宇宙と生命。いま、この二つは共時性に満ちあふれているのであります。
これはアゴラの井上雅彦氏の記事(生命誕生は「まず器ありき」か)で教えていただいたのでありますが、なんとも感動の発見であります。
◆何を発見したか
ショスタックらは、細胞として最低限備わるべき要素として、「境界」「情報」「触媒」の三つをあげた。細胞には外界から内部を守る細胞膜(境界)の内側に、細胞の個性を記述する遺伝子(情報)が存在し、さらに内部にある酵素(触媒)反応系が細胞を維持する代謝を行い、細胞分裂により増殖し次世代へと生命をつなぐ活動を維持している。すなわち、これら三要素を持ち合わせる物質を人工的に作り出し、情報の自己複製と境界の事故生産のダイナミクスが連携すれば、その物質はもはや単なる物質ではなく、生命と呼んでもよいのではないか、というのが、ショスタックらの主張である。またこのような存在を作り出すことは、生命誕生の謎を解き明かす大きな鍵となり得る。
菅原グループはすでに、細胞の「境界」となるベシクル(マイクロメートルサイズの袋状分子集合体)が膜構成分子の原料となる分子を外部から加えると、ベシクルがその分子を内部に取り込み、触媒の作用で膜分子へと変換し、肥大し分裂することで自らの数を増やす、「自己生産するベシクルモデル」の構築に成功していた。あとは、このモデルに、いかに情報複製系を持たせるかが課題であった。本研究においては、1)単純な熱サイクルでDNAを増幅できるPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)に着目し、この増幅反応を効率的に行えるように最適化した「自己生産するベシクル」内部で、情報物質に見立てたDNA(塩基対1229個からなる)を増殖させた。2)ついで、ベシクル自己生産に必要な養分となる分子を外部から与えることで、ベシクルを肥大・分裂させた。さらに、この細胞分裂に似た形態変化で生まれた新しいベシクルの内部に、元のベシクルと同じ情報物質(DNA)が分配されることを見出した。
さらに、この過程を注意深く観察すると、DNAの複製がうまく行われたベシクルほど、その後の自己生産が効率的に進行することがわかった。この事実は、「生存に適した個体ほど、より多く子孫を後世に残すことができる」という、自然淘汰の原理を示すものである。このたび構築した人工細胞モデルは、我々が生命体とよぶものと比較して、はるかに単純なモデル系ではあるが、このような振る舞いを示したことは驚きである。この事実は、生命と非生命の境界にあるような原始的な細胞においても、生存競争があったことを想像させる。
(世界初の有機合成物質による“自らが増殖する人工細胞”の構築に成功)
このメカニズムの、原初の発現と駆動が、すべて物理法則のみによって支配されていることが、見事に証明されたのであります。
もちろん、DNAと言う情報系そのものがいかに発現したのか、このメカニズムの発見もまた強く待たれるのでありますが、これもやはり物理法則に支配されているに違いないと想像するのであります。
かくして、生命創造の意志とはすなわち宇宙の意志の賜物であったことは間違いないのであります。
そして、ここに共通するキーワードが、「意味ある偶然」、「シンクロニシティ」、「大気」、「オープンプリンシプル」であります。
私たちの世界は、宇宙から心の世界まで、これらに満ち満ちているのであります。
そして、この知見の重要性は、これにとどまらないのであります。
それは、フェイスブックにとっても居酒屋にとっても、「地の利」はあくまで「偶然」の産物にすぎなかったと言うこと。ただこれを「意味あるもの」として膨らませることができる人たちと、これに気が付かないまままったく反対の選択をする人たちと、たった二つに別れるだけであります。そして世の中は、後者の人たちが圧倒的に多いのであります。
(フェイスブックが覚醒したとき)
AKB48については僕が優れているわけではありません。偶然です。アイドルの総選挙やじゃんけんは、たかだか次のシングルのセンターを決めるだけのイベントなのに、まだ誰も見たことがなかったから面白がった。他のグループもやっていたらAKB48の総選挙やじゃんけん自体は面白いものではないと思います。
(日本のコンテンツはなぜ海外で勝てないか――AKB48生みの親、秋元康氏が語る)
経済問題も、しかりであります。経済現象とは、大いなる偶然の産物以外の何者でもないのであります。
■ 日本経済の問題は、
■ 価格下落でなく所得下落しばしば、「デフレが日本経済の問題だ」とされる。そこで「デフレ」とされているのは、財やサービスの価格の低下のことである。
しかし、仮に所得が下落せずに価格だけが下がるのであれば、実質所得は増加するから、なんら問題とする必要がない。むしろ、それは望ましいことである。
問題は、上で見たように、所得が下がったことなのである。
つまり、デフレ(財・サービス価格の継続的下落)が問題なのではなく、所得の低下が問題なのである(実際、すべての財・サービスの価格が下落しているわけではない。下落しているのは主として工業製品価格であり、多くのサービス価格は上昇している)。
所得下落をもたらすメカニズムも、しばしば言われる「デフレスパイラル」(製品価格が下がるので、賃金を下げざるをえなくなる)ではない。もしそうであるなら、価格下落が激しい分野の賃金がより大きく下落するはずである。
しかし、実体は逆になっている。1990年から2008年の期間において、保健医療の消費者物価指数は18%上昇している。それにもかかわらず、すでに見たように、医療・介護分野の賃金下落は激しい。
(日本経済の活性化に高生産性サービス業が不可欠)
これについては、KAI_REPORTでも何度も取り上げてきた。
マスメディアを含めた世間は、恐らくこのデフレの意味を「言葉」としては理解していても、それが実際に何が起きているのか、まるで分かっていないと思うし、事実デフレとは非常にわかりにくい。
つまり、デフレの反対のインフレは、モノの値段が高くなると言う「痛み」を伴うから、具体的な実感があるのに対して、デフレにはこの「痛み」がない。
これは一見、消費者には都合が良いように見えるけれど、事態はまったく逆。デフレで貨幣価値が上がっても、この貨幣自体の手取り、すなわち収入は逆にじりじりと下降する。手持ちの減ったお金でやりくりしなくてはいけないから、結果的に物価の下落の恩恵は減じられるか、あるいはまったく恩恵とはならないのであります。
これを人間の身体にあてはめれば、物価とは体温であり、収入とは血圧です。この体温も血圧も両方低下すると言う、身体にとって生命を維持できるかどうかの危機的状況にあると言うことであります。
先の衆院選挙の前から、この傾向は顕著であり、いずれの政権にとっても最重要課題であったわけですが、この認識を著しく欠く民主党が政権を取った瞬間、運命は決したのであります。
とは言え、処方箋がないわけではないと、KAIは考えています。
