前回、佐和隆光の、「サービス化経済入門」から引用してのご説明を申し上げたのでありますが、時代はさらに進んでいるのであります。
すなわち、サービス化からアプリケーション化であります。
モノ→サービス→アプリケーション
モノ < 貨幣
サービス = 貨幣
アプリケーション > 貨幣
吉川弘之東大教授は、情報によって受け手に間接的効果を引き起こすものをメッセージ型サービス、直接的効果を引き起こすものをマッサージ型サービスとして、サービス業を二分類することを提唱されている。
(ソフトセクターとは)
では、「アプリケーション化」とは、具体的にどのようなものを言うのか、これを具体的事例でご説明するのであります。
佐々木俊尚さんの「キュレーションの時代」売れているようです。
先週まとめを書きましたが、味わい深い本なので、少し掘り下げてみたいと思います。会社で「キュレーション」や「キュレーター」の議論をすると、必ず出てくるのが、「そんなこと、編集者はずーっと前からやってるよ。編集者とどう違うのか?」という疑問です。本を読んで、個人的にその違いを考えてみました。
キュレーターのいちばんの定義は、情報に意味や文脈(コンテクスト)を付与することだと言われていますが、この点は、編集者も行っていると思います。これは元編集者の端くれの一人としても、ちょっと譲れない点です。その点では、キュレーターと遜色があるわけではないと誇りたい。(ジャーナリストとの違いとしてなら納得です)
その前提においても、その点以外では、結構な違いがあるのではないかと考えています。
(私が考える、キュレーターと編集者の7つの違い。)
しかし、誰もが「キュレーター」となるわけでもないのであります。「キュレーション」はあくまで「アプリケーション化」が100万通りあるうちの、ほんの一つのパターンにすぎないのであります。
では、もう少しこれを俯瞰しやすい事例はないのか、と言うことで、以下またまた次回に続くのであります。 KAI
錦織が、準々決勝でマーレーに敗退した理由を「体力」と言い訳した瞬間、錦織のランクトップテン入りも夢のまた夢と化したのであります。
ツォンガに、錦織が勝てた理由は、単にツォンガのミスが多すぎただけであります。別に錦織のレベルが上回ったわけでもなんでもないのであります。
あれだけツォンガがミスしても、フルセットでしか勝てなかったのは、いったいぜんたいなぜなのか?
錦織は、こう自分に問いかける必要があるのであります。こう問うことが、マーレー攻略に繋がる。しかし、これができなかった。この結果の、準々決勝敗退であったのであります。
ゲームに勝つための、絶対的な「直接的」方法などと言うものは、ない。ないけれども、絶対的「間接的」方法は存在するのであります。それが、「内省」と言うものなんであります。
しかも、この「内省」はただの内省ではないのであります。それは「連続的内省」であります。「不断」の内省なんであります。
錦織について言えば、ツォンガ戦の内省がマーレー戦に繋がり、このマーレー戦の内省が次のゲームに繋がっていく。こう考える必要があるのであります。
最近、ネットベンチャーなど起業の仕方や考え方について書いた記事をよく見かけるのであります。
もちろんこれを記されているご当人にとって、リアルな体験をもとにされているのであるからして、一概にこれの批判はできないのでありますが、彼らに決定的に欠けているのが、この「連続的内省」の視点なんであります。
これについても、すでにここで何度も言及してきているのでありますが、これをあえて全文再掲するのであります。
「同行二人」連載5回目。今回のテーマは、幸之助の結婚と独立起業です。
明治37年(1904年)11月23日、あと4日で10歳になると言う日に、丁稚奉公に出され働き始めた幸之助は、16歳のときそれまで世話になった五代自転車商会を出て大阪電燈株式会社(今の関西電力)に就職します。
そして20歳で19歳の井植むめのと見合い結婚をし、22歳の時独立します。
この時、幸之助の手元には、退職金と預金をあわせて九十五円強の金しかなかった。型押しの機械一台買っても百円は要る。百円というのは今日の貨幣価値に換算して百万円強だが、その金がないのだ。これで独立とは、彼の上司でなくても心配したに違いなかった。
