KAIは昨年の9月、ここでこんなことを書いたのであります。
それにしても、この話で何が問題かと言えば、官僚。決して「責任を取らなくていい」からこんなことができる。
モデルを恣意的に操作することは、誰でも簡単にできる。しかし、この結果に責任を伴うから、普通の人間はやらないし、やれない。
ところが、官僚にはこの責任を取らせるかっこうの存在がいる。閣僚であります。今回は、首相ですからもうこれは完璧なんであります。もちろん、官僚自身、これっぽっちもモデルなんか信用してはいないのであります。国家財政の危機に取り組んだと言うアリバイ作りさえ完璧なら、結果はもうどうでもよろしい。
なるほど、こう考えると、官僚に責任を取らせる唯一の方法、日本国の破綻。もうこれしかないのであります。
こう考えると、やっと民主党と言う政党の役割が見えてきた。日本と言う国の「破綻請負人」であります。官僚主権から国民主権への「民主的」移譲方法は、もはやこれしか残されてはいないのであります。
これなら、なんでこんなぼろぼろの民主党を国民が支持し続けるのか、まったくもって理解、納得できるのであります。
(破綻請負人と言う因果と週末テニス)
問題は日本の財政にあります。日本の税収は約41兆円ですが、そのうち半分以上の21兆5000億円ほどを国債関連の支出に充てている。中でも大きいのが国債の利子の支払いで、これが10兆円。つまりは税収の4分の1ほどを国債の利子の支払いに使っている。
この「税収のうち国債関連の支出に使っている割合」を世界各国とくらべると、日本はいま「国債危機」が問題視されている欧州のどの国よりも大きい。つまり日本政府の財政状況は世界で最悪なのです。
想像してみてください。いま日本国債の金利は世界で見ても非常に低いところに落ち着いていますが、もし上がったらどうなるか。
実は金利が1%上がるごとに、新たに10兆5000億円ほどの利子を支払わなくてはいけなくなるんです。そして2%上がると、たったの2%だが、それだけで利子(など国債関連)の支払いにかけるおカネが税収を超えてしまう。わかりやすくいえば、金利が2%上がると日本は倒産するんですよ。
そして、この負債を支払えなくなる状況が、いまから12ヵ月以内に起きると私は考えています。
(「日本は倒産する。国債を買うのはバカだ」『ヘイマン・アドバイザーズ』カイル・バス氏米国ヘッジファンドマネージャーの告白)
「想定外」
官僚の雇い主である国家が破綻するのであります。
いやしかし、デフォルトに至るにしろ一気に破綻するわけではないと、ふつうの人は考えているのであります。その前にギリシャやイタリアのようにいろいろと手を打つはずだと。
ところがどっこい、ギリシャやイタリアと違って、日本には打つ手はまったくもって残されてはいないのであります。まさに文字通り「お手上げ」なんであります。
え?なんで?
その答えを、カイル・バス氏が教えてくれている。
実は金利が1%上がるごとに、新たに10兆5000億円ほどの利子を支払わなくてはいけなくなるんです。そして2%上がると、たったの2%だが、それだけで利子(など国債関連)の支払いにかけるおカネが税収を超えてしまう。
この意味は、家計で考えれば一目瞭然。月収40万円のサラリーマン。給料が振り込まれた瞬間、一切が銀行の借入の返済と利息で引き落とされる。食費も水道光熱費も交通費も、使えるお金は、ゼロ。
この状態で、新たに借入を増やす(国債を発行する)ことも、給料を増額(増税)することもできないし、たとえ万が一それができたとして、出費を半減したとしても増え続ける金利には焼け石に水。
破産(デフォルト)しか道はないのであります。
しかし、この問題に、強い既視感を感じるのは、決してKAI一人ではないはず。
そうです。つい先日公表された、あの福島原発事故調査委員会の中間報告書であります。
なぜシビアアクシデントに対して「思考停止」であったのか。
国家破綻と言うシビアアクシデントなど、絶対に起こらない。と誰もがかんがえているのも原発事故と一緒。でも、起こってしまったらどうするのか。
絶対安全神話ならぬ絶対「無謬」神話にとりつかれた官僚にとって、あってはならないことであり、よって思考に及ぶ必要のないことなんでありますが、現実に起こってしまったら、どうするか。
国家再建であります。
これを考えるのが、すなわち「シビアアクシデント対策」であります。
ことが起こってからでは、もうどうにもこうにもならないことは、目の前の「フクシマ」でいやと言うほど「経験」したのではありませんか?え?日本国民のみなさん? KAI
私たちはいったいなにを食すればいいのか?
これは、このエントリーを書きかけた時の最初のタイトルであります。
あっちを見ても、こっちをむいても、なにを食べてはいけない、これもたべてはいけないばかりで、もう私たちはいったいなにを食べればいいのか。
例えば・・・
といろいろお話を書き綴っていたところで、こんな記事をみつけたのであります。
走れない理由は鉄分不足だった
ボランティアの一環として日本赤十字社の献血バスを呼んで選手に献血させる。その代わりに血液データをもらう。――さしたる強化費用がかかるわけではありません。「健康管理や体のケアを選手は理屈ではわかっているけれど、なかなか実行に移してくれません。自分のこととして危機感を持っていないように見えます。でもそれが数字で現われれば、彼らは変わると思います」
岩出監督は私たちの提案を聞き入れてくれました。
「えーっ、これ、本当?」
初めての血液検査データが出た日。結果シートを手にしたスタッフ全員が驚きの声を上げたのを、まるで昨日のことのように覚えています。選手の中に重篤な貧血が見つかったから。
その選手は以前まで俊足で鳴らしていたのに、ここ数週間、驚くほど心肺機能が落ちていました。「やる気あんのか」「根性が足らない」
コーチ陣から度重なる指導を受けていた選手の走れない原因は、根性がないからではなく、実は存分に走るための血液、つまり体が準備できていなかったことにあった――これが事実だったわけです。
その選手はもともと生活面で不摂生を指摘され、煙草も吸っていたひとり。血液検査で指摘された「貧血」という衝撃的な現実を目の当たりにし、心を入れ替えることを決意。改善のために生活面だけでなく「体を作る食」にも目を向け始めたのです。
ここが、私やチームにとって大きなターニングポイントとなりました。
「質の高い練習を確実にこなす方法」「それに見合った体をいかに準備するか」「食でどう取り組むべきか」。――この時点から、チーム全体にそのような意識が浸透していきました。
(箱根駅伝・大学ラグビー「勝利」を導く「勝てる栄養管理」 ――東洋大駅伝チーム、帝京大ラグビー部を「変えた」手法を全部書く)
「成功の可視化」が食を信じる力につながる
アスリートの栄養管理は、ハードな練習で消費するエネルギーを正しい食事内容で補うコンディション管理と、「なりたい体」に近づくための積極的な栄養補給がカギになります。そのような「食トレ」(スポーツ現場の栄養管理)は、ウエイトトレーニングや技術練習と違い、すぐには結果が現れません。日の丸を背負うクラスのアスリートでさえ、一部は「食事なんて成績と無関係です」なんて言うくらい。
この取り組みを地道に続けた結果、帝京大は徐々に選手の体やコンディションに変化が起き、けが人が大幅に減少しました。ひとりが変わると、他の選手は「成功の可視化」が可能。
「やれば変われるんだ」「食に対する意識を変えれば強くなれる」と、食の力を信じるようになる。――食への取り組みが、「チーム文化」として根付いた瞬間です。私が3年前からサポートしている東洋大駅伝チームも、当然ですが、やはり一筋縄では行きません。選手たちとのさまざまな葛藤を経た後に、帝京大同様、食への取り組みを定着させたわけです。