人間の身体であれば、体温を上げようとすれば、まず血圧を上げるしかない。同様に消費者の収入を増やすことが、物価の下落に歯止めをかけることに繋がることになります。当然消費者の収入を増やすことは、その源泉である企業の収入を増やすことであり、これ以外に方法はありません。
(世間はなぜデフレの恐怖が理解できないのか)
デフレ肯定論者の根拠が、物価安で実質賃金の上昇を言うけれど、この事態をなんと説明するのでありましょうか。物価下落以上の賃金の下落は、生活破綻に直結しているのであります。しかも賃金の下落は、平均値です。人数的に圧倒的多数を占めるのは平均値以下の給与生活者であり、その影響は計り知れないことが、デフレ肯定論者には理解できていません。
これは、もう少し分かりやすく言うと、賃金の下落は当の本人にとって平均値ではなく絶対値の下落ですから、下がった分はそのまま収入が減ります。これに対して物価の下落は平均値であって、身の回りの生活費がすべて下がるわけではありません。例えば家計の多くを占める家賃であるとか生命保険料はそのままでは下がることはありません。
(デフレ肯定論者に鉄槌を打て)
この闇の中にあって、灯台がはなつ閃光のような明晰さでこの経済と言う「偶然」の意味を発信し続けるのが、池尾和人教授であります。
グローバル・インバランスの拡大によってもたらされた2002-07年の間の拡張局面を除くと、日本経済は、この20年間にわたって停滞を続けていることになる。こうした長期低迷の根本には、従来型の日本の経済システムが内的、外的変化に適合的なものでなくなっていることがあると考えられる。
キャッチアップ型成長段階の終焉(内的変化)
日本経済は、明治維新以来100年超の時間をかけて欧米先進国に「追いつき追い越せ」型の経済成長を遂げてきた。そして、ついに1970年代のいずれかの時点でキャッチアップ段階を完了し、1980年代には先進国化する。持続的経済成長をもたらすものは、生産性の向上につながるイノベーションである。ただし、少なくともイノベーションには、leading-edge(最先端的)innovationとimplementation innovation(模倣)との2タイプがある。後者の効果は、その国の技術水準が世界の最先端のそれから遅れている度合いが大きいほど、大きいといえる(後発性利益)。しかし、そうした遅れがなくなれば、当然その効果もなくなる。
したがって、開発段階においては、模倣による効果が大きいので、それに注力するような態勢をとることが成長戦略として有効であり、実際にわが国は、そうした態勢に適した経済システムを構築してきた。ところが、先進国化した後は、効果の大きな最先端的イノベーションが起こる頻度を高めるような態勢に変えなければ、成長を続けることはできなくなる。
この点での態勢変換(例えば、初等中等教育の普及から高等教育の拡充への重点シフトなど)を、日本は十分に実現できていない。
冷戦の終わりと大競争時代の始まり(外的変化)
1989年のベルリンの壁の崩壊以降、東欧・ロシアの市場経済への移行や中国の開放政策などの結果、市場経済への参加人口は、それまでの約10億人から、約40億人に一挙に拡大した。新規に供給に加わった労働力は、教育レベルも高く、優良なものでありながら、その賃金水準は、日本の数分の1から数十分の1に過ぎない。日本経済は、他の先進国のみならず、これら新興経済(emerging economies)とも競争していかなければならなくなった。とくに地理的に隣接した中国が「世界の工場」として台頭してきたことは、それまでのフルセット型の産業構造(とりわけ国内市場向けの製造業)の存立基盤を失わせるものになった。
したがって、先進国は、知識集約型産業やサービス産業に産業構造をシフトさせていく必要がある。しかし、わが国は、そうした産業構造の転換を十分に実現できておらず、むしろ旧来型の産業構造を何とかして維持しようとした政策対応がとられてきたといえる。
長期的取引関係や企業特殊的な熟練のような文脈的技能を重視する経済システムのあり方が、産業調整コストを非常に大きなものとしてきたがゆえだという面がある。
部分最適化の限界
日本の法人企業部門は、環境変化への対応を怠ってきたわけではない。個々の企業のレベルでは、環境変化への対応を進めてきた。そうした企業部門の調整は、もっぱら単位労働コストの引き下げのために、正規従業員の(新規)雇用を抑制して、パートタイマーや派遣社員などの非正規従業員で代替するという形をとった。そのために、中高年層の雇用は比較的維持されたものの、若年層の失業率が上昇した。また、魅力ある雇用機会が乏しくなったことから、フリーターの増大等の現象がみられるようになった。若年層に対して就労を通じる技能形成の機会が十分に与えられないことは、日本の次世代の人的資本の質の劣化につながりかねないものであって、懸念されるべき事態である。
また、輸出型の製造業は、高機能製品を主力とする路線をとったが、北米市場の規模が縮小するとともに、そうした路線については見直しを余儀なくされている。アジアのボリュームゾーン向けの低価格商品を生産するために、海外企業との提携を含めて、再び生産の海外移転の動きが拡大している。
システム転換に向けた制度的枠組みの見直し等の政策対応を欠いたままでの、個別主体による(部分)最適化は、必ずしも全体最適をもたらすものではなく、むしろ様々な歪みを招来しかねないものである(coordination failure)。
経済システムの再構築
社会システムの形成は、無数の主体の行動が合成された結果としての自生的秩序形成(spontaneous ordering)の働きと理性的制度設計の試みを通じて達成される。理性的制度設計(構成主義<constructivism>の意ではなく、合理的なルールの設計)の不足が、現在の日本にとってボトルネックとなっている。
(レガシー・システム化−−池尾和人)
他方、財政危機からの「脱却」の方策は、論理上、
(1)高い経済成長率の実現
(2)低金利の継続
(3)外国政府や国際機関による支援
(4)財政再建(歳出削減と増税)
(5)貨幣発行益の増大
(6)デフォルト(広義で、様々な形態を含む)
の6つにしかない(Niall Ferguson(pdfファイル)による)。もっとも、わが国の場合には、(3)は選択肢にはならないと考えられる。
それで言いたかったのは、(誰も痛みなしで済みそうな感じがあるので)上記の(1)を推奨する人が多いけれども、実は(1)は(2)とセットでなければ有効ではないということである。すなわち、たとえ成長率を高めることに成功しても、同時に利子率も上昇するならば、対GDP比でみた公的債務残高の減少にはつながらない可能性が大きい。
(中略)
しかし、かりに経済成長率の上昇に伴い、多少のプライマリーバランスの改善が見られたとしても、利子率も上昇し、上の関係式の右辺第1項の効果が第2項のそれを凌駕し続けるならば、公債残高の対GDPはむしろ上昇し続けることになる。わが国の場合には、すでに(公的債務残高/GDP)の値がかなり大きなものとなっているので、この可能性は小さなものではない。この意味で、経済成長はそれ自体として重要であるが、財政健全化の十分条件であるかのように考えるのは正しくない。
