利益を上乗せして料金を決める方法だ。
下河辺委員長は会合後の記者会見で、「見積もったコストより実際はかかっていないものが多い。10年間分を累積すれば、(その差は)看過できないものになっている」と指摘。原価算定が妥当だったかを、さらに検証する考えを示した。
(東電の料金、高めに原価設定か 経営・財務調査委が指摘)
自民党も、値上げなどもってのほか。サービス低下に対応して値下げできない限り、選挙では誰も投票しない。いや、投票しては絶対いけないのであります。逆に、いま値下げの世論を主導することこそ、自民党が唯一生き残る道と心得るべしなんであります。
そして、肝心要の、復興。
言葉にならない怒りがこみ上げてくる。
いま、なぜ後藤新平のようなリーダーが、いないのか。
直近のリーダーらしいリーダーと言えば、小泉純一郎。
いまのいま、このリーダー不在を考える上で、小泉竹中批判の構造が、これをよく説明するのであります。
小泉竹中批判を繰り返す奴輩を、KAIは「盗人に追い銭」であると定義するのでありますが、小泉竹中改革による利益を享受(泥棒)しておきながら、格差の被害者のごとき批判者と言う立場の利益(追い銭)を貪るのであります。
これをメディアを含めて社会が容認する。こんな正義もひったくれもない社会では、自己犠牲してまでリーダーになろうと考える人間など、現れるわけないのであります。
しかし、これではただの「感情論」。この問題の本質にせまる必要があるのであります。
そもそもにおいて、「リーダー」とはなんぞや。
結論を言ってしまえば、「リーダー」とは、自分の夢ではなく他人の夢を叶えることのできる人間をリーダーと呼ぶのであります。
ですから、たとえ二人だけでも、相棒の夢をひたすら叶えることに没頭できる人間は、二人の中でこの一人の人間をリーダーと呼ぶのであります。
この観点に立てば、なぜいまのいま、日本にリーダーが不在か、もののみごとに説明が付くのであります。
それは、小泉竹中批判と言う「盗人に追い銭」社会であり、リーダーがかなえる夢という利益を「盗み」、これを糊塗するための「追い銭」批判をくりかえす。まったくもって、名誉と尊敬と忠誠のかけらもない、そんな社会を私たちは生み出してしまったのであります。
すなわち、ことの真相は、こうであります。
実際は、そこらじゅうに他人の夢を実現するために奔走する「リーダー」は、山のようにいるのであります。これをひたすら名誉ではなく中傷し、「リーダー」を消し去ることに明け暮れているのが、いまのいま私たち日本の社会なのであります。
もういいかげんにしませんか。
私たちの夢を叶えると言う人間こそ、「リーダー」なんであります。こんな人、身の回りにいっぱいいるじゃありませんか。なぜこんな人たちにあなたは名誉と尊敬と忠誠を誓わないのでしょうか。
こんな「リーダー」を選んで押し上げるのは、リーダー自身ではなく、自分の夢を実現してくれるあなた自身であることに、もういいかげん気づいて欲しい。
「リーダー」こそが、あなたの夢を実現してくれることに、もういいかげん気づいて欲しい。
「リーダー」が叶えてくれた利益を、もういいかげん「盗む」のはやめにして欲しい。
こう考えれば、いまのいま、真の「リーダー」が、誰であるのか。議論の余地はないのであります。
この人物を「リーダー」として選ぶ、担ぐ。これしか、ないのと違いますか? KAI
いまの世の中、表面的なところを見ていると、毎日いろんなことが起こっているように思いがちでありますが、根本のところの動きはそんな複雑でもなんでもないのであります。
いわゆる「大気」の流れでありまして、これを意識することが、「大望」「大志」となって「大気」の流れを変えていくのであります。
考えていただきたいのは、世の流れと言うものは、世の中に沢山の人がいて、この複数の人たちが一緒になって世の中を動かしているかのように、ほとんどの方々は信じているのでありますが、はたしてそうでありましょうか。
いまこの文章をお読みいただいているみなさんは、一人一人で見れば、たった一人の脳の中の世界で起きている事象にすぎないことにお気づきいただきたいのであります。
同様に、いまや、iPhone、iPadが世界を席巻しているのでありますが、元はといえば、スティーブジョブズと言う、たった一人の脳の中でスパークした出来事が発端であったと言う事実は、今回の問題を考える上できわめて重要なポイントとなるのであります。
前置きが長くなりましたが、このGoogleのエリック・シュミットの発言が、これを端的に示しているのであります。