まだ最近のベンチャー企業のほうが、この時の幸之助よりよほど真剣に「起業」というものを考えている。
少なくとも彼らは自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備えをしっかりして起業している。それでも想定外のことが起こり、本当にうまくいく企業は千に三つなのだ。
幸之助が大阪電燈を辞めたのは二十二歳。大学を卒業したくらいの年齢だ。最近はこれくらいで会社を興している人間はいくらでもいる。
もちろん情報量の多い現代と手探りで人生を歩んでいかざるを得なかった当時を比べるのが酷なのはわかっている。それでも現代の若き起業家たちと比べて、幸之助の幼さ、稚拙さはいやが上にも目立つ。彼は決して早熟の天才ではなく、努力で成長していく典型的な大器晩成型だったのだ。22歳で独立といっても、9歳で丁稚奉公に出た幸之助にとって、働き始めて13年後の起業ですから、決して早い独立ではありません。KAIも24歳で働き始めて、37歳で独立。やはり13年後です。
この13年後には何か意味があるように思います。
それは、独立するための精神的な成熟に要する期間ともいえるもので、通常数年もあれば一通りの仕事のやり方を覚えて一人前の仕事ができるようになります。しかしそれでは独立に至る「何か」が足りません。その「何か」とは何か。それは、働くことの意味を知ることです。そしてその働くことの意味とは、仕事を通して人に喜んでもらうことを覚えることです。これを残りの数年間で覚えて、そして起業に至るわけです。
働き始めて一人前に仕事が出来るようになってくると、毎日の仕事が面白くて仕方ありません。しかしこの時期の仕事の喜びは、自分自身の喜びであって、他人の喜びでも何でもありません。もちろんこの段階で独立する人はいくらでもいます。しかし大抵は一度挫折して躓きます。その理由が自分の喜びだけでは起業の条件を満たしてはいないからだと、KAIはいつも考えています。
つまり他人の喜びのために働くことが出来る人間のみが、独立して会社を創業できるのです。
会社とは、その文字通り社会に働きかけて、その見返りの利益を得るものであることを考えると、社会と言う他人の喜びのために働くことができるかどうか、これが独立の条件であることは、自明です。
しかもこれは、上記引用にあるような、
自分の持つ技術の市場価値と将来性、実用化年限、必要資金とその調達先、競合他社が現れた場合のリスクシナリオなど、調査と備え
といったある種の「計算」とはまったく次元の異なる、より高度な精神性が必要とされるものでもあります。ですから、逆説的ですが、VCが大好きなこの引用のある種の「計算」こそ、創業後の成功にとって一番の障害になると、KAIは思っているのです。実は『幸之助の幼さ、稚拙さ』こそが、幸之助の成功の真の要因であった。これがKAIの結論であります。 KAI
(松下幸之助の言葉(7))
これにようやく気づいた女性がいるのであります。
会社を真に支えるものは何か
キャッシュフローの改善策をCFOとして格闘しつつ、かつて経営コンサルタントだった私は、実際の会社経営とは何かを学び続けている。
ついつい数字やテキストブック的理想論を追い求めてしまいがちだが、実際の経営で機能するものは多くの場合、数字やチャートには出てこない人間くさいところにある。会社の価値の多くも、人としての幸せもそこに存在する。
財務諸表が見せる数字を磨き上げることは否定しない。銀行やコンサルティング会社のような第三者が弊社を判断するために財務諸表は必要だし、第三者の見方はそれはそれで一つであり甘んじて受け止めよう。
だが、数字で計り知れない膨大な労力と自己犠牲が会社の存続と成長を支えていることを財務諸表は表さない。
正直なところ、人がどう思おうが、私たちは最善の努力と最善の判断で事業をここまで維持し拡大してきたことに自信と誇りを持っているし、結果として存在している会社の価値をよく理解している。
自分勝手に聞こえるだけかもしれないが、こういうことを本当の意味で理解できるのは同じような経験をたどった人のみではないかとつくづく思う。
(「借入金を今すぐ全額返済?どうしてそんなことに・・・」キャッシュフロー地獄脱出作戦その3・銀行借り入れと投資家探し)
え?
まだよく理解できないって?