金利規制が存在していた金融自由化以前の時期には、「利子率<成長率」となる傾向がみられたけれども、金融自由化以降は、「利子率>成長率」となる傾向が支配的である。換言すると、(1)高い経済成長率の実現と(2)低金利の継続の両立は、(金利規制のような)追加的な政策手段がなければ、難しいのかもしれない(この点は、また別の機会に論じたい)。だとすると、(4)により真剣に取り組むか、さもなくば(5)や(6)がより現実味を増すということになるしかない。
(公的債務、経済成長、金利の関係)
残された選択肢は、(6)がありえないとするならば(5)。すなわち、貨幣発行益の増大しかないのであります。
これに反対する方々の理論的根拠の大半が、国債国内市中ベースの消化能力毀損シグナル問題でありますが、いまのユーロ存続危機こそ絶好のタイミングとしか言いようがないのであります。
国債の毀損問題とは、すなわちそれはそのまま円の信認問題であり、戦後最大の円高局面のいまをおいて、これ以上の円大量増刷の機会はあり得ないと認識するべきなのであります。
いえ、これこそが私たちに神が与えてくれた唯一無二、最大のチャンスと、この「偶然」の意味をとらえるべきものであり、いまこそが「行動」のときなのであります。
こう考えると、TPP問題がいかに滑稽な議論であるか、極めてクリアに見えてくるのであります。
TPP問題の本質は、経済圏問題。ユーロ経済圏の危機を目の当たりにして、何を血迷っているのかともうしあげるしかないのであります。
ギリシャがユーロ経済圏を離れて、通貨が自由になれば、すべての問題が解決するにもかかわらず、これができないのはTPPが行き着く先と同じであることが、なぜ理解できないのでありましょうか。
この点においてポンドを存続させているイギリスこそ賢明であり、日本はこの賢明さに学ぶべき大なりなんであります。
かように、経済と言う「大気」の流れだけをみても、この「偶然」になんの意味をみいだし、それにもとづくいかなる「行動」ができるか。
ここに宇宙と生命の中で、生きることの本質があるのであります。 KAI
実に興味深いインタビュー記事がありましたので、ご紹介するのであります。
と言って、ご紹介するまえに前振りであります。
自分たちがやっているビジネスについて、なぜこれがうまくいっているのか、意外とこれを当人たちは理解していないのであります。
例えば、いまKAIが住んでいる不動前駅周辺は、まことに暮らしやすい、理想的空間であるわけでありますが、この不動前駅のすぐ近くに、もう何年か前に居酒屋が開店したのであります。
ちょうど同じ頃、20年以上通い続けた駅のすぐちかくにあった「もつ八」と言うもつ焼き屋が、狂牛病問題を契機に閉店し、替わりに通うお店を探していたときであったのであります。
開店してまもなくのお店ののれんをくぐって店に入ると、満席。
こういったときのお店側の対応いかんが、またの来店を左右するのでありますが、KAIの経験上、もっともダメな対応であったわけであります。
それからまた何年かして、毎朝の散歩道にあるこのお店の前に張り紙があった。
目黒駅と不動前駅の中間に引っ越しました、と。
たしかに繁盛していて、3階建ての鉄筋モルタルで、こどももいる店主の住居兼用では狭すぎたようであります。
しかし、KAIは思った。なんと愚かな。
引っ越すべきは、お店ではなく、店主の住居じゃないかと。
先月、自宅のポストに、お金をかけたカラーの葉書のポスティングがあった。
あの、居酒屋でありました。
思ったとおりであります。
あのまま、いまも住み続ける場所にお店を構えていれば、こんなポスティング(しかもお金をかけた)する必要などさらさらなかったのでありますが、あの満席のとき、客を追い返す対応からして、当然の結末であったのであります。
あのとき、繁盛していたのは、ただ地の利だけ。
これを勘違いしたのであります。
ずいぶん前振りが長くなりましたが、フェイスブックであります。
ソーシャルデザインという言葉は聞き慣れないかもしれません。フェイスブックの写真機能でその例を説明しましょう。
フェイスブックの写真投稿機能は5年前にできました。当時、エンジニアの数も限られていて、どの機能を実装すべきか慎重になっていました。既に様々な写真投稿サイトはありましたしね。そこで友達をタグ付けする機能を搭載したんです。
結果から言えば、どの機能よりもタグ付けの機能が重要だったことが後から分かりました。ほんの数カ月で数ある写真サイトの中で一番に躍り出ました。これが我々にとってのインスピレーションになりました。「これが人を中心に考えるということか」とね。
(我々はソーシャルデザインを頑なに守り続ける ダン・ローズ副社長にインタビュー)
この偶然とは、「意味ある偶然」、すなわちシンクロニシティであります。
フェイスブックにとっての、写真投稿機能であります。
この写真にタグ付けすることで、自分たちがやっているビジネスの本質が、いったいなんであるのか。これに気づくきっかけを、彼らは得るのであります。
ソーシャルデザインの肝、「これが人を中心に考えるということか」と言うことに、彼らは目覚めることができたのであります。
この「人を中心」とは、ネットにあふれかえるあらゆる情報に、人の名前というインデックスをはればいいと言うことであったのであります。
すなわち、これを「人間関係」と言うのであります。
この「人間関係」について、すでにここで何度も言及しているのでありますが、この一部を再掲するのであります。
これを読んでいただければ、グリーの山岸くんの存在が、グリーの急成長と高収益構造を支えていると言う事実が、きわめてクリアにご納得いただけるのであります。
ひるがえって、ミクシィ。ミクシィには、山岸くんに相当する人材がいなかった。
ただそれだけなのであります。
さて、ではどうするか。
これを考える上で、任天堂の宮本茂、この人物の存在こぞ、これからのSNSの世界を占う上できわめて大きなヒントを与えてくれるのであります。
1977年に金沢美術工芸大学を卒業。専攻は工業デザインだった。同年、小さい頃から玩具に興味を持っていたため、当時トランプを柱とし色々とやっていた玩具会社の任天堂に興味を持つ。デザイナー枠で任天堂は募集していなかったが、宮本の父は当時の任天堂社長山内溥と友人だったこともあり、面接の場を得て工業デザイナーとして入社する。
(宮本茂、Wikipedia)
山内溥と親父繋がりと言うことこそ、今回のキーポイントなのであります。SNSとは、いったいなんであるのか。「人間関係」以外の何ものでもないのであります。
SNSを運営する会社に必要なことは、この「人間関係」とはいったいなんであるのか、この本質を理解する人間がいるかどうかであります。
任天堂で言えば山内溥が言い続けたように、所詮「花札屋」にすぎないことを決して忘れてはいけないのであり、これを宮本は、外さなかっただけであります。
え?任天堂はSNSじゃない?