3年前に就任した酒井俊幸監督が栄養管理を積極的に取り入れてから、けが人が前年度の半分に減少しました。「食べるから走れるのではない。走るための練習ができるようになる」――監督は看破しています。
つまり、東洋大も帝京大も、ハードな練習に耐えうる体を、食の力で作っているわけです。
(箱根駅伝・大学ラグビー「勝利」を導く「勝てる栄養管理」 ――東洋大駅伝チーム、帝京大ラグビー部を「変えた」手法を全部書く)
良い言葉ではありませんか。これですよ。これ。いま私たち現代人に必要なもの。
馬刺しはいかん、レバ刺しもだめ。粉ミルクは大丈夫か。いまの私たちの食生活の根本にある問題は、食への不信感であります。
つい先日もここでとりあげたのが、このお話であります。
今年の5月頃に糖尿病と診断されて6月より治療を始め、2ヶ月ほど治療薬を飲み、結果、身体の異常なダルさは取れましたが、それでも10年後に合併症が起きる率が先進国一で、産業医は言葉を濁す、元々の高血圧症で通っていた主治医からも上手く付き合うしかないと説明を受けたことで、これは自分で防衛せねばと他の治療法をネットなどで模索しておりました。
そして7月頃になり、主治医に薬をやめて欧米で主流の食事療法(高雄病院の糖質制限食や、地中海式食事療法)にすると宣言し、理論的にはあっているので無理はしないという約束で実行をしましたが、なかなか自分だけで徹底は難しいと感じた時に、たまたまこの本を書店で見つけたのでした。
分子生物学の理論を理解するためにこの本を3度、「病気の9割は自分で治せる」という医者の視点で書かれた本も1度読み、ネットでも分子生物学や、ノーベル賞受賞者のポーリング博士の分子矯正医学や、分子栄養学関係のサイトを色々閲覧しました。
そして、実際に高タンパク質、メガビタミン+活性酸素スカベンジャー食を8月より実践して、9月の健康診断は見事クリア(前回300mg→今回116mg:1999年までの基準140mg以下はクリア)。続いて掛かり付け
での11月の血液検査もHbA1cも大幅ダウン(前回6月12.9%→11月6.9%)と、卵や肉とマルチビタミン・サプリメント+野菜やそば茶、ゴマなどのスカベンジャーを多く摂取する以外は特に食事内容に気を使わず、運動も週1度か2度活性酸素が過剰に発生しないよう、気分転換に軽くウォーキングする程度にしただけなのに・・・。お酒も連日の深酒はしない程度で、果物や甘いものもよく食べていたのに・・・。
一体、今までの薬物治療は何だったのでしょうか?医師は大学でも栄養学をろくに勉強せず、臨床現場でも栄養士任せ。医食同源とはほど遠いのが現状です。その栄養士も三石先生曰く、古典栄養学しか学んでおりません。
ちなみに、「病気の9割は自分で治せる」という本では、医者の技術料が欧米の半分以下で、薬を処方しないと病院が赤字になるので、出さなくてもいい人に薬を出さざるを得ないのが現状だと批判をしておりました。しかし、先日流れが変わったなと思ったのが、テレビで板東英二さんがゆで卵を毎日最低3個は食べると言っており、それを聞いた糖尿病の専門医(順天堂の准教授)が、いくら食べようとコレステロール値で引っ掛からないのならば問題は無いと回答をしておりました。レシチンが多く含まれているからでしょう。
やっと時代が三石先生に追いついて来たのかもしれません。
(三石先生の理論を実践してみました!)
著者は、そもそも物理学者であり、還暦を機に医学に造詣を深めていったという。医者に見放された自身の病気の克服に、物理学者の頭脳が、現代医学とは違う接近法で立ち向かう。自身の体験に裏打ちされ、科学的、体系的に書かれたこの本は、素人の私にもわかりやすく、現代医療の問題点を喝破するとともに、きわめて具体的にわれわれの健康生活の指針となるものである。以下目次の一部を引用する。
○コレステロールは、本来健康の味方である。
○脂肪肝は酒をやめなくても治る。
○タバコと肺がんとの間に因果関係は無い。
○肉を食べない人は、脳卒中になりやすい。
○マーガリンとショートニングは健康の大敵
○卵はコレステロールの元というのはウソ
一見非常識な内容に思えるが、三石理論は、科学的、体系的に今までの健康常識のうそを論破していく。まさに目からうろこの健康科学、そして日常実践の書である。
(目からうろこの、健康科学理論書)
気になる記述であります。ためしに「ショートニング」でググってみたら、こんなことが書いてある。
ショートニング (shortening) は、主として植物油を原料とした、常温で半固形状(クリーム状)の、食用油脂である。マーガリンから水分と添加物を除いて純度の高い油脂にしたものと考えてよい。パンや焼き菓子の製造などにバターやラードの代用として利用される。無味無臭で、製菓に使用すると、さっくりと焼き上がる。揚げ油に使用すると、衣がパリッと仕上がる。この様に「さっくり」や「パリッ」という食感を表す意味での英語形容詞“short”が語源である。
(ショートニング、Wikipedia)
水素添加の処理時に脂肪酸が一部トランス化し、トランス脂肪酸が生成される。このトランス脂肪酸が心臓疾患・アレルギーを中心とする様々な健康被害を引き起こす可能性が指摘されている。詳しくはトランス脂肪酸を参照のこと。
アメリカそしてヨーロッパの大半の国が食品での使用に規制が設けられているが、日本においては食品に用いるにあたり法的規制が無い。
*欧米では、マーガリンを食べる=穏やかな自殺、とまで言われ規制されている
世間には知らされていない恐ろしい事実がもうひとつある。それは悪魔のオイル、ショートニングとマーガリンの正体である。これはラードの変わりに使われる常温で固形のオイルだが、これはトランス型という立体構造を持つ自然界に存在しない異常な油で、クッキーやパン、多くの菓子類のほとんどに原材料として使われています。このショートニングやマーガリンに含まれるトランス型脂肪酸は大腸炎やクローン病、その他まだ知られていない様々な疾患、各種アレルギーの元凶となることがわかっており、日本以外では禁止または制限されています。
分子構造がプラスティックと同じで常温で解けないことから、欧米では「プラスティックオイル」と呼ばれ敬遠されています。
(悪魔のオイル 「ショートニング」)
現在の「ショートニング」という名称は、パン、ビスケットなどの原料として使用した場合、その口あたりをよくし、もろさを与えるという意味の英語(shorten)からきています。
ショートニングには味がないためそのまま食べることはなく、その食品のおいしいさを引き出すための欠かせない存在として、焼き菓子やパンに練りこんで使われるのはもちろん、意外と知られていないアイスクリームやフライ用としての用途があります。常温における伸びのよさ、生地への混ざりやすさなどに優れていて、名前の意味のようにクッキーやビスケットなどはサクサク、ポロポロとした軽い食感を出すことができるため、お菓子作りには欠かせないものとなっています。
◆ ショートケーキの名前は? ◆
ショートケーキには、ショートニングを入れて焼いたケーキという意味があるそうです。ショートケーキの発祥はアメリカ。私たちの知っている柔らかで繊細なショートケーキとは違い、元祖ショートケーキは、なんとサクサク、ポロポロのビスケット生地に生クリームと苺を挟んで層状にしたケーキ(?)だったとか。その後、日本にやって来たショートケーキはビスケットを柔らかいスポンジケーキにアレンジされ、今の姿になったのだとか。あなたならサクサクとふわふわのショートケーキ、どっちがお好み?