そう言うみなさんの「内省」の手助けのために、もう一つのKAIのエントリーを引用するのであります。
これを、「サービス化経済入門」(中公新書、佐和隆光編、1990、p.16-19)の記述の中から長いですが引用して説明します。
情報産業がサービスを変える
情報化には「産業の情報化」と「情報の産業化」という両面がある。「産業の情報化」とは、たとえばコンピュータを導入して、企業の事務管理や在庫管理の効率化を図ることである。卸小売業におけるPOS(販売時点情報管理)システムなどが、その代表例として挙げられる。一方、そうした「産業の情報化」にともない、ソフトウェア開発業務、受託計算業務、情報提供サービスなどの情報関連サービス業が、著しい伸びを示している。これが「情報の産業化」といわれる側面である(図1.1)。
こうした二重の意味での情報化が進めば、低コスト・良質のサービスに対する企業の旺盛な需要が、対事業所サービス業を活性化するのみならず、サービス消費のあり方そのものに本質的な変容を迫るという側面もまた見逃せない。
財と比較してサービスは、(1)非貯蓄性、(2)無形性、(3)一過性、(4)非可逆性などの基本特性をもっている。サービスを完成品として在庫したり輸送することはできない。したがって消費者がサービスを享受するとき、同時的に提供されなければならない。確かに、在来型のサービスの市場には、時間的かつ空間的に一定の仕切りが設けられているため、サービスの供給者と需要者はきわめて狭い範囲内でしか出会うチャンスがなかった。いわゆる「なじみ関係」にほかならない。行きつけの理髪店が決まっていたり、かかりつけのお医者さんに世話になるというのが、その典型例である。
ところが情報関連サービスの進展にともない、「サービス」の予約ということが可能になった。サービスの供給者がサービス提供の場所、時間、料金、サービスの質などについての情報を予め登録しておく。需要者のほうは、登録されている多様なメニューのなかから、自分の要求にかなったサービスを探索する。ちょうど小売店で必要な商品を買うようなものである。映画や音楽会のチケット販売システム、電車の指定券販売オンラインシステムなどとして、私たちの身の回りにその例は多い。
吉川弘之東大教授は、情報によって受け手に間接的効果を引き起こすものをメッセージ型サービス、直接的効果を引き起こすものをマッサージ型サービスとして、サービス業を二分類することを提唱されている。情報産業と呼ばれるものの多くは、メッセージ型サービス業である。メッセージ型サービスの分野では、コンピュータを中心とする情報処理装置、入出力機器、通信網などの情報伝達装置、人工知能ソフトウェアなど、先端技術の導入がきわめて盛んである。
サービスの予約システムの導入によって、トラベル・エージェンシーやプレイガイドなど、サービスの予約を斡旋するビジネスが繁盛し、場所と時間の制約を越えてサービス市場が発展し、より一層の競争が鼓舞されるであろう。このことが適正な価格水準の維持に貢献するものと期待される。サービスとモノの関係
サービス産業の進展とモノの関係について、最後に一言触れておくことにしよう。
サービスとは、モノの「機能」をフローとして市場で取引する営みにほかならない。いいかえれば、モノ自体ではなく、モノの持つ「機能」を売買の対象とするのがサービス業なのである。耐久消費財というモノは、それ自体、売買の対象とされるのが普通である。しかし物品リース業は、耐久消費財の「機能」を取引の対象としており、その営みはサービス業に分類される。そのほか、タクシーや宅配便を、「輸送」という自動車の「機能」を売るサービス業とみなすことができる。
逆にいえば、ほとんどのサービス業は、なんらかのモノのサポートがなければ成り立ちえない。また、物財の「機能」の向上や多様化を通じて、サービスの外部化や多様化がもたらされる。結局、モノの「機能」を向上させ多様化させる技術革新が、経済のサービス化を推し進める動因にほかならないのである。
さらにいえば、モノに埋め込まれ使用時に発現する「機能」の売買が、モノの売買の本質である、というふうにみることができる。たとえば、テレビ受像器というモノを買うのは、テレビというモノ自体を買うというよりは、テレビが受像する映像メッセージを買うというふうに考えるほうが、消費者の行動の本質をより的確にとらえている。つまりいつの時代においても「サービス」は産業の究極の目的であって、サービス提供の媒体としてのモノが時代とともに移り変わってきたにすぎない。
このようにモノとサービスが表裏一体の関係にあることに着目することにより、サービス経済化の進展を、モノとその生産技術の革新の結果としてとらえる、新しい視点にたどり着くことができるのである。前半の引用はなくてもいいのですが、今後の議論のためにあえて引用しています。彼の議論は、国家の公の定義であるサービス業について、その統計データをもとにした彼の言うサービス経済化の動向を分析するための議論ですので、例示を含めて少々古臭い内容ですが、今回の私の論の本質を突いています。
つまり、ハードセクターとソフトセクターの境界線は情報技術とは直列的には相関せず、情報技術と言う多層的な産業技術間の相互の干渉すなわちウェイトがどこにあるかこそ、セクターを分ける尺度として採用できると言うことです。なんだかわかりずらい表現になってしまいましたが、要は以下の定義を採用すると言うことです。
■ソフトセクターとはモノの「機能」を主たる目的として売買する事業を指す
■ハードセクターとはモノを売買する事業を指す次回以降この定義に基づいて、議論します。 KAI
(ソフトセクターとは)
ますますわからんって?