いえいえ、みなさん、トランプ、花札、一人でやりますか?
たまたま手段がゲームであっただけで、この会社の本質は「人間関係」、すなわちSNSであるのであります。
「人間関係」の手段が「ゲーム」であるのか、YouTubeの「動画」であるのか、Facebookの「寮の部屋」?!であるのか、この基本的な認識なくして、SNSは成り立たないのであります。
(がんばれミクシィ!)
不動前駅のすぐ近くにあったころ、近所の住民はもちろん利用していたと思われるけれど、中心は会社帰りのサラリーマン。駅の近くでちょっとやって、それで電車に乗って帰宅する。こんな彼らが、駅から離れた場所に移転した店に行くはずがないのは、すこし頭を使えばすぐわかること。しかし、繁盛しているときはこれがわからない。
フェイスブックは、これに気づいて、ミクシィは気が付かない。
これとは、すなわち自分たちにとっての「地の利」とはなんであるかであります。
「人間関係」を抽象的にとらえるからわからなくなるのであります。
この場合、「人間関係」とは、居酒屋にとっては「駅」であり、フェイスブックにとっては「名前」であります。
フェイスブックをご利用の方は、もうお気づきでしょう。フェイスブックとはこの知った人の「名前」の発見がすべてなんであります。
居酒屋にとって、たまたまこの駅へのルートに立ち寄るお店がなかった。単に「駅」つながりにすぎなかったと言うこと。
そして、この知見の重要性は、これにとどまらないのであります。
それは、フェイスブックにとっても居酒屋にとっても、「地の利」はあくまで「偶然」の産物にすぎなかったと言うこと。ただこれを「意味あるもの」として膨らませることができる人たちと、これに気が付かないまままったく反対の選択をする人たちと、たった二つに別れるだけであります。そして世の中は、後者の人たちが圧倒的に多いのであります。
「ソーシャル」なんてカタカナで書くからわからなくなる。「社会」でいいのであります。
「名前社会」がフェイスブック。「駅前社会」が件の居酒屋。「ゲーム社会」がグリーとDeNA。ではミクシィは?
「掲示板社会」。 KAI
まことに腹立たしい限りでありますが、村木元局長の国家賠償訴訟で国側は、約3770万円の請求を認諾したと言う。
冤罪被害者にとって、国家賠償の金額の多寡は2次的な問題であるかもしれないが、164日の不当勾留で3770万円に対し、6395日の刑務所暮らしの賠償金が8000万円では、余りにも差が有りすぎる。年金も当てにできない菅谷さんと今後の活躍が期待される村木さんとの差を考えると尚更である。
(「法の下での平等」は何処に?−冤罪事件の国家賠償と、琴光喜事件判決での疑問)
すなわち、村木裁判とは村木個人の裁判のようでいてそうではなく、実質が厚労省と言う組織相手の裁判であったと言うことであります。ですからこれは役所同士の戦いであったわけであり、つまり国という内輪の中の揉め事に負けた側の手打ち金と、3770万円は評価するべきものなんであります。
そもそもにおいて、これが冤罪事件ということ自体がきわめて疑わしいのであります。
すなわち今回は、弁護側のシナリオ通りの判決であり、そのシナリオとは、公判における検察の挙証根拠となる供述調書の全面否定による無罪獲得であります。
しかし、公判で翻した係長の証言どおり、係長の単独犯行とすれば、係長と凛の会の直接の接点が示されなければならないし、たとえ接点があったとしても係長にとって公文書偽造は間違いなくクビがとぶ重大犯罪。しかも生涯を保証された中央官庁の係長と言う一公務員が、この程度の接点で自分の人生を棒に振るようなリスクをとったとはまったくもって考えられないのであります。
ゆえに、事実は検察側が描いた「絵」のとおりであると、KAIは思うのであります。
これは、この事件のできごとを時系列にならべたものですが、今回の弁護側のシナリオは、2009年2月の広告会社社長逮捕直後に練られたものに違いありません。(障害者団体向け割引郵便制度悪用事件、Wikipedia)
- 2009年2月 - 大阪地検特捜部が、広告会社の社長らを逮捕。
- 2009年4月 - 大阪地検特捜部が、大手家電量販店など広告主や凛の会の関係者を逮捕。
- 2009年5月 - 大阪地検特捜部が、厚生労働省元係長、郵便事業株式会社関係者を逮捕。
- 2009年6月14日 - 大阪地検特捜部が、村木厚子・厚生労働省雇用均等・児童家庭局長(不正当時社会・援護局障害保健福祉部企画課長)を逮捕。
- 2010年9月10日 - 村木に無罪判決。
このままいけば、凛の会、石井一、厚労省元部長、村木、係長すべてが手繰り寄せられる。そこで出た結論は、係長の単独犯行。例の押尾の「お前の面倒は一生おれがみる」であります。初犯ですから当然執行猶予。厚労省のいきのかかった組織で面倒見ればいいだけです。村木もともだおれなら、これができなくなるわけであります。
そこで打たれた手は二点だけ。
まず一点目。係長が逮捕されたとき、弁護士から「被疑者ノート」を差し入れるので、これに取り調べの内容を毎日記述する。そして最後に必ず「調書は作文」と入れること。これによって、公判で供述調書否認の根拠となる。
二点目。凛の会元秘書が石井一に接触した日付を、石井一のアリバイのある日に変更する。元秘書のスケジュールの記録なんて自由に改ざんできる。
この二点において、見事村木の上と下の接点が切れるのであります。