モバイルファースト
シュミット氏 次世代のリーダーはおそらく、モバイル、ローカル、ソーシャルに関わるところから登場するのだと思います。
PCの歴史を振り返ってみると、70年代の半ばにXeroxのPARCで生まれ、もう35年から40年たっています。このプラットフォームでできることはもうやり尽くされてしまったのではないでしょうか。
一方で新しいプラットフォームが登場しています。モバイルです。わたしはいま「モバイルファースト」というメッセージを押し出しています。
というのも、トッププログラマはいまモバイルアプリケーションを優先的に開発しています。これまで、モバイルアプリケーションはあまり興味を引かない分野でした。
しかしいま、モバイルはデベロッパーにとってもっとも面白いプラットフォームになっています。そこにはロケーション、リアルタイム、プレゼンスといった要素があるからです。
モバイルは次世代のプログラマやベンダががこぞって参加するプラットフォームになり、次世代のスタートアップはこのうえに登場するでしょう。
(「スティーブ・ジョブズ氏の功績とモバイルファースト」 エリック・シュミット氏とマーク・ベニオフ氏の対談(後編))
それでは、この「モバイルファースト」の意味とは。
それは、アプリケーションの進化そのものの帰結であり、この進化がオープンプリンシプルにしたがっているまぎれもない証明なんであります。
■CPU+メモリー+ストレージ+通信
これは最適環境のパラメタです。
この4つのパラメタの性能の違いによってその時代の最適環境が生成され、そこに最適解であるアプリケーションが産まれるという概念です。また時間を見て詳説します。 KAI
(最適環境とは−昨日のエントリーの補足)
そして、この最適環境自体が、より人間に近づいてきたのであります。
コンピュータの創世記の時代。コンピュータは神殿のように鎮座し、人はここに詣でて拝礼する。これがPCになり、ネットで繋がってもなお、遠くまで詣でることはなくなったものの、小さな神殿への拝礼は、いまなお続いているのであります。
これを決定的に変えるに至るのが、iPhoneの登場であります。
これはフォンではなくコンピューターであることに、いいかげん気づいて欲しい。
パソコンが何の役にたつかといわれながら世界中を席巻したあと、いまやっとパソコンの後継者が現れた。それはアイフォン。みなフォンを買い求めているのではないことに、いいかげん気づいて欲しい。もちろんスマートフォンでも、まったくありません。
いま表参道に並んだ人たちが求めているのは、間違いなく「モバイルコンピュータ」です。
そうむかし、行列を作って買い求めたパソコンとWindows95と寸分たがわず同じです。
行列を作っている人々は、誰もフォンを買うために並んではいません。みなコンピュータを買うために並んでいるのです。まったく新しいコンピュータ、モバイルコンピュータ。
ザ・モバイル、人々が求めているのは「モバイル」なのです。
(iPhone3G考(2))
では、なぜGoogleはハードウェア会社を買収する必要があったのか。
このヒントこそシュミットの「モバイルファースト」と言う言葉。つまり、モバイルのハードウェア技術者の獲得であります。このハードウェア技術者が、「モバイル」と言う最適環境を作ることができるのであります。
Googleは、モバイルアプリケーションの最適環境自体を、アプリケーションに最適化したものとして再構築に着手したのであります。
そしてこの成果をアンドロイド陣営に無償で供与するわけであります。
マイクロソフトがかつてやったこととは何が違うのか。これは一目瞭然、ご説明するまでもないのであります。
さて、Gmobileの登場を楽しみに待つとしましょう。 KAI
KAIに並ぶウチダウォッチャー、404BlogNotFoundのDanさんがなかなか面白いことを書いています。
ふむ。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
ハァ?
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」
あきれた。師は師でも詐欺師というやつだろ、これは。具体例を挙げて説明しよう。
あなたは、誰に教わって自転車に乗れるようになりましたか?
あなたは、誰かに自転車の乗り方を教えたことがありますか?
そうだとして、彼/女が自転車に乗れるようになったのはあなたのおかげですか?