いいのであります。「内省」とはこう言うものなんであります。
とは言えあきらかに、タイトルの「アプリケーション価値の時代を生きる」のご説明が欠落。と言うことで、こちらは次回と言うことで。 KAI
フェデラーが復活、いや、優勝するのであります。
ただいまナダルと対戦中ではありますが、あきらかにフェデラーが豹変した。
フェデラー、全豪オープン優勝おめでとう。 KAI
なんと寝てる間にナダルが逆転。一体何が起こったのでありましょうか?
このお話について、前回こんなふうに書きました。
もしいまあなたの手元に「お金」があるとして、それが自分のお金であるならば、そのお金は「過去」の時間であり、他人のお金であるなら、それは「未来」の時間であります。
その「お金」を使うことは、すなわち自分のお金であれば「過去」の時間を、それが他人のお金なら「未来」の時間を、使うことになるのであります。
そうです。重要なことは、それが「自分」のお金であるか、たとえ親のお金であったとしても自分以外の「人」のお金であるか、天と地ほどに、その意味が違ってくるのであります。(みなさんにとって「自分」のお金のことはさして重要ではありませんので今回は以降省略)
(お金とはなんであるのか?−−お金との付き合い方)
そして山本さんは25歳になったときから2年ごとに3人の子供を出産。ここで気をつけたことは「先に借金を作ったらいけん!」ということ。例えば学費。入学金などで一度に大金を使うことがあるときでも、手元の生活費を取り崩して支払いしてしまうのは、「先に借金を作ると同じこと」。そうではなく、「前もって何年後にいくら必要か」という教育費計画表を作り、必要な時期までに必要資金をためていった。具体的には子供が小学生のときから大学卒業までの20年間の支出を予測し、収入の3割以上は貯蓄していった。このようにして母がせっせとためた教育費を子供たちもありがたく思い、3人とも国立大学に入学してくれたそうだ。
■買いたいものは目的貯蓄をして1年後に買う
山本さんは教育費だけでなく、住宅ローンや家電、旅行などの出費に関してもすべて「目的別貯金ノート」を作って資産管理をしている。例えば自動食器洗い器。子育てが大変になってきた20年前、当時は8万円もした食洗器を購入しようと決意。ここですぐに貯金に手を出すのではなく、「1年後に買うために、毎日節約して貯金しよう」と考えた。8万円を365日で割ると219円。そう計算して、コツコツと1年間ためて買った。「友達はキラキラする宝石ばかり買ってたけれど、私の欲しかったものはこれじゃが! ワーキングマザーの証じゃが!」と本当にうれしかったという。
(【事例1】子供3人を育てたスゴ腕母さんの目的別貯蓄術、資産は年収の7倍以上「お金がたまる家」の秘密(1/5ページ))さらに山本さんの資産管理能力に優れたところは、キャッシュフロー(収入)とストック(資産)を常に意識して生活していることだ。「今月稼いだこのおカネは、何年後の何に使う資金なのか、常に意識して貯蓄してきた。良くないのは今月の収入から今月の出費を出してしまうこと。これではダラダラ出費で、一生お金がたまりません」。まずは貯蓄で家計の資産を増やして、それを基に収入を増やしていくというアプローチだ。
(中略)
最後に、「なかなかたまらない子育て家庭へのアドバイスは?」と聞くと、「最初はまどろっこしい積立貯蓄だけど、後々威力を発揮する。未来の生活費を今作っているんだと思う気持ちで続けてみてはどうでしょう」という。
((2/5ページ))
そして、彼女が、資産を上手に形成することができるのも、過去の時間を「目的別積立貯蓄」と言う「お金」の形に変えて「蓄積」しているからに他なりません。
確かに山本さんが言うように、今月の収入をそのまま今月の出費に回してしまうと、「蓄積」される過去の時間はいつまでたってもゼロのままであります。
考えてみれば「時間」と言うものは、そのままでは「蓄積」することも「貸し借り」することもできません。しかし、これを山本さんのようにうまく「貯蓄」と言う「お金」の形に変えることによって、「蓄積」や人に貸したり預けたりすることが可能になるのであります。
もちろんこれが「借金」であれば、「未来」の時間の「先喰い」となるのは、前回のお話の通りであります。
なかなかお金が貯まらないKAIも、なんだかお金を貯めることができそうな気分になってきたのであります(笑)。 KAI
いきなり、1日で1カ月分のアクセスが集中したのであります。きっかけはこれ。
「小澤の不等式」。数学者の小澤正直・名古屋大学教授が2003年に提唱した,ハイゼンベルクの不確定性原理を修正する式です。小澤教授は30年近くにわたって「ハイゼンベルクの不確定性原理を破る測定は可能」と主張し続けてきましたが,このたびついに,ウィーン工科大学の長谷川祐司准教授のグループによる実験で実証されました。15日(英国時間)付のNature Physics電子版に掲載されます。
(ハイゼンベルクの不確定性原理を破った! 小澤の不等式を実験実証)
それにしても、昨年から続くこの流れは、いったいなにを示しているのでありましょうか。