それにしても、検察は甘いと言わざるを得ません。
最初から組織防衛のため、係長が供述を翻すなんて、簡単に予想できたこと。石井一だって、はいそうですかなんて素直に認めるわけがない。
(甘い検察)
このことも含めて、この元係長の今を、どこかの週刊誌がスクープすれば、事の真相はたちどころに明らかになるのであります。
おまけ。こんなページもありました。
ここ1週間あまり、エントリーを書けなかったのには訳があるのであります。
原因は、今月から始まったWOWOWのマルチチャネル(チャンネル)化であります。
いままでもここで何度か書いてきたことでありますが、KAIは基本的にテレビは音を消して映像だけが流れる、環境映像と化しているのであります。
この無音状態が、KAIにとって最高の思索空間であり、常時同時併行的に複数の問題について考え続けることができる、もっとも理想的な「生活」環境としていたのであります。
ところがこれが、WOWOWのマルチチャネル化で、見事に打ち破られてしまった。
このマルチチャネル化とは、いままで一つのハイビジョンチャネルを3分割していたのを、3つのハイビジョンチャネル(プライム、ライブ、シネマ)が常時放送されるように変わったのであります。
マルチチャネル化以前、WOWOWにチャネルを合わせるのは観たい映画やドラマの時だけで、いつもはNHKの映像が流れていたのであります。これがなぜかいま、WOWOWシネマにとってかわった。
常時字幕付きの映画が放映されている。
大半が、すでに観たことのある映画であるのでありますが、これが実に面白い。ついつい見入ってしまうのであります。
いまもこれを観ているとこのエントリーを書けなくなってしまうから、チャネルをプライムに切り替えている。こちらは海外ものもすべて吹き替えであるから字幕が出ないのであります。
そうです、やっとこの字幕放送の呪縛から逃れて、このエントリーを書くことができたのであります。
たまにつまらない映画や邦画(つまり字幕のないの)もあるにはある。そんなときはなんとGyaoにまで観にいこうとするのでありますが、これはもう字幕中毒としか言いようがない。これから逃れられないのであります。
字幕を読むのと、考え続けることをくらべれば、はるかに前者の誘惑が大きくて、結果思考停止に陥ってしまうのでありました。まさに脳の怠惰であります。
しかし、これも半月がすぎ、この脳の怠惰との付き合い方が多少分かってきた。
それは「睡眠」であります。
いままで夕方仕事を終え、この頭の中を強制的にシャットダウンするのは、家に帰っての晩酌であったのであります。しかし頭の中にいろいろ考え事があるときは、なかなか寝付けないのであります。これがこの強制的シャットダウン以外でも、なんの問題もなく寝付けることを発見。
と言いますか、脳が怠惰になると、人間は簡単に眠ることができるんだとわかった。
そして十分寝た後目を覚まして見るつけっぱなしのWOWOWシネマの字幕が、文字ではなく映像と一体化していることに気づくのであります。もはや字幕としての意味をなさなくなるのであります。
なるほど、怠惰な脳には睡眠が一番。
やっとまた、思索の旅を続けられるのであります。 KAI
それは彼が、優れて偉大なる真の「教育者」であったからであります。
先生、先生はなんでこんなに面白いんですか?この秘密を教えてくれるまで僕は家に帰りません。
(教育論(2))
「利他の心」こそが子どもを幸せにする
著者は、国語の「授業名人」と呼ばれ、50年以上教育現場で仕事を続ける、教育界のカリスマにして、プロ中のプロ。74歳の現在も大学の教壇に立ち、全国の研究会、講演会に引っぱりだこです。
本書は、「不断に学びつつ幸福に生きるために、いちばん大切なものは何か」、「人を教える者に必須の条件とは何か」等、教育と生涯学習の根本・本質・原点を真正面から問い直す、著者渾身の一冊。
「正論を自信を持って断言できる」大人が絶滅寸前の昨今、著者が堂々と展開する背筋の伸びた正論には、読んでいて快さを感じます。
中でも、「良き人生観とは、利他の心に尽きる」と明確に定義し、「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る」と語る「よき人生観の確立を」の章は圧巻。長い人生経験に基づいた珠玉の言葉の数々は、我々が自らの足元を見つめなおすべきこの世相の中でこそ、いっそう輝くものでしょう。
(利他の教育実践哲学、小学館、野口芳宏、2010/7/20)
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
(スタンフォード講演録より、翻訳 市村佐登美)
伝説となったこのスピーチを始めとした数々のメッセージ、iPhone、iPadと言う製品だけではない、iOSアプリと言う巨大マーケットの創出、電子出版市場の再定義と、ジョブズは、私たち「学習者」の目の前で「奇術」がごとく次々と「与え」続けてきたのであります。
先生、先生はなんでこんなに面白いんですか?この秘密を教えてくれるまで僕は家に帰りません。
(教育論(2))
しかし、この秘密は、すでに彼は教えてくれていたのであります。
最後に、スタンフォード大学の卒業式でジョブズから贈られたスピーチより、一文を抜粋したい。
“その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。”..