(ショートニングとラードの基礎知識 - 日本マーガリン工業会)
いったいどうなっているのでありましょうか。
そんなときにであったのが、この言葉であります。
「食を信じる力」
そもそもにおいて、食とはいったい何なのか。
それは、生命の源泉であります。
この原点に立ち返ることこそ、私たちの食を考えるうえでの基本となるのであります。
なにもすべてを自然食品でないといけないと主張するつもりはないのであります。つもりはないのでありますが、人工物はもとより、ビールを飲まして脂漬けした牛やただ玉子をうむだけの鶏から、果たして私たちは、「生命の源」を得ることができるのでありましょうか?
あるいはまた、食品のエッセンスだけを抽出したものが、その食品の代替物たりえるのか。これまたはなはだ疑問と言わざるをえないのであります。
すなわち、キーワードは「生命力」であります。わたしたちが、いま口にするその食物からこれを感じ取れるかどうかに、そのすべてがかかっている。つまりはそう言うことなんであります。
思い出すのであります。年明けに数えで米寿を迎えられる丑年うまれの大恩人は、牛肉が大好き。
その昔、一緒に食事したときであります。
この牛肉はおいしいねえ。身体の芯からエネルギーが湧いてくる気がするよ、KAIくん。
「家政婦は見た」をもじった「家政婦のミタ」、今夜このドラマの最終回であります。
この脚本家、遊川和彦が、ついにこのヒットの秘密を明らかにした。
それは、3.11にその秘密があったのであります。
この春、人気番組の名前をもじった題名だけが、最初決まった。
しかし、どんなストーリーを思い浮かべても、直前に起こったこの大震災。この人々の慟哭を超えるドラマなど作りようがない。そう考えた遊川に、たった一つのことが思い浮かんだ。
笑顔の封印
理不尽にも突然家族を失ってしまった人々の慟哭。
たとえ、いかなる近しい友人であったとしても、この哀しみを同じにすることはできないのであります。
これこそ、ネタバレでありますが、同様に自分の夫と子どもを理不尽にも奪われたミタをしてしか体現できない、そう言うドラマであったわけであります。
なるほど、これは当然と言えば当然。
「自分自身」の問題と感じて初めて、人は共感できるのであります。
答えは自ずから知っていると、前回書いた。知っているにもかかわらず、世間の「普通」の人々はこれを引き出すことができないでいる。
例えば、プロジェクト。
なぜソフトウェアのプロジェクトというのはこれほど失敗するのだろう。調査によると、1994年のプロジェクトの成功率は16%、2009年でも32%。私がこの業界に入って気付いたのは、ソフトウェアのプロジェクトにまるでミサイルの打ち上げのように大きなお金と工数をつぎ込んで、そして爆発してしまう、ということ。
こうしたことがあちこちで起きている。
ほかの業界、例えば化学業界の人に、化学工場が爆発しないようにどうプロジェクトを進めているかを聞いたところ、プロジェクトには2種類あるという。将来が予測できるプロジェクトのプロセスと、予測できないプロジェクトのプロセスだ。
ソフトウェアの開発では、開発中に要件が変わるものである(つまり将来が予測できない)。しかし、なぜか要件が変わらない前提で作り始める。
これが失敗の原因であり、開発プロセスの大きな変化を必要としている。そこで、日本の製造業にデミング博士の論文が与えた影響や、シリコンバレーの起業家たちのチーム構成、ゼロックスの研究所やアラン・ケイ氏の研究、野中-竹内論文などを研究した。
(重要なテクノロジーは10名以下のチームで作られた 〜 Innovation Sprint 2011(後編))
誰も最初から失敗すると思って、プロジェクトをスタートするわけではない。にもかかわらず、なぜこうまで成功率が低いのか。この講演者のジェフ・サザーランドは、この原因を、予測できないものを予測できるかのように扱うことにあるとするのであります。そしてこれを、「スクラム」と呼ぶ手法を適用することで、解決できると言うのであります。
野中さんの論文によると、NASAはスペースシャトルの開発をウォーターフォール形式で行い、打ち上げまで10年かかった。
このように1つ1つのプロセスがサイロになり、そのあいだをドキュメントでつなごうとすると失敗する。
それを富士ゼロックスではオーバーラップさせ、ホンダではすべてをいちどにやろうとした。チームのメンバー全員がプロジェクトの内容を理解することが成功につながるということだ。
(重要なテクノロジーは10名以下のチームで作られた 〜 Innovation Sprint 2011(後編))
またしても重要な言葉が、ここにも登場するのであります。
チームのメンバー全員がプロジェクトの内容を理解することが成功につながる
ビジネスモデルを始めとしたあらゆるプロジェクトでは、常に予測できないことの連続であります。これにどう対処するかに、最初から正解はない。チームのメンバー一人一人が考えるしかないのであります。いま直面する問題がプロジェクトにとっていかなる意味を持つのか、当事者として自分自身の問題としてひたすら考える。このとき、チームのメンバー全員が、プロジェクトでいま何が起きているか、すべての情報を共有しプロジェクトの内容を理解する方法が、PCS。
詳しい説明はこちらのエントリーを見ていただくとして、サザーランド氏の手法はこれ。
もちろんプロジェクトの進捗に関するレポートは必要だ。スプリントのバックログのリストとバーンダウンチャートを使う。ガントチャートは先が読めないときにはほとんど意味がないので使わない。
「スプリントのバックログのリスト」とは、PCSのP項目。「バーンダウンチャート」の説明はこちらがわかりやすい。
まさにPCSの未解決項目をプロットすれば、このバーンダウンチャートになる。いつのまにか技法の話になってしまいましたが、ことの本質の話に戻って、話を整理すると、ポイントは一つ。
要するに、「自分自身の問題」であります。
「IT技術者に求めるのはユーザとしての経験」こそ、グーグルの技術者に決定的に欠けていることなんであります。
(2010年最後はグーグルが色褪せて見える週末テニス)
こちらは、プログラマの問題。
解くべき最良の問題は、自分が個人的に抱えている問題であると思える。
(オッカムの剃刀をビジネスモデルに適用する週末テニス)
こちらは、起業家の問題。「予知能力」の問題も、すべて一緒。
違いは、どのレベルで自分自身の問題とできるかどうかだけ。
自分自身の問題として身体をおくことにより、問題と身体が同化し、問題の本質が見えてくる。やがて、自ずと進むべき道も見えてくるのであります。
と言うことで、続きはまた次回に。 KAI
(成功の法則−−−自分自身の問題)
テクノロジーに創造性を溶けこませれるかどうかは他者に感情的に同調する能力に依存している。ジョブズは他人に怒りっぽく不親切だったということで、人々の中には、ジョブズは他人の感情への基本的な気づきに欠けていると考えた人もいる。
事実は、逆である。人を判断できたし、彼らの内心の考えがわかったし、おだてることもビビらせることも、隠れた弱みを攻めたり大喜びさせたり、いずれも思うままだった。気にいられる製品、やさしいインターフェース、誘惑的な広告メッセージをどう創ればいいかも、ジョブズは本能的に知っていたのだ。