宇宙が3次元で誕生する様子を高エネルギー加速器研究機構と静岡大などの研究チームがシミュレーションで再現することに成功した。宇宙空間を「9次元」と考える最先端理論を使って、現実の3次元の世界が生まれる瞬間を初めてとらえた。宇宙論の発展につながる成果で、米物理学会誌電子版に来年1月4日に掲載される。
研究チームは、物質を構成する最小単位の素粒子は丸い粒ではなく、ひも状のものだと考える「超ひも理論」に基づき、約137億年前の宇宙誕生の様子を数値計算した。
超ひも理論はノーベル賞受賞者の南部陽一郎氏らが約40年前に提唱した「ひも理論」を発展させたもので、物質や宇宙の根源的な謎を説明する理論として広く支持されている。しかし超ひも理論は宇宙を「9次元の空間と時間」で定義しており、現実の3次元の空間とどう結びつけるかが長年の課題だった。
研究チームは、時間の経過に伴い宇宙空間がどう変化するかを探る新手法を開発し、スーパーコンピューターで解析。その結果、初期は非常に小さい9次元の空間だったが、あるとき3つの方向だけが自然に急拡大し、膨張し始めることを発見した。これが3次元の宇宙誕生の瞬間という。
残る6次元は現在も小さい状態のままで収まっており、人間は感じることさえできない。同機構の西村淳准教授は「超ひも理論を現実の空間と結びつけられたことで、宇宙の始まりから終わりまでの理解に弾みがつく」と話している。
(3次元の宇宙誕生を再現 高エネ研などが成功)
それは、今の今活躍する物理学者や数学者において、彼らの世代の大半が「超ひも理論」を理解するための「レディネス」と言う発達段階に達したと言うことではないかと、KAIは考えているのであります。
相対性理論なり量子力学なりといった新しい「概念」が誕生するとき、最初からこの「概念」の意味を正しく理解できるのは、きわめて限られたごく少数の人間であるのであります。
たとえば、さきほどの「小澤の不等式」に出てくる「ハイゼンベルクの不確定性原理」にしても、これを提唱した当の本人であるハイゼンベルクでさえこの原理の意味を正しくは理解していなかったのであります。
しかし、ここで不確定性原理の解釈を巡ってブレが生じます。
ハイゼンベルクは、不正確さの関係式を導く際に、電子にガンマ線を照射して測定を行うという思考実験を取り上げました。この思考実験によると、電子の位置を測定しようとしても、ガンマ線に拡がりがあるために誤差が避けられないし、測定精度を上げようとしてガンマ線の波長を短くすると、大きな運動量を持つ光子が電子を散乱するために、今度は運動量に擾乱が生じてしまいます。この誤差Δq と擾乱Δp の間に ΔqΔp〜h という関係式が成り立つというのがハイゼンベルクの主張でした。ところが、論文の出版前に原稿を読んだボーアは、この解釈に疑義を呈しました。ハイゼンベルクの解釈は、人間の測定操作が状態を変えてしまうために正確な値が知り得ないというものなので、人間にはわからなくても粒子の位置と運動量そのものは正確に定まっていると考えることも可能です。これに対して、ボーアは、電子は波動性を持っているために、測定をするかどうかにかかわらず、位置と運動量は原理的に確定していないと喝破したのでした。物理学的に正当な不確定性原理の解釈は、ボーアの議論に基づくものです。
ハイゼンベルクは、それまで「電子は波動関数で表される波である」とするシュレディンガーの説を論破すべく立論を重ねていたので、電子の波動性を強調する立場には納得がいかなかったようです。出版された論文には末尾にボーアの異論が付記されたものの、1930年に著された非専門家向けの『量子論の物理的基礎(THE PHYSICAL PRINCIPLES OF THE QUANTUM THEORY)』では、再びガンマ線の思考実験に基づく不正確さの説明を持ち出しています。ハイゼンベルク本人がなかなか自分の解釈を改めようとしなかった結果、不確定性原理に関して、専門書にはケナードやロバートソン流の数学的に厳密な導出法が記される一方で、入門書や啓蒙書には誤差と擾乱に基づくハイゼンベルク流の杜撰な議論がまかり通るというブレが生まれたのです。
こうしたブレがその後半世紀以上も続いたのには、いくつか理由があります。測定における誤差や擾乱は、標準偏差と比べて明確に定義することが難しく、これらの関係式を求めるのはかなり面倒な作業になります。20世紀半ば過ぎまで不正確さの量子論的な限界に迫るような実験はほとんど行われていなかったので、労多くして功少ない課題に取り組もうとする人はなかなか現れませんでした。多くの物理学者は、さしたる根拠のないまま、測定誤差は標準偏差と同程度以上だと漠然と思っていたようです(小澤の議論を知るまで私もそうでした)。ところが、1980年代に入ると、レーザー光の同期や重力波の検出などに際して、量子限界が超えられるかどうかが現実的な問題として浮上してきました。ここで、誤差と擾乱に関する小澤の不等式が登場することになった訳です。
(科学と技術の諸相、吉田伸夫)
しかし、いま、では「量子」って何?