(ジョブズが示してくれる巨大システムへの教訓 - 村井愛子)
「もうとっくの昔に知っている」
ジョブズは私たちに、「予知能力」と言うライトセイバー(心の剣)をとっくの昔から授けて、そしてこの使い方までを命をかけ伝授していたのでありました。 KAI
宇宙や量子論に興味のある学生諸君は、ぜひこの番組をNHKオンデマンドでご覧いただきたいのであります。
今、世界中の科学者たちが躍起になってその正体を追うものがある。「ダークエネルギー」。従来の物理法則では説明がつかない謎のエネルギーで、重力の反対に作用する、いわば「逆重力」。そのため宇宙は「加速膨張」している。従来の宇宙観を根底から覆したダークエネルギーの「世紀の発見」はどのようにして成し遂げられたのか。当事者への直接取材を通して、知られざる舞台裏に迫る。
(コズミックフロント、2011年9月13日放送、「ダーク エネルギー 発見!加速する宇宙」)
ことしのノーベル物理学賞の受賞者に、宇宙が加速度的に膨張していることを明らかにした、アメリカとオーストラリアの3人の研究者が選ばれました。
選ばれたのは、カリフォルニア大学バークレー校のソール・パールミュッター博士、オーストラリア国立大学のブライアン・シュミット博士、それにジョンズ・ホプキンス大学のアダム・リース博士の3人です。3人は、巨大な星が一生を終えるときに起こる超新星爆発の際の光を観測することで、宇宙が加速度的に膨張していることを明らかにしました。これによって、膨張を促している「暗黒エネルギー」と呼ばれる未知のエネルギーが宇宙のおよそ7割を占めていて、銀河や恒星といった物質は宇宙の一部でしかないことが分かりました。王立科学アカデミーは「3人の発見は、これまでの宇宙論を基礎から揺るがした。暗黒エネルギーが何なのかはいまも物理学最大の謎だ」と評価しています。 今回、ノーベル物理学賞の対象となった研究は「宇宙の膨張はいずれ止まる」とされてきたそれまでの考え方に変更を迫るものでした。宇宙は137億年前のビッグバンによって誕生し、その後、膨張を続けていることが分かっています。1990年代までは、この膨張は宇宙自体の質量による重力でいずれ止まるのではないかと考えられてきました。3人の研究者は、その証拠をつかむために超新星の明るさの観測を続け、宇宙が膨張するスピードが遅くなっていることを証明しようとしました。しかし、実際には予測よりも超新星が暗いという結果になり、遠ざかるスピードが増している。つまり、宇宙の膨張は遅くなるのではなく、逆に加速しているという結論になったということです。膨張が加速していけば、いずれ宇宙は冷えきってしまうと考えられています。ただ、宇宙の膨張を加速しているとされる暗黒エネルギーの正体は謎のままで、本当に今後も加速を続けるのか、さまざまな研究が進められています。
(ノーベル物理学賞 米・豪3人)
物差しとなるIa型(いちえーがた)と呼ばれる超新星爆発のスペクトルから、膨張速度を測定する。まずはこの90億光年昔(遠く)の超新星爆発を見つけることから観測はスタートするのであります。
この戦いを始めたのが、物理学者「パールミュッターチーム」でありましたが、この超新星がなかなか見つけられない。
対して挑戦を受けた天文学者「シュミットチーム」は、こちらは手の内。後発ながら次々と観測結果を積み上げていくのであります。
「パールミュッターチーム」が得た最初の結論は、減速膨張宇宙であったのであります。これは、少ないサンプルのうえに、スペクトルの誤差が予想以上に大きいものを無視した結論であったのであります。
これに対する「シュミットチーム」。豊富なサンプルから、加速膨張を確信するも、いまひとつ決め手に欠けるなかで起死回生の方法で誤差を取り除いたのが、今回の3人目の受賞者、アダム・リースであったのであります。
彼の結婚式前夜をはさんだ分析の結果、ついに彼は、誤差の原因となる「霞」を取り除く方法を発見するのであります。90億光年もの間の光の道にはさまざまな障害物、すなわち「霞」がかかっているのであります。リースは、これを「霞」のある、なしによる誤差の補正方法を編み出し、加速膨張の決定的結果を導き出すことに成功したのであります。
時を前後して、「パールミュッターチーム」も加速膨張であるとの見解に転じ、天文物理学会は膨張宇宙が加速度的であるとの公式見解を発表するに至るのであります。
さて、この加速膨張宇宙であります。
2011年のノーベル物理学賞の受賞が決まったオーストラリアのブライアン・シュミット(Brian Schmidt)氏(44)は、4日夜にスウェーデンの選考委員会から電話を受けた際、教え子の大学生たちによる、よくできたいたずらだと思ったことを明かした。
受賞の知らせから一夜明けた5日、シュミット氏は、「初めは『うちの学生たちもやるな。アクセントなんて、まるでそれっぽいじゃないか』と思った」と語った。「まず女性が、わたしがブライアン・シュミットであることを確かめ、非常に重要な電話だと言った。それから電話をかわった選考委員が授賞の決定を読み上げ、祝福の言葉をもらった。最初の子どもが生まれた時のような気分だった。ひざから力が抜けるような感じがして、適当な言葉が見つからないが、ほとんど言葉が出なかった」
1998年に暗黒エネルギーによって宇宙が「加速膨張」していることを発見したことが授賞理由。共同研究者である米国のアダム・リース(Adam Riess)氏、別のチームで同じ研究をしていた米国のソール・パールマッター(Saul Perlmutter)氏との共同受賞になる。
豪ABCラジオに対しシュミット氏は、それまでの科学の定説を覆す発見だったが、画期的すぎて、自らの発見を疑ったと語った。「それが正しいなんてありえないと思った。我々は少々、怖さも感じていた」
自ら述べるようにそれは「寂莫(せきばく)たる」発見でもあった。地球が属する天の川銀河の周りの銀河が想像を絶するスピードで遠ざかっており、最後に人類は冷たく荒涼とした宇宙空間に取り残されるというシナリオだったからだ。5日の発表記者会見でシュミット氏は「今は宇宙を眺めれば、何十億もの銀河が見えるが、いつかは何もない宇宙しか見えなくなるということだ。今見えている銀河はすべて、われわれに光が届かないほど遠くへ離れてしまう。一方、わたしたちの銀河の星たちも徐々に衰えて死に、われわれは無数の星くずと暗黒宇宙の中に取り残される」
(「学生の冗談かと思った」、ノーベル物理学賞のシュミット氏)
なにが、こうかと申し上げるならば、加速膨張宇宙とは、<「寂莫(せきばく)たる」発見>でもなんでも決してないのであります。
コロンブス以前、水平線の先には大きな滝つぼがあると信じられていた。
そうです、水平線基準で丸い地球は、加速膨張の宇宙とまるで同じ存在なんであります。
水平線と言う「光速」から丸い地球の球面はいとも簡単に「光速」を超えていくのであります。
しかし、なにも変わらない。
これこそ、「特異点解消」なんであります。
すなわち、巨大リンゴであります。いけどもいけどもそこには始まりも終わりもない「丸い」宇宙しか存在しないのであります。
では、ダークエネルギーとは、なんであるのか。
KAI的には宇宙空間の「モーメント効果」であると、申し上げるのでありますが、さてこの正体とは。乞う次回なんであります。 KAI
KAIはこういった記事を読むと、心が救われる思いがするのであります。
(3)以上は「4億円」の借入についての被告人石川氏と被告人池田氏の弁明です。
両者の言い分は同じではありません。
むしろ矛盾しています。小沢氏から借入れた「4億円」は2004年分政治資金収支報告書に記載していると主張しているのが被告人石川氏で、当該「4億円」は「預り金」にすぎないから報告義務はないから、その返済を2007年分政治資金収支報告書に記載しなかったと主張しているのが被告人池田氏なのです。
被告人石川氏の弁明が真実で妥当だとなると、被告人池田氏は政治資金規正法上の不記載の罪に問われることになります。
他方、被告人池田氏の弁明が妥当だとなると、被告人石川氏は虚偽記載の罪に問われることになります。私は、この時点で、どちらかが有罪になると簡単に予想できたのです(それでも両者が無罪になる論理はありますが)。
(4)では、どちらの主張が妥当なのでしょうか?