(ジョブズの天才とはどのようなものであったか ---ビル・ゲイツ、アインシュタイン、フランクリンと徹底比較する---)
互いが感応しあう、そう言う環境以外には、うまくいかない。
たとえばFacebookも、果たしてそう言う環境にあるのか。はなはだ、これは疑問と言わざるを得ないのであります。 KAI
ディスチミア症候群とは、聞きなれない病名であります。
ディスチミア症候群と言われる病気が最近話題となっております。このディスチミア症候群とは、うつ病の1形態として扱われます。うつ病には2タイプあり、1つがメランコリー親和型うつ病、もうひとつがディスチミア親和型うつ病(ディスチミア症候群)です。
メランコリー親和型は、自責の念が強いのに対し、ディスチミア親和型は他罰感情が強く現れます。つまり、責任は自分にはなく、全部環境や他人のせいだという感情です。悪く言えば「わがまま」、「自己中心的」ということになります。
具体的な症状としては、会社ではうつ症状を呈しながら、プライベートでは海外旅行に出かけたり、飲み会に参加したりと元気ハツラツな状態になります。非常に不可解な病気であるため、気分変調症という意味のディスチミア症候群と呼ばれ、医学的にはうつ病ではないとされています。
メランコリー親和型うつ病は比較的年齢の高い中高年齢層によく見られるのに対し、ディスチミア親和型うつ病は若い青年層から多く見られるのが特徴です。
ディスチミア症候群の根本的な原因は、「幼少時から親に過保護に育てられ、自分らしさを抑圧されてきた『いい子』の自己コミュニケーション障害」とされています。本当の自分らしさを表現すること我慢し続けて来たために、その反動として自分の生き方の方向性を変えたいという心底の思いが噴き出してしまったということです。
ですから、ディスチミア症候群は、基本的に投薬治療で回復することはありません。自分らしさを認め、生き方を変え、環境も変えて心のバランスを取る必要があるのです。ディスチミア症候群を患っている人の関係者達は、その人がものを言いやすい環境を作ってあげることが大切です。
(ディスチミア症候群の症状と原因)
このことだけに限れば、皇室問題にはとんと興味はないのでありますが、この「他罰感情」と言う部分には大いに反応するのであります。
それは、まずこの記事をご覧いただきたいのであります。
「社長がいつ死んでも困らない会社にしないといけない」。
本連載第1回の書き出しです。社長の私が出社しなくても商売をしていける「社長不要の会社」を目指してあれこれ取り組んできました。
社長を不要にする、つまり社長の仕事を減らしていくカギの1つは情報システムです。ところが現実にはシステムをうまく使いこなすどころか、「動かないコンピュータ」があちこちで出現しております。
(中略)
困ったことに、企業側と開発側は情報システムについてそれぞれ意見を持っているものの接点が見当たりません。これが長年の問題です。企業側と開発側が同じ問題や悩みを同じ視点でとらえ、その解決手段として情報システムを提供する、そのような関係が結べればと思いますが実際にはなかなかです。
情報システムを使う企業側はしばしばこう言います。
「IT業界でしか通用しない専門用語がまかり通っている」「言われたことしか対応せず、提案がない」「欧米の手法をそのまま用いており、国内の実情と一致しない」。
これに対し、開発側はよくこう言います。
「経営トップがシステムを理解していない」「発注者がシステムの要件をまとめていない」「コンピューターに過度の期待がある」。
私は経営者として情報システムを使う企業側におりますが、あえて企業側の現状をもう少し考えてみようと思います。
企業側には経営者から現場の利用者まで、次のような「システムの幻想」があります。
- コンピューターは機械だから、自動的に処理してくれる
- 我々は客、開発者は業者だから、開発側で全部用意してくれる
- 業務が簡素化されるのだから、経費は減って当たり前
もう少し考えると、こうした幻想は日本の現状から出てきています。上記の幻想に対応させて列挙してみましょう。
- 日本の製造業は自動化によって評判を得た
- 誤解に基づく「お客様は神様」という風潮がまかり通っている
- 企業のビジネスモデルが陳腐化している
三番目について少し解説します。後述しますが、私が属している問屋の世界を見ますとビジネスモデルを見直さないともはややっていけません。おそらく他の業種業界も同じでしょう。
(社長が抱く「情報システムの幻想」)
ビジネスモデルを変え、その結果、「業務が簡素化され」「経費は減って当たり前」ということになる可能性はあります。それは企業側の努力によるものであって、情報システムの開発側に期待することではありません。
さらにハードルを上げているのは、完成品を当たり前のように求める姿勢です。これが日本のものづくりの高品質を生んでいるわけですが、情報システムにもすべてがまとまった姿を求めるので、開発側は外観や操作の互換性など機能以外の点にまで注意を払う必要があり、なかなか厄介です。
根本原因は「原因を他に求める」姿勢
システム幻想をもたらす日本の現状について説明しました。もう少し考えていきますと、より根本の原因を見出せます。
「楽に生きたい」「原因を他に求める」「分業による無理解」です。これらは動物の自己防衛本能でもあり、一筋縄では対処できません。
こうした姿勢が企業側にも開発側にも見られ、幻想の肥大と幻滅が起き、両者は歩み寄れません。
「分業による無理解」とは、官民に関わらず縦割りで業務が分担されており、自分の役割以外は誰かが補うだろうとの先入観があることです。
ある時、知り合いのSEから、顧客に関する悩みを聞かされました。「実在庫とシステムの在庫を合わせろ」という依頼が来て困っているそうです。
これはその顧客の在庫管理者の怠慢そのものです。無理難題と責任転嫁は、情報システムをもってしても、どうにもできません。やむを得ず、そのSEは「在庫が合わない理由を説明する資料」を情報システムで出力し、顧客に提出したそうです。
(社長が抱く「情報システムの幻想」)
完成品を当たり前のように求める姿勢
「原因を他に求める」姿勢
どう言うことかと申しあげれば、それは私たちが携わるコンピュータシステムの世界での一番の問題であり悩みなのであります。
ここでは「動かないコンピュータ」と書かれているのでありますが、私たちの「システム」はインターネットの「アプリケーションサービス」でありますから、もちろんすでに動いているのであります。しかしこれを導入し使い始めようとするときに、これがなかなかうまくいかない。
もちろん大半はうまくいくのでありますが、うまくいかない場合は、徹底してうまくいかない。
いくら導入して使うのは「ユーザー」自身なんですよと言っても、かたくなに聞く耳を持とうとしないのであります。
あげくのはてが「ディスチミア症候群」と化すのであります。
ここで、あらためて気づくのであります。なにかと申しあげれば、この「ディスチミア症候群」の原因には、いろいろと思い当たることがあるのであります。