(師は詐欺師の師)
自転車の乗り方を覚えるのは、社会教育と言う教育制度論の範疇。社会に、まわりの誰も自転車にのる人がいなければ、決して子どもが自転車にのることを覚えることはないのであります。
これに対するウチダ論は、社会の人たちや、学校教育と言う現場とは関係なく、つまり学校の生徒に限定されることなく、学習する者一般に通ずるお話であるのであります。
すなわちこれが、教育論における学習者(被教育者)論であるのでありますが、さてここで、このウチダ論は真っ当であるやいなや。
第一について。KAIは、これは「無知の自覚」ではなく、「好奇心」以外の何者でもないと考えているのであります。
第二。師とは、KAI的には「教育者」であるのでありますが、「あ、この人が私の師だ」と言う直感の本質は、この師自身にとてつもない「好奇心」を感じて、この人についていったらめちゃくちゃ面白いところに自分を連れて行ってくれる、と言う期待感をおいて他にないのであります。
第三こそ、KAIの真骨頂、オープンであります。教育者と被教育者との関係とは、決して一方通行でもなんでもないのであります。教育者にとっても、学習者の存在があっての教育者であり、教育とは共時的関係の中で行われるものなのであります。
ですから「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」と言うセンテンスを、KAI的に置き換えれば、こうなる。
先生、先生はなんでこんなに面白いんですか?この秘密を教えてくれるまで僕は家に帰りません。 KAI
2009年世界柔道。KAI_REPORTのエントリーを再掲するのであります。
既得権にメスを入れないと、なぜダメなのか。今回の世界柔道男子メダルなしが、端的にこれを示しています。
棟田康幸。男子100kg超級、3回戦。ドルシュパラム(モンゴル)に後ろから襟首を掴まれたまま倒れこんで受身ができず左腕を脱臼。そのまま痛々しい中、4回目の指導で反則負け。
穴井隆将。男子100kg級、準々決勝でエルマル・ガシモフ(アゼルバイジャン)に隅落としで一本を取られる。隅落としなんて体のいい名前をつけているけれど、要するに力で振り回されて、これも柔道着を後ろから引っ張られて背中をつく。
二人とも、まるで柔道の型になっていない。しかし、いまやこれが世界柔道、「JUDO」の本質なのです。
(中略)
この持久力のために、後輩を肩に襟巻きのように横に担いで30分のマラソンを、オリンピックまで毎日繰り返す。尋常な努力ではないのであります。この彼の努力に、柔道界は、何を報いたか。よりにもよって石井を追い出してしまったのです。石井の無念が、手に取るようにわかります。しかし、神は見放さない。今回の世界柔道の結果こそ、日本柔道界と言う既得権者に対する「天誅」以外の何者でもありません。
いま柔道界が生き残るために、何ができるか。例えば石井慧を特別強化コーチに迎え入れるなんて、「既得権」からして、まったくあり得ないことであることは、簡単に理解できます。かように、「既得権」とは、強固にして堅牢なる存在であるのです。
この「既得権」を打ち破って、「柔道」を新しい「JUDO」に作り変えていくためには、あと何回かの世界選手権での惨めな敗退を繰り返すしかありません。
既得権者から見れば、「JUDO」は、正統である「柔道」の破壊者。しかし、「柔道」の進化形こそ「JUDO」です。棟田も穴井も、技を決められてもなお柔道着を強く引きつけ最後の最後までどんな体勢になっても切り返しの技を仕掛けてくる、型破りの「JUDO」に完敗したのです。「JUDO」にとっては「型破り」も「型」の一つ。これに「柔道」が対応できていない。
(世界柔道惨敗は既得権問題の象徴)
なんと、足取り禁止と言う「ルール変更」。
これでかろうじて、世界柔道2010年東京大会、100kg以下級で穴井隆将、無差別級の上川大樹以下金10個と、開催国の面目を保つことができたかにみえたのでありますが、実態はまるでそうではなかった。
2011年パリ世界大会は、日本柔道が2009年ロッテルダムの結果から、何一つ学ぶことができなかったことが、もののみごとに証明されたのであります。