まず、被告人石川氏の弁明は通用するのでしょうか?
その弁明は他の事実に矛盾します。
というのは、被告人石川氏は転借りした「4億円」を記載していないことを認めていますが、にもかかわらず、転借りした「4億円」は、検察の冒頭陳述で説明されているように2005年と2006年に2億円ずつ小沢氏を介して銀行に返還されており、2005年分と2006年分の政治資金収支報告書に返還の記載がなされているからです(当初の小沢氏から借入れた「4億円」が返還されたのは2007年です)。
借り入れのとき記載しなかった「4億円」について、返還では報告するのは、矛盾しています。
そうすると、2004年分の政治資金収支報告書に記載されている小沢氏からの4億円の借入は、検察側の主張するように銀行からの転借り分の「4億円」だという方が辻褄があいますので、当初小沢氏から借入れた「4億円」は記載されていないというのが、真実でしょう。
すでに紹介した被告人池田氏の陳述が被告人石川氏の弁明の嘘を暴いていることになります。
被告人石川氏は、小沢氏からの4億円の借入を報告していないことを自覚していたから、当初は罪を認めていたのでしょう。
(5)では、被告人池田氏の「預り金」の主張は通用するのでしょうか?
2004年10月に、小沢氏を介して銀行から「4億円」借り入れできたので、当初の小沢氏から借入れた「4億円」をすぐに返済したというのであれば、「預り金」の主張は理解できないわけではありません。
しかし、2004年に借入れた「4億円」もの大金を2007年に返還して、それでも「預り金」だと主張するのは、通用しませんし、通用させてはいけません。
すぐに返済しなかったのは、本件4億円がなければ陸山会の資金運営に支障が生じたからでしょう。
それなのに「預り金」という弁明が許されるのであれば、政治資金規正法は遵守しなくてもいい法律だ、ということになってしまいます。同法は真実の収支を報告させ、それを国民の不断の監視と批判に委ねているからです。
記載されなければ国民は適正な判断ができません。
(「陸山会」裁判の東京地裁判決について(3):土地取得をめぐる事件)
■4億円(小沢→陸山会→銀行)・・・(A)
4億円(陸山会→銀行)の部分は、客観的証拠の残る否定しようのない事実でありますから、4億円(小沢→陸山会)がウソの供述で、実際は4億円(銀行→陸山会)であったわけであります。
要するに池田が不記載とした4億円(B)と合わせた8億円の金の、真実の流れはこうだった。
■4億円(銀行→陸山会→銀行)・・・(A)
■4億円(小沢→陸山会→小沢)・・・(B)
では、石川はなぜ(A)の4億円を銀行からではなく小沢からの借入と主張する必要があったのでしょうか。
それは、銀行からの借入が(B)の4億円隠蔽のための偽装工作との検察主張に対して、隠蔽していません、ちゃんと記載しています、と主張するためでありましたが、これを銀行に実際にも返済して「墓穴」をほるにいたるのであります。
では、銀行からの借入を記載したと主張していたとすれば、どうなっていたか。
池田の主張するとおり、「預り金」と言うしかなかったわけでありますが、土地代金の支払が銀行からの借入金ではなくこの小沢からの4億円で実際に行われており、この支払でもって「預り金」に仕訳することは不可能であったわけであります。
かように、8億円もの巨額の金の流れがここまで明るみに出て、さて小沢裁判はいかなる弁明が可能なのでありましょうか。
元秘書による虚偽記載及び不記載への、小沢の関与。
この8億円のお金の出入れ自体に、すべて小沢自身が直接関わっている。最初の4億円も小沢自身が手渡しており、これを受け取った陸山会によるとする土地取引にも自身が署名している。銀行借入も小沢自身が行い、この返済にも利息の支払にも直接自身が関わる。
最初の4億円の、2007年小沢への返済も、当然のように現金で懐に入れているのであります。
これらすべてを政治資金収支報告書にいかなる記載あるいは不記載とするのかは、すべて元秘書の裁量範囲とするには、あまりにも無理筋なんであります。
それにしてもであります。
裁判の判決文に1行も目を通したわけでもないKAIが、こうまで小沢裁判の帰趨を見通せるのも、上掲のブログ記事のおかげであります。
これがブログのない時代には到底ありえないことであり、いまこれがありえていることが、とてつもないことと理解する必要があるのであります。
このことの本質は、もう少し別のところにあるのでありますが、これはまた次回に書くとするのであります。 KAI
いやはや、日本語のレベルも地に堕ちたものであります。
おみごと。私は琴奨菊の正直さに好感を抱いた。これに反して、もし安物の政治家や知識人どもであると、秘(ひそ)かに『四字熟語』級の安物の実用書をめくってめくって何か探し当て、いつも心がけていると言わんばかりに「座右の銘」と重々しく述べるところである。
その典型が野田佳彦首相の所信表明演説の中にあった。すなわち「正心誠意」ということばだ。
伝えられるところではこうである。原稿では「誠心誠意」であったのを、「正心」のほうがいいと言って自ら修正したという。
なぜそうしたのかと言えば、「正心誠意」は勝海舟の『氷川清話』の中にあり、歴史小説ファンの首相は、勝海舟が政治の要諦として語った「正心誠意」を取ったのだと諸報道は伝えている。おそらく所信表明演説下書きに関わった首相周辺からの説明であろう。
驚いた、私は。「正心誠意」ということばは、現代でもすこし漢文を学んだ者ならば、まして江戸・明治期ならば5歳の幼児でも知っていることばである。
すなわち、「正心誠意」は、四書の一つである『大学』のはじめあたりに出てくる超有名なことばなのである。
勝海舟はそれを引いたまで。そのころの人は「正心誠意」ということばを知っていたので、勝はわざわざ「『大学』に曰(いわ)く」などと出典を示す必要はなかった。読む側も「ああ、『大学』のことばね」と思いながら読んだのである。
(中略)