と、あらためてこう訊かれても、なかなかうまく説明できない。
説明できないけれども、なんとなくわかった気でいるのであります。これが研究者であれば、一般人にも簡単に説明でき、研究の道具として理論を直観的に駆使できるようになったと言うのが、100年後のいまであります。
そして「超ひも理論」であります。
この理論は、このブログでも取り上げた2008年ノーベル物理学賞受賞の南部陽一郎の、1960年代に思いついたアイデアをもとに、現在まで半世紀にわたって大きく発展を遂げてきたものであります。
この「ひも」と言う概念が直観的にわかりやすいこともあって一見とっつきやすそうでいて、いざ取り組み始めると、たちまち10次元、11次元といったトポロジー空間のお話になって、ではこれを数理的にどう処理すればいいか、皆目見当がつかない、そう言うとんでもない「理論」であったのであります。
それがいまでは、若い研究者の間で、苦も無く数理計算ができるようになったと言うのが、さきほどの3次元宇宙誕生のシミュレーションの研究と言うわけであります。
KEK理論系グループでは、その後も行列模型に基づく超弦理論の非摂動的研究が脈々と続けられており、国内外から多くのポスドクやビジターが集まって来ます。最近は特に、非可換幾何に関する研究や、数値シミュレーションや解析的な手法を用いた行列模型のダイナミクスの研究が精力的に行われております。例えば、IKKT模型においては時空が行列の固有値分布として力学的な対象として取り扱われておりますが、そのような量を調べる事により、10次元の時空で定式化されたタイプIIB超弦理論から、我々の住む4次元の時空が力学的に生成する可能性が明らかにされつつあります。
(行列模型による超弦理論の非摂動的研究、高エネルギー加速器研究機構)
この、目的とする問題を「直観的」に理解することの重要性は、いまさらご説明するまでもないのであります。
ものごとを「直観的」に理解することで、その意味が理解できるようになるのであります。それによって、より複雑な問題を理解することができるようになっていく。この繰り返しこそ、「知」の探求であります。長くなりましたので、本日はここまで。 KAI
前回は、成人したみなさんにとって、「仕事」がいかに大切なものかお話したのでありますが、今回は「お金」の大切さのお話であります。
そもそも、みなさんが成人するまでに受ける教育環境からして、この「お金」の大切さを理解し、これを生徒に伝えることのできる教師は皆無であると、KAIは断言してもいいと思うのであります。その理由は、また別の機会にご説明するとして、そんな環境で育ったみなさんは、よほど立派な家庭教育なり、個人の特殊な体験なりが、ない限り、「お金」とはなんであるのか、これを理解しないままみなさん「成人式」を迎えておられるのであります。
そして、いきなり結論でありますが、お話をわかりやすくするために、お金とは「時間」であると申し上げるのであります。
「タイムイズマネー」の逆。「マネーイズタイム」であります。
もちろん、1日24時間、365日と言う時間そのものではありません。
しかし、この時間とお金は強く結びついているのであります。
ご説明しましょう。
まず「お金」を稼ぐには、「時間」が必要であります。
もしいまあなたの手元に「お金」があるとして、それが自分のお金であるならば、そのお金は「過去」の時間であり、他人のお金であるなら、それは「未来」の時間であります。
その「お金」を使うことは、すなわち自分のお金であれば「過去」の時間を、それが他人のお金なら「未来」の時間を、使うことになるのであります。
そうです。重要なことは、それが「自分」のお金であるか、たとえ親のお金であったとしても自分以外の「人」のお金であるか、天と地ほどに、その意味が違ってくるのであります。(みなさんにとって「自分」のお金のことはさして重要ではありませんので今回は以降省略)
人にとって「未来」の時間とは、有限であります。もっと具体的に言えば、短ければ1カ月、長くてもほんの数年であります。
つまりは、「他人」のお金を使うと言うこととは、この「自分」の「未来」と言う時間の「先喰い」なんであります。
ここで、成人したみなさんがこれから必ず使うことになる(すでに親の家族カードで持っているかもしれませんが)「カード」について、お話しするのであります。
「カード」とは、要するに「借金」であります。つまり、「他人」のお金なんであります。