2012年ロンドン五輪の前哨戦となる柔道の世界選手権が28日に6日間の幕を閉じた。日本代表は個人戦の男女7階級で昨年大会の8個(無差別級を含むと10個)から男子2、女子3の計5個の金メダルに終わり、来年の本番に向け、課題が見えた。
男子代表の篠原信一監督は重量級の惨敗で尻すぼみに終わった大会を振り返り、「重量級は厳しい。オレが出ようかと思ったくらいだ」と怒りの表情。女子代表の園田隆二監督は「4個はいけると思っていた。合格点には及ばない70点」と気を引き締める。世界選手権代表枠の「2」から五輪代表枠は「1」に絞られ、選手間の競争は今後激化を増していく。果たしてロンドン五輪で金メダル量産となるのか――。
(中略)
個人戦最終日の終了後、通路に篠原監督の激しい声が響き渡った。監督自ら「負けられない階級」と語る重量級。上村春樹が金メダルを獲得し、山下泰裕が一時代を築いた。斉藤仁が危機を救い、篠原、井上康生、鈴木桂治と引き継いだ系譜。北京五輪では石井慧が金メダルを獲得した。
ところが今大会の100キロ超級では、昨年の無差別級世界王者上川大樹(明大)がまさかの1回戦負け。昨年の100キロ級世界王者で男子唯一の世界ランク1位、穴井隆将(天理大職)も3回戦で散った。重量級2階級4選手はベスト8にさえ進出することはできなかった。メダル獲得どころか大惨敗だ。篠原監督の怒りの矛先は、覇気のないホープ・上川に向けられた。「なんでアイツはあんなに意識が低いんだ。腹立たしさがある。いつもヘラヘラしやがって」と吐き捨て、「もう強化したくないけど、そういうわけにはいかない。気持ちを入れかえるならトコトンやってやる」と奮起を促した。まな弟子・穴井に対しても同様だ。腰が引ける戦いに「ひと言で言えば、アイツはビビリ。なんではあんなビビリなんだ! 今回は自信を持てる稽古ができてなかった。これから徹底的にやりますよ」と鬼になることを宣言した。
目を光らせていたのは結果以上に、勝ちにいく姿勢であり、戦う気持ち。心技体で言う「心」の部分だ。実際、100キロ超級で3回戦敗退した鈴木桂治に対しては「金メダルをとらないとダメ、現状ではきつい」と話す一方、「意地は見せたし、気持ちは見える。現時点で持っている力を出しきった」と、おとがめはなかった。
■81キロ級代表は白紙 軽量級の活躍は収穫
怒りに震えた個人戦最終日。引き金となったのはその前々日、3日目の81キロ級にある。高松正裕(桐蔭学園高教)が初戦敗退、中井貴裕(流通経済大)は4回戦でなす術なく敗れた。「中井は技をかけない。いつかけるんだ! 勝つ姿勢を見せてくれ。高松もケガが多いなら使わない。出るだけじゃダメ。気持ちが見えないなら代える!」と篠原監督は今大会で初めてカミナリを落とした。そしてついに「情けない。ふがいない。81キロは見直したい。同じ負けるならもっと元気のいいヤツを使う」と代表を白紙に戻すことを明言。世界選手権の代表2人から五輪代表を1人に絞る方針を撤回した格好だ。
(中略)
ロンドン五輪まで残り11カ月。篠原監督は「最後は気持ち。そのためにも『これだけやったんだ』というこれまで以上に厳しいトレーニングが必要」と語り、園田監督も「これからも厳しくやります。金の確率を少しでも上げていきたい」と続ける。金メダルが義務づけられる柔道ニッポン。世界一の練習量で世界一強い「体」と「技」、そして「心」を鍛え上げる。
(世界柔道で見えたロンドン五輪への課題 重量級惨敗で激怒の篠原監督「最後は気持ち」)
どうすれば勝てるか、せっかく石井慧が教えてくれているにもかかわらず、日本柔道界は石井慧も「足取り」で金メダルをとったと、とんでもない勘違いをしているのであります。
「JUDO」の本質とは、何か。
しかし、「柔道」の進化形こそ「JUDO」です。棟田も穴井も、技を決められてもなお柔道着を強く引きつけ最後の最後までどんな体勢になっても切り返しの技を仕掛けてくる、型破りの「JUDO」に完敗したのです。「JUDO」にとっては「型破り」も「型」の一つ。
どの外国選手も「最後の最後までどんな体勢になっても切り返しの技を仕掛けてくる」から、この練習を積んできてない日本人選手には、技をかけにいくこと自体が自殺行為に思えてくるのであります。