では、『大学』とは何なのか。儒教古典は大量なので、ここが分かればいいということで、四書が選び出された。『礼記』という古典から大学篇・中庸篇を抜き出し、『論語』『孟子』と併せて四書とした。学庸論孟とも略称し、この四篇の学習を必修とした。日本で言えば、平安時代のころである。
『大学』は政治の目的を「道徳的社会を作ること」とした。そこに至るためには、八項目(八条目)を連関づけながらしっかりと究めることとした。順を追って言えば、こうである。
国を治めようと思えば、まず家を斉(ととの)えよ。家を斉えようと思えば、身を修めよ。身を修めようと思えば、心を正せ。心を正そうと思えば、意思を誠実にせよ。意思を誠実にしようと思えば、知識を磨け。知識を磨くには、物の道理を感得せよ、と。
皆さん御承知の「治国・斉家・修身・正心・誠意・致知・格物」である。この「治国」の上が「天下平らか」。この「平天下」と併せて八条目。
国際社会(天下)に貢献しようと思えば日本国をきちんと治めよ(治国)。そのためには民主党内を秩序づけよ(斉家)。そのためには内閣に疑惑ある者(例えば山岡賢次氏)を入れるな(修身)。となって、そこから「正心誠意」が始まるのである。「正心誠意」だけを突出させても、それは『大学』の趣旨ではない。首相はもっとしっかり基本から学び直せ。(かじ のぶゆき)
(立命館大学教授・加地伸行 「正心誠意」を海舟作とした浅学)
日本と言う国を代表するリーダーからして、これであります。KAIが「バカ」国民と連呼するのも、これでご納得いただけるものと確信するのであります。
それにしても、なんでこうなってしまったのか。
もちろんこれはご説明するまでもないのであります。戦後の大間違いの、道徳価値を否定した勘違い民主主義教育の結末以外の何者でもないのであります。
もはや、この「道徳価値」の重要性を理解すらしようとしない人々で、この日本と言う国は埋め尽くされてしまったのであります。嘆息。
そもそも「道徳価値」とは、なんであるのか。
これを一言で言うと、「垂直価値」であります。
「垂直価値」とは、価値観の次元を超えた価値観、上の次元から下の次元まですべてのレイヤの価値観を縦断する価値観であります。
国を治めようと思えば、まず家を斉(ととの)えよ。家を斉えようと思えば、身を修めよ。身を修めようと思えば、心を正せ。心を正そうと思えば、意思を誠実にせよ。意思を誠実にしようと思えば、知識を磨け。知識を磨くには、物の道理を感得せよ、と。
これをご理解いただく格好の事例があるのであります。
大阪都構想「そのもの」について私は別に反対ではない。
大阪府と大阪市の二重行政を一元化しようという動きはすでに40年前からあり、前任者の太田府知事もその唱道者であった。
それが40年間はかばかしい成果を上げていないのは、大阪市がその権限と財源を府に委譲することによって、どのような「よきこと」が大阪の地に起るのか、その見通しがはっきりしなかったからだろう。
政策の適否はつねに計量的なものであって、「絶対に正しい政策」とか「絶対に間違った政策」というようなものはない。
(中略)
大阪都構想を単独の政策として議論することにはあまり意味がない。
どういう文脈の中にその政策を位置づけるかの方に意味がある。
構想がめざしているのは、大きな文脈の中で言えば、社会の「効率的再編」と「地域経済の活性化=需要の喚起」である。
「効率」と「成長」が端的に「よいもの」とされる時代においては適切な政策だったかも知れない。
それは東京府東京市が統合されて東京都に再編されたのが1943年の戦時下すなわち、中枢的で効率的な上意下達システムが何よりも求められていた状況においてであったという歴史的事実からも推察される。
けれども、高度成長期からバブル崩壊まで、「効率と成長が端的によいものとされた時代」においてさえ、この「効率と成長」を求める政策は採択されなかった。
どのような事情があったかはつまびらかにしないが、「二重行政」の非効率よりも優先されるべき「何か」があったというふうに考えるのが合理的である。
大阪都構想では、この「何か」を「既得権益」と同定している。
この指摘はその通りであるが、「既得権益」の受益者は別にごく一部の「ワルモノ」(悪代官や越後屋)であるわけではない。
しばしば既得権益、すなわち非効率なシステムの受益者は住民自身である。
役場や出張所が狭い地域にいくつも点在しているのは管理コスト上は非効率であるが、住民にとっては利便性が高い。
(中略)
「社会システムが非効率的であり、経済活動が停滞して、市民が自己利益の追求に専念できないこと」を危機と考えるか、「市民が砂粒化し、自己利益の追求を優先して、公共システムが空洞化すること」を危機とみるか、その違いである。
リスク評価の適否は未来予測に依存するから、ここでいくら議論しても、どちらが正解であるか、結論は出ない。
私が経験的に知っているのは、「ハイリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものと、「ローリスク」を想定したが未来予測が外れたせいで失うものは、「桁が違う」ということである。
そのことを私たちは福島原発事故で骨身にしみて学習したのではないのか。
(効率とリスクヘッジについて)
大阪市の問題は、水道局の問題であります。
大阪市と大阪府がそれぞれまったく独立して水道局と言う水道事業を行っているのであります。
ウチダ先生は、個人的な大阪市長との繋がりからまったくもって目が曇っているとしかいいようがないのでありますが、これを「二重行政」とは決して言わないのであります。
「役場や出張所が狭い地域にいくつも点在している」なら、それはそれでまったくもって問題ないのであります。
そうではなく、大阪市の水道は、大阪府の水道から完全に切り離され、大阪市民(府民も)はとんでもない高額の水道代を毎月払っているのであります。
これを大阪に本社のある産経さえも、報道しない。コワイからであります。
ですから、橋下が市長になって水道局を解体するだけで、府民、市民あわせて年間数百億の税金が節約されるのであります。
これこそ「正心誠意」なんであります。
みなさん、そうは思いませんか? KAI