ディスチミア症候群の根本的な原因は、「幼少時から親に過保護に育てられ、自分らしさを抑圧されてきた『いい子』の自己コミュニケーション障害」とされています。本当の自分らしさを表現すること我慢し続けて来たために、その反動として自分の生き方の方向性を変えたいという心底の思いが噴き出してしまったということです。
これを上記引用の「社長」の言葉で言い直すならば、いままでの「抑圧された自分らしさ」が「陳腐化したビジネスモデル」、これを変えるべき「本当の自分らしさの表現」が「本当のビジネスモデルに変える」となるのであります。
しかしこの「本当のビジネスモデル」は、「社長」が書いているとおり情報システム側にあるのではなく「企業側の努力」にしか存在しえない。
少なくとも、企業側の努力にあわせて開発側の「システム」が共同してこそ、実現可能となるものなのであります。
もちろん私たちの「システム」には、「本当のビジネスモデル」があるのであります。しかし、これはあくまで「システム」であります。企業自身が、現在の「陳腐化したビジネスモデル」から、「本当のビジネスモデル」に「変わる」努力をしない限り、なにも変わらない。
結局「原因を他に求める」姿勢と言う「ディスチミア症候群」を、企業はいつまでも続けることになるのであります。
では、この治療方法にはいかなる方法があるのでありましょうか?このヒントもまたさきほどの「ディスチミア症候群」の説明の中に見出すことができるのであります。
ですから、ディスチミア症候群は、基本的に投薬治療で回復することはありません。自分らしさを認め、生き方を変え、環境も変えて心のバランスを取る必要があるのです。ディスチミア症候群を患っている人の関係者達は、その人がものを言いやすい環境を作ってあげることが大切です。
「陳腐化したビジネスモデル」+「原因を他に求める」から、「本当のビジネスモデル」+「システムとのバランス」となるのであります。
実は、この議論は随分前ですが、ここで取り上げた問題なんであります。
男が好きになる女のタイプとかけて日本人の働き方と解く、その心はどちらもなかなか変わらない。
前回のヨッシーのパーティでひとしきり話題になったのが男が選ぶ女のタイプ。ヨッシーの彼女遍歴を知る友人一同声をそろえて言う。まったく一貫して同じタイプである。
「日本人は働き方にこだわる」とおっしゃるのは慶応義塾大学教授大岩元(はじめ)先生。
欧米の経営者たちは、自身の仕事はビジネスモデルの策定とその実現であると考えているようである。これに対して日本の経営者は、ビジネスモデルにはこだわらず、仕事の仕方で競争を勝ち抜こうとしている。したがって、従業員の働き方に対するこだわりを実現することが、経営者の一番大事な仕事であると考えているように思える。
情報技術は、ビジネスモデルで競争する欧米人が作り出したものである。彼らは働き方へのこだわりがないので、ビジネスに情報技術を持ちこんで、働き方が変わることにこだわりを持たない。(中略)働き方を変えたくない日本の経営者は、こうした作業が必要になっても、今まで通り部下にやらせる人がほとんどである。
(BCN、視点、大岩元、2007/06/11、p.9)つまり、
ビジネスモデル > ワークモデル(欧米型モデル)
ビジネスモデル < ワークモデル(日本型モデル)
と言うわけです。私たちが実施するASPサービスにおいても、日々このモデルの衝突を繰り返しています。
通販の現場を取り仕切っているのは大凡女性たちです。もめ事で現場の混乱を嫌う管理者は、この女性たちの声すなわち現行のワークモデルを決して変えようとはしません。結果カスタマイズの嵐となって元々のビジネスモデルなどとうに吹っ飛んでしまいます。
このワークモデルを人間関係と置き換えてもこの話はそのまま成り立ちます。
従来の人間関係のまま、私たちのASPサービスと言うビジネスモデルを導入すると、不思議な現象が起こります。
今までのシステムでは、システムを操作する現場の人間は単に情報の加工者と言う位置づけでした。この加工された情報が管理者に紙のレポートとしてあげられると言う流れで、管理者に情報が集中すると言うビジネスモデルでした。
ところがMVCモデルをベースとする私たちのシステムでは、システムを操作する現場の人間に直接情報を見せ、すべてこれによって判断するインターフェイスになっているため、管理者ではなく現場の人間に情報が集中する仕掛けになっています。
もちろん管理者であっても直接画面を操作することが前提ですので、単に管理者が直接画面を操作しさえすれば現場の人間以上の情報に接することができます。
しかし従来の人間関係のままであると、相変わらず紙のレポートが出るまで管理者には情報があがらず、実は管理者が一番情報に疎い存在となっているのです。しかもこれに現場の人間は気付いていても管理者には報告もしないし、当然管理者からこの事実に思い至ることもありません。(当然管理者もパソコンを操作はしますがあくまでEXCELで上がってきたレポートを加工するレベルではどうしようもありません)
日本人がこう言う人間関係と言うかワークモデルと言うかを変えられないのは、冒頭の男がいつも同じタイプの女を好きになってしまうのと同じレベルの、ある意味人間的な心の問題であるからです。
ですからビジネスモデルを変えるなら、組織構造もそれにあったフラットな構造に変える必要がありますが、トップダウンで断行しない限りこれもなかなか難しい。
かくしてモデルの衝突は延々と続くのでした。オワリ、マル。 KAI
(男が好きになる女のタイプと日本人の働き方の関係とは)
そうです。「陳腐化したビジネスモデル」とは、この日本人が大好きな「ワークモデル」のことだったのであります。
この「ワークモデル」のまま、「ビジネスモデル」としての「システム」導入が、「ディスチミア症候群」を生み出している元凶であります。
ですから、「本当のビジネスモデル」に合わせて「ワークモデル」を変えることができる企業は、システム導入がうまくいくし、あいかわらずの「ワークモデル」にこだわり、「カスタマイズの嵐」を繰り返す企業が、最後まで「他罰感情」をかかえたまま、「ワークモデル」偏重の迷路を彷徨うことになるのであります。 KAI
いや驚いた。
今一番に倹約しないといけない家計のときに、なんと言う大盤振る舞い。
気が狂っているとしか、言いようがない。
本日、国家公務員が対前年度比プラス4%のボーナス支給を受け取り、国会は閉幕となる。
野田民主党政権の支持母体である官公労は、公務員給与引き下げの人事院勧告実施を政府に無視させた上、国家公務員給与引き下げ法案も今国会で成立しなかったことで、公務員給与プラスのボーナスを実現した。官公労の完全勝利である。
これは、首相のボーナス30%自主返納で済まされる話ではない。民間調査では、民間のボーナスは前年比マイナスである。ある民間予測ではこの冬のボーナスは、民間企業は従業員1人当たりの支給額は3年連続のマイナスで37.8万円、国と地方の公務員1人当たりの支給額は増額の76.5万円となっている。
(国家公務員が対前年度比プラス4%のボーナス支給は官公労の完全勝利である)
被災地のみなさん、なんでこんなでたらめを許すんですか?