上川や穴井の試合を見ていても、この彼らの気持ちが丸見え。真剣勝負、こんな情況で勝てるわけないのであります。
これを石井慧、智恵と持久力で克服した。
その「智恵」とは、石井ちゃんタイムと言う、きわめて冷静な観察であります。
その一つは、レスリングや相撲の技を次々と取り入れているヨーロッパの「JUDO」対策です。それは一本による勝利ではなく、ポイントによる勝利と同義です。ポイントで勝っても勝ちは勝ちです。ヨーロッパの選手は、寝技に入る前のところからでも投げを打ってくるように、どんな体勢でも技を仕掛ける練習を積み重ねています。組み手ではなく、相撲のとったりのように足を取りに行く練習を、何度も何度も繰り返している。
これに対抗するには、同じ技を石井から早め早めに仕掛けていく。しかし決して技をかけない。すると相手は受けるしかなく、やがて「指導」をとられる。わずか1ポイント。これが後半に効いてくる。
そのまま二つ目の特訓に繋がる話です。石井は、5分の試合時間に、ヨーロッパの選手が3分たって急にパワーが落ちることに気づきました。それなら自分は5分パワーを維持できれば、試合に勝てる。試合開始から3分後「石井ちゃんタイム」のスタートです。この時間に技を掛けに行く。すでに指導で1ポイントリードされている相手は、更に苦しくなる。まさに、1ポイントでも勝ちは勝ちの勝利です。
(ものごとの本質を理解すれば君は勝てる)
しかし、ここでもっとも重要なのが「持久力」。
この持久力のために、後輩を肩に襟巻きのように横に担いで30分のマラソンを、オリンピックまで毎日繰り返す。尋常な努力ではないのであります。
別に上川や穴井の「練習量」が、不足していると申し上げているのではないのであります。おそらく、人一倍の練習をこなしてはいることは、まず間違いないのであります。
問題は、その中身であります。
この中身を理解するために、「足取り禁止」と言うルール変更で何が起きたのか、まずはこれを理解する必要があるのであります。
そもそも「足取り」とは何か。と言うか、レスリングのタックルと何が違うのか。
もちろんやってることは同じでありますが、柔道では「足取り」は数ある「型」の内の、一つの「型」。これに対してレスリングのタックルは、「型」以前の基本中の基本の「技」。
ですから、レスリングで最初からのタックル禁止なんていったら試合にならない。
ここがポイントなんであります。
すなわち日本「柔道」では、「足取り禁止」によって「型」が減ったと考え、「JUDO」ではそうは考えなかったのであります。
確かに東京大会では、これで金メダルを取るには取れた。けれども、これは単に「JUDO」側の対応が間に合わなかっただけのことで、実は「足取り」にかわるあらたな「型」が次々と開発されていったのであります。
ただこれが「柔道」ではまさに型破りとして、「型」と認識しないから、対応できない。まさに免疫をもたないウィルスとの戦いのようなものであります。
実は、この「免疫」となるのが、石井慧の編み出した「後輩を肩に襟巻きのように横に担いで30分のマラソン」だったのであります。
この練習、こんな、カッコつきのひとことで言えるような簡単な代物ではないのであります。
70キロ前後の体重を30分間走りながら支えてバランスを取る。想像を絶する練習なんでありますが、この30分間70キロの体重こそ、外国選手が繰り出す「JUDO」と言う型破りの「型」となるのであります。
これがあるから、実戦の5分間の組み手は、こわくもなんともない。逆に面白いように自分から仕掛けていくことができるのであります。
これこそ、本来の正統「柔道」の進化形。
ただ単に、この種類の「型」の練習が、できていないだけのこと。
日本柔道惨敗の本質は、まさにここにあるのであります。
とは言えしかし、石井慧を追い出すような日本柔道界が、これを受け入れ自ら改革に乗り出すなどとは期待できるはずもなく、何年もの惨敗を繰り返して「精神論」ではもはやたちうちできないことを思い知る以外には、打つ手はないとしか思えないのであります。 KAI