先ほどのお話を踏まえて申し上げるならば、みなさんが「カード」を使うと言うことは、すなわちしらずしらずのうちに自分自身の「未来」の時間を消費していると同じことになるのであります。
これになんの意味があるのかと、怪訝に思われるかもしれないのでありますが、きわめて重要なことなんであります。
「カード」なるものはそれを使えば使うほど、実は自分の「未来」の時間のなかで、「真に」自由に使える時間がどんどん減っていくのであります。つまりは、「カード」で使った「お金」で、自分の自由な時間が置き換えられると言うことなんであります。
もっと言えば、たとえば「カード」と言うお金で「車」を買ったとしましょう。これはあなたの「未来」の時間が、目の前にある「車」に置き換えられたと言うことであります。(わかりにくければ何百万の返済のために多大なる労力と言う時間が犠牲になると考えればいいです。)
実は、このお話は、個人だけではありません。会社もまた同じなんであります。
ただ会社の、「他人」のお金には、借金である「融資」だけではなく「出資」と言うかたちのお金があるのであります。
そして世の中、あまねく「出資」と言うもののない「会社」は存在しないのであります。もちろんそれがすべて「自分」のお金である会社があるかもしれませんが、そんな会社は「公」の会社でもなんでもないのでありますから今回は論外とするのであります。
その会社の「お金」の使い方についてであります。
いまがいくら景気の曲がり角に来て、思ったような売上が上がらなくなってきたんだとしても、より合理的な経営、より安全な業務工程、適切なスタッフィング、外注管理、知財やバックオフィスといった目の配り方をしていれば、多少業績が下回ったからと言って株主は何も言いません。私含め、業績が計画通りにいかないからマジ切れするというわけでもない。
ただ、いっときの好景気に浮かれてソーシャルが凄いの拡大するの海外狙うの上場して何千億の時価総額にするのといった、夢は大事にするべきだけど、夢が大きいからといって、小さな金を粗末に使う経営は、それがベンチャーだろうが老舗だろうが私は許せないんです。たとえ、それが自動車通勤だ、取引先との宴会は会社経費だといったレベルであったとしても、あるいは個室や秘書を抱えて手放したくないと思ったとしても、自らを省みない経営に埋没して、自己満足のようなビジョンを披露して業績不調を煙に巻くような真似はよろしくないです。
今期は地震に見舞われたので社会不安が生じて業績の伸びに悪い影響が出ました、まあそれはそうなのでしょう。でも、その社会不安に見舞われた日本人に対して、市場やお客様に対して、お前の会社はどういうミッションを作り、曇った表情の人々に少しでも笑顔を与えようとしたのか、その反響を糧に、どういうビジネスを提供していこうと考えているのか、そのうえで、遅れた上場計画をどうリスケし売上の伸び鈍化をリカバーするつもりなのか、そういう話を株主は聴きたいわけですね。
株主だから偉いとかってんじゃなくて、私も企業を経営しているし、社員を養っている経営者だからこそ感じ取るべき機微のようなものを伝えられない人に、志とか語って欲しくないし、上滑りするトレンドを熱弁されても困る、ということです。そうでないと、社員もついていけないし、自信を持って製品やサービスを作ったり売ったりできないし、会社や業務に誇りも持てないでしょう。
起業の敷居が下がったのは望ましいことだし、起業を支えるサービスが充実したのは日本経済にとってとてもプラスであるのは間違いありません。そのうえで、そういう起業文化の興隆や投資環境の充実はある一定線の善意で支えられており、それによっかかり放漫経営をして経営状態が悪化しても何ら恥じない経営者は、早めに退いたほうがいいと思います。
もちろん、一番損をするのはその経営者がそういう人間性だったということを見抜けなかった株主なんですけどね。
というわけで、今年もいきなり授業料をたくさん支払っております。ありゃあエクジットできねえな。あーあ。
(「景気が悪くなってきたので業績が悪化しました」とかいう経営者がダルい)
しかしなぜこの経営者は、この出資者の嘆きが理解できないのか。
それを説明するのが「マネーイズタイム」、「未来の時間」であります。
会社の「お金」とは、そのお金で「未来の時間」を買っているのであります。