家計が苦しいときに、まず一番にすることはなにか?
100人にこれをきいて、100人がみなこう答える。
きりつめる
少なくとも人事院勧告は、それにそうものであったにもかかわらず、政府、役人は、これを一顧だにしようとしないのであります。
みなさん、これは、役人を敵にするしかないんじゃありませんか?
ええかげんにせえよ、であります。もうこれは、本気で戦うしかないのであります。 KAI
日曜だと言うのに、もう朝からティッシュの山であります。
あり得ないストーリー展開とのレビューが多いのでありますが、そもそもファンタジーとは「あり得ないストーリー」をファンタジーと呼ぶのであります。
その中でも、秀逸なレビューを見つけましたので、ご紹介するのであります。
ニューヨーク近郊の11歳のエヴァンは、両親が必ず迎えに来ると信じながら養護施設で暮らしていた。孤児院で育ったエヴァンには生まれつき類い希な音感を持つ豊かな音楽の才能が備わっていた。両親と自分は、心に聞こえてくる音を通じてつながっている。そう固く信じていたある日、不思議な音に導かれるように彼は施設を抜け出してしまった。たどり着いたマンハッタンで彼は、“ウィザード”と名乗る男にギターを習い、ストリート・ミュージシャンのグループと生活を共にしながら、両親探しの第一歩を歩み出す。そこでエヴァンは音楽の才能を開花させる。“僕が奏でるギターの音は、この世界のどこかにいる両親の耳にきっと届く”―その思いを胸に、街角で無心に演奏するエヴァン。同じころ、エヴァンは死んだと思っていた彼の母ライラ、そしてライラと結ばれることはなく一時は悲嘆にくれていた父ルイスも、音楽に導かれるかのように、それぞれの想いを胸に見えない運命の糸にたぐり寄せられるようにマンハッタンを目指していた。果たしてエヴァンは、彼ら両親に会い、愛を伝えるという夢をかなえることができるのだろうか?
天才的な音楽の才能を持つ孤児の少年エヴァン、彼と意図せず離れ離れとなってしまったチェリストの母ライラと、元ミュージシャンの父ルイス。それぞれがそれぞれの想いを抱きながら、運命の再会を果たすために奔走し、音楽によって両親との絆を取り戻す感動のファンタジードラマ。音楽が人に与えてくれる不思議な力と親子愛が、感動の涙を誘う。壮大な狂誌曲と共に訪れるラストシーンは純粋な感動を与えてくれる。監督は父ジム・シェリダンの監督作『イン・アメリカ/三つの小さな願いごと』で脚本を手掛けたカーステン・シェリダン。『ネバーランド』『チャーリーとチョコレート工場』の子役フレディ・ハイモアが主人公の少年をピュアな演技で好演。ギターを弾くシーンは音楽の楽しさを全身で表していて、観ている側も心が躍る。ライラ役のケリー・ラッセル、ルイス役のジョナサン・リース=マイヤーズもそれぞれ見事な演奏シーンを披露。少年を音楽の世界へと導く元ストリート・ミュージシャンをロビン・ウィリアムズが演じる。また、映画の第2の主役とも言うべきテーマ音楽を手がけたのは、名匠のマーク・マンシーナと、『ライオン・キング』でオスカーを受賞したハンス・ジマー。ヴァン・モリソンの「ムーンダンス」から、クラシック、ゴスペルまで、様々なジャンルがクロスオーバーする劇中曲の音楽監修として、ジェフリー・ポラック、ジュリア・マイケルズ、アナスターシャ・ブラウンの3人のスーパーバイザーが担当している。彼らが監修したナンバーで、ハーレムのインパクト・レパートリー・シアターが本作のために書き下ろした「Raise It Up」は、第80回アカデミー賞の主題歌賞にノミネートされた。
フレディ・ハイモアは、今度は、音楽のパワーを信じる心で夢をかなえていく少年の役に、健気な存在感を光らせる。誰からも理解されない悲しみを内に秘めた孤児だった彼が、人々との触れ合いを通じて自身の才能に目覚め、人間性を豊かにふくらませていく姿は、音が旋律となり、旋律が音楽になっていく音楽の出来上がる過程とよく似ている。そして、エヴァンの投げかけた単音が、母のライラ、父のルイスの魂と響きあい、家族というハーモニーに昇華していくドラマには、すがすがしい感動が満ちあふれている。
冒頭、現在と回想が輻輳し、複雑な映画と思いきや、すぐに先が読めてしまう。こんな出来すぎた現実は絶対にあり得ない。しかし、こうなるだろうと予想される結末にまんまとはまってしまい、余りにもきれいなハッピーエンドになっている。現実にない、まさに奇跡です。映画だからこれでいいと思える。ラストシーンが、最高潮にじわじわと涙を誘い、感動的な結末が待っている。その後のあの家族の未来は全く必要ない。陳腐な作品になってしまうだろう。知りたい気はするが。子供の親を求め慕う想い、親が子供を疑わない信念、その親子の見えない絆、それが音楽で繋がっているこの音はパパとママがくれた才能、そう思い彼は自分の居場所を知らせる様に音楽を愛しながら演奏をする。途中に出会う子供たちのつながりや音楽の才能を知り金儲けを企む人々、ロビン・ウィリアムズ演じる不思議な人間の登場が、親子の絆を取り戻す救世主のような存在になっている。裏切られたような表情をするが、実は愛をもって送り出す。あり得ない事だらけの展開で、心をキレイにしてくれる映画らしい映画。映画に敷かできない技。出来としては、無茶な設定や展開に秀逸とは言い難い。しかし、出来なんて、関係ない。観る側を和ませる、それで充分だ。
(あり得ない展開を超える感動のヒューマンドラマ(投稿者:豆腐)2009/5/9 21:43)
たまたま通りかかったトラックの側面広告「August Rush to the Beach」を見たロビン・ウィリアムズ演じるウィザード(魔術師の意味)に、オーガスト・ラッシュと名づけられた、エヴァン。オーガスト・ラッシュ(August Rush)は、この映画の原題でもあるのであります。ウィザードのところをトラブルをきっかけに飛び出したあと、めぐりめぐってジュリアード音楽院に入学。ここでオーガストことエヴァンが作曲したのが、オーガスト・ラプソディ。ラプソディ、すなわち狂詩曲であります。この曲がニューヨークフィルの演奏会のメインの楽曲に選ばれるのでありますが、このお話はのちほど。
このオーガスト・ラッシュとオーガスト・ラプソディ。この二つのキーワードこそ、このファンタジーの伏線に流れるもう一つの旋律を構成しているのであります。
それは、過去をたどること34年前、公開されたこの映画に始まるのであります。
そしてこの山の頂上で繰り広げられる、宇宙船との楽曲のような交信音(ラプソディ)。このあと光る宇宙船の中から現れたのが、わが息子バリーであった。
まさに、ラッシュとラプソディ。
一方の「August Rush」は、ジュリアード音楽院主催の野外コンサート会場、セントラルパーク・グレイトローンが目的地。ここに、母ライラ、父ルイス、ライラとエヴァンを結びつけたリチャード、一時ウィザードに連れ戻されたエヴァンがみな、ラッシュしてくる物語であります。そしてニューヨークフィル相手にエヴァンがタクトをふるラプソディこそ、宇宙との交信そのものであります。
これを、音楽の魔術師、ウィザードをして語らせるのであります。
音楽とは?
神の教えだ
“宇宙にはいろんなものがある”
“命あるもの同士
ハーモニーが大事だ”と
星とすらも・・・
宇宙には
色んな音色がある
自然が奏でる音
全宇宙の法則が支配する音
それらの複雑なハーモニー
全身で受け止めなきゃー
聴き取れない
音は心の耳で感じるものだ
あるいはまた、モールトエモーショナルとしての無音効果。
いずれもすべてがことごとく、心の中の、宇宙の中の、世界のできごと。
音とは、心の中でしか聴くことができない。つまりはそう言うことなんであります。
先日も、ある人と会食中に、こんな話を教えてもらったのであります。
人は、音人間と、映像人間と、二種類いる。
音人間は、耳で思考し、映像人間は、目で思考する。
KAIさんは、典型的な音人間ですね。
むかし、コンピュータの仕事をし始めのころのこと。
プログラムのロジックを考えるとき、いつもくりかえしつぶやいていた単語がある。
DISKが・・・DISKが・・・DISKが・・・
自己組織化・・・自己組織化・・・自己組織化・・・
ほら
聴こえる?
音楽だ
僕には聴こえる
風の中に
宙(そら)の中に
光の中に
音楽はそばにある
心を開けば聴こえてくる
心の耳を
澄ませば・・・
今週月曜日、2年前の選挙の次の日とはうってかわって、久しぶりの気持ちいい朝でありました。
日曜夜8時NHKのテロップを見て、うれしさのあまり、ついつい感情剥き出しのエントリーを書いてしまったのでありますが、それほどまでにメディアを含む既成勢力の卑劣なやりかたには腹に据えかねるものがあったのであります。
そしてまたぞろ出てくるのが、小泉、石原、橋下を並び立てての「ポピュリズム」批判であります。
もうどうでもよろしいのでありますが、せっかくの機会であります。少々この「ポピュリズム」について考察しておくのであります。
と、その前に、気になっていた上村元係長の裁判情報であります。
供述を翻して単独犯行と主張する上村元係長の裁判。この結果について、ネットを検索してもどこにも出てこないのが不思議であります。
(上村勉元係長が今なにをしているのかがすべてを語る)
2011.11.2 20:41 [刑事裁判]
厚生労働省元局長、村木厚子さん(55)の無罪が確定した郵便不正事件で、自称障害者団体「凛の会」に偽の公的証明書を発行したとして、有印公文書偽造・同行使などの罪に問われた厚労省元係長、上村(かみむら)勉被告(42)の論告求刑公判が2日、大阪地裁(中川博之裁判長)で開かれた。検察側は「安易に犯行に及び責任は重大だ」として懲役1年6月を求刑した。弁護側は上村被告宅から押収されたフロッピーディスク(FD)をめぐる大阪地検特捜部の押収資料改竄(かいざん)・犯人隠避事件を踏まえ、「手続きに重大な違法があった」と裁判の打ち切りを求め結審した。判決は来年1月23日に言い渡される。
(厚労省元係長の公判 弁護側が裁判打ち切り求め結審 検察側は懲役1年6月求刑)
これが1年近く延びたのは、おそらく審理中に検察側の情報開示かなにかで最高裁までいった関係と思われるのでありますが、ようやく来年1月23日に判決であります。
と言うことで、ポピュリズムであります。
この「ポピュリズム」と言う言葉ほど、無定見に使われている言葉はないのであります。
ポピュリズム(英: Populism)とは、ラテン語の「populus(民衆)」に由来し、民衆の利益が政治に反映されるべきという政治的立場を指す[1]。大衆主義。ノーラン・チャートによる定義では、個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても慎重ないし消極的な立場を採る政治理念を指し、権威主義や全体主義と同義[2]。個人的自由の拡大および経済的自由の拡大のどちらについても積極的な立場を採る政治理念である自由至上主義(リバタリアニズム)とは対極の概念[3]。
(ポピュリズム、Wikipedia)
続いて山口二郎的解釈。
政治に関して理性的に判断する知的な市民よりも、情緒や感情によって態度を決める大衆を重視し、その支持を求める手法あるいはそうした大衆の基盤に立つ運動をポピュリズムと呼ぶ。ポピュリズムは諸刃の剣である。庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある。しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かいうる。例えば、共産主義への恐怖を背景にした1950年代前半の米国におけるマッカーシズムなどがその代表例である。民主政治は常にポピュリズムに堕する危険性を持つ。そのような場合、問題を単純化し、思考や議論を回避することがどのような害悪をもたらすか、国民に語りかけ、考えさせるのがリーダーの役割である。
( 山口二郎 北海道大学教授 )
(知恵蔵2011の解説)
KAI的に一番わかりやすかったのが、こちらのメモ書き。
負け犬が好んで使う「ポピュリズム」とは、この転じた意味としての「大衆迎合主義」。
- 民衆の利益の増進を目標とする政治思想。既存の体制を批判し,知性に重きを置く立場を否定する。民衆主義。人民主義。
- 転じて,大衆迎合主義という訳語が当てられる。
- 今日、一般的に使われるのはこちらの意味であり、「ポピュリズム」はネガティブなイメージとして用いられる。
(「ポピュリズム」の個人的な勉強メモ。)
- ポピュリズムは、日本語に訳しにくい概念。ピープルやポピュラーと語源をともにする言葉であり、19世紀末から20世紀にかけてアメリカにおいて目立つ現象となった。庶民大衆の実感を重視して政治を動かしていくのがポピュリズムである。
- ポピュリズムは功罪を持ち合わせている両義的な概念である。
- 庶民大衆が素朴な正義感や健全な判断力を発揮するならば、ポピュリズムは健全な民主政治を動かしていく可能性がある。