それが「自動車通勤だ、取引先との宴会は会社経費だといったレベルであったとしても、あるいは個室や秘書」に置き換えられることだと考えると、いかにもそれが「浪費」であり、「売上」すなわち会社の「成長」にまったくもって寄与するものではないと言うことが、誰が考えてもわかることなんであります。
さて、この会社にとって、「未来の時間」の「長さ」はきわめて重要な指針となるのであります。
通常、お店を開店して、うまくいかないでつぶれるまでに3カ月と言われるのでありますが、これが「未来の時間」であります。
ここでこんなレポートをご紹介するのであります。(ある投資家による調査資料から引用しておりますが公開されているものではありませんので要約です)
米国のエンジェル投資について調べたWillamette大学のRobert Wiltbank教授の研究("Returns to Angel Investors in Group" 2007)。539人のエンジェル投資家を対象とし、1137件のイグジットについて調査。
投資した案件の5割は、イグジットの時点で投資した額を回収できていない。
3分の1は、まったくの損失に終わっている。
全体の7%の案件が回収額が投資した金額の10倍以上というハイ・リターンを実現している。
このハイ・リターンの分があるため、平均すると、回収金額は投資金額の2.6倍になっている。このデータから読みとれることは、
第1に、イグジットの時期が遅い案件ほどリターンが大きい傾向がある。
第2に、投資家が自らの知識、経験が深い分野の企業に投資した場合に成果が大きい。
第3に、投資先への監督、助言、指導など、関わりの度合いが高いほど、投資に成功する。このWiltbankのデータをもとにして、Bill Payneは、エンジェル投資家が10の企業に10万ドルずつ投資した場合の一般的な推移をつぎのように描いている。
・3年後には、5つの企業が廃業し、そのうち3社は完全な損失、2社は投資額の半分を回収。
・4年後には、4社の株式を売却し、それぞれ10万ドル、15万ドル、20万ドル、30万ドルを回収。
・6年後には、残った1社が成功し、投資金額の20倍の200万ドルを回収。こうしたデータから得られる示唆として、
エンジェル投資家がよい成果をおさめるための投資の仕方として重要な点のひとつは、投資先の分散で、10社以上に投資すること。できれば15社への投資が望ましい。
ハイ・リターンを得るには、6年かそれ以上の時間が必要。
(東京エンジェルズ12年史、需要研究所、山本眞人・永野聖美、2012/1/20、p.37-38から要約)
経営者のみなさまや、あるいは、これから起業を夢見る若いみなさんには、この「未来の時間」と言う限られた時間のなかで、いかにして売上を上げ、会社を成長へと導いていくか、その手腕が問われていると、お考えいただきたいのであります。
そして、投資家のみなさんにとって、この「未来の時間」と言う「長さ」もまた必要不可欠であることも、重々ご理解願いたいのであります。(しかし長すぎるとのご批判は、甘受) KAI
なるほど震災のあとであるからして、致し方ない結果であります。
アンケートは8日、被災3県各2カ所の成人式会場などで面接方式で行った。有効回答数は110(男55、女55)。
設問は、(1)震災後、改めて何が一番大切だと感じたか(2)これからも地元で働き、また暮らしていきたいと思うか(3)震災からの復興に自分も何か役に立ちたいと思うか−の3問。理由を書く自由記入欄も設けた。
(1)については家族、友人、仕事などの選択肢を示したが、「どれも大切」とする新成人もおり、複数回答の数字が含まれている。
集計の結果、(1)は「家族」との回答がもっとも多く、83人に上った。当たり前のように感じていた家族の大切さに気づいたという若者が多く、自由記入欄にも「最初に心配したのは家族だった」といった回答が目立った。次は「友人・恋人」と「地元(地域社会)」が多く、それぞれ20人と16人だった。
(被災3県アンケート 一番大切なのは「家族」)
こんなことを言うと、決まって訊かれるのが、これ。
家族のために働くのではないのですか?
そもそもにおいて、人にとっての一番には、まったくもって議論の余地はないのであります。それは「家族」を「命」に置き換えれば、これはより鮮明になるのであります。
すなわち、一番大切なものは、他のなんでもない「命」ってこと。
で、誰の「命」?
これが「自分」の命と答えた瞬間、「家族が一番頼りになる」といってるのも同然なんであります。
そうではなく、「