- 19世紀末〜20世紀初頭のアメリカでは、ポピュリズムのエネルギーによって大企業の独占に対する規制など平等や攻勢を志向する政策が実現された。cf.反トラスト法
- しかし、庶民大衆の実感が偏見や因習にとらわれたものであれば、自由や民主主義を破壊する方向に向かっていく危険性もある。その場合、ポピュリズムはデマゴーグと結びつく。
しかし、ポピュリズムと称される小泉、石原、橋下、どの政治家をとっても、まったくもって「迎合」とは真逆の政治家であることは明らかなんであります。
彼らに共通するのは、明確な「メッセージ」の発信であります。しかもこの「メッセージ」の中身からして、大衆に媚びるものは何一つない。
にもかかわらず、彼らを批判する側が好んでこの「ポピュリズム」を多用するのはいったいなぜなのか。
実は、これこそが今回の問題の根本にある「ポピュリズム批判の本質」とも呼ぶべきものなのであります。
ここでこの結論を申し上げるならば、「ポピュリズム」と言う言葉を引き合いに出し相手方を「ポピュリズム」と批判する側自体が「ポピュリズム」に陥っていると言う真実であります。
しかしこれは、巧妙に仕組まれた「レトリック」のかたまりであります。これを理解するには、一筋縄ではいかないのであります。
つまり、簡単に言えば、都合のいいように政敵である「彼ら」の「メッセージ」のでっち上げ(デマゴーグ)であります。
その場合、ポピュリズムはデマゴーグと結びつく。
このような「改革幻想」は初めてではありません。小泉構造改革に寄せられた国民の期待と裏切りの前例があります。
日本経済の再生をもたらしてくれるのではないかという国民の期待と支持を背景に小泉さんは「改革」を進め、結局は貧困化を増大させ、格差を拡大させました。「自民党をぶっ壊す」と言って、実際にぶっ壊したのは日本の経済と社会だったのです。
国民が小泉さんに寄せた変革の夢は「神話」にすぎませんでした。「変革神話」に騙された国民が「改革」の夢から醒めてみれば、生活の立ち行かない厳しい現実が待っていたのです。
(大阪ダブル選挙で橋下圧勝をもたらした「改革幻想」と「変革神話」、五十嵐仁(法政大学大原社会問題研究所教授・所長))
小泉改革が、まったくもって「貧困化を増大させ、格差を拡大させ」たとは言えないことは、実証データからも検証済みの事実であります。
一体全体、なぜこんなことになってしまったのか。このKAIと同じ疑問を持つ人が、ここにもいました。
もっとも討論というのは、反対意見を際立たせる事が前提ですが、自民党、民主党、その他全ての政党が、大なり小なり小泉・竹中批判で一致していたのはどうしてなのでしょうか。異口同音に「行き過ぎた規制改革を巻き戻す」と叫ぶ様は、「なんかヘン」というのを通り越していささか不気味でした。海外に住み、海外メディアの論調を吸収し、日本国内メディアから遠ざかりながらも池田さんのブログだけはしっかり読んでいた私には、現在の日本経済の低迷は行き過ぎた小泉改革の結果ではなく、小泉政権で端緒がつけられた改革路線を、続く安倍/福田/麻生がしっかり継承しなかったからというのが世論の主流だと当然のように思っていたもので。いったいどこでどのように、日本国内における言論統制(?)がこの政界あげての小泉/竹中批判翼賛状態を生み出したのか、皆目見当がつきませんでした。どなたか事情に詳しい方、ここらへんのからくりの種明かしをご教示いただけませんでしょうか。
(総選挙に関する雑感 - 矢澤豊)
そもそも、この「行き過ぎた規制改革」と言う批判が正当なものかどうか。これが正当どころか、いかに不当で卑劣な欺瞞に満ちた言いがかりであるか、これを統計からきちんと検証した本が出ているのです。
本書では実際に「小泉改革で格差は拡大したか」が詳しく議論されているので、少し追ってみよう。(中略)さて、では、小泉政権の期間はというと、2001年から2006年である。あれ? 小泉改革は格差の広がりと関係ありませんね、という結論が出る。(中略)
いや、「小泉改革で格差は拡大した」というのはジニ係数だの所得格差のことではない、完全失業率の問題だ、という主張もあるだろう。雇用が悪化したのは小泉改革の弊害であるといった議論だ。(中略)むしろ、完全失業率の増加は小泉政権以前から見られるので、小泉改革が失業率を減らしていると言えそうだ。あれ? それでいいのか。では、単に働いていない若者を数えるとどうか。これも1990年代からの増加で小泉政権下での目立った増加はない。つまり、ここでも「小泉改革で格差は拡大したか」というと、どうやらそうではない。
では、話題になっている非正規雇用者の増加はどうだろうか。これも統計を見ていくと、同様に特に小泉政権下との関連はなく、それ以前からの変化が続いていたとしか言えない。では、ワーキングプアの増加はどうだろうか。これは統計の扱いが難しいが、やはり同様の結論が出てくる。ではでは、生活保護世帯の増加はどうか。これも小泉改革との関係はわからないとしかいえない。さらに、ホームレスとネットカフェ難民もと統計値を見ていくと、むしろ減っているように考察できる。結局どうなの?
本稿のテーマは、小泉政権が格差を拡大したのかどうかを検証することでした。
これまで見てところでは、わたしたちの実感とは異なり、それをはっきりと裏付けるデータは、公式統計からは見当たりませんでした。え? そうなのか。いや、そうなのだ。それが、各種統計を見て出てくる結論であって、逆に、小泉改革で格差は拡大したという議論は、おそらく、特殊な方法論を使っているか、ごく主観的な主張に過ぎないだろう。
([書評]不透明な時代を見抜く「統計思考力」(神永正博))
これだけ明白なデータが出ているにもかかわらず、です。
(小泉・竹中批判の不快と克服)
なるほど、かように考えると、ポピュリズムとデマゴーグとは、ポピュリズム批判大好き人間の表の顔と裏の顔と言う同根の概念であることが容易に理解できるのであります。 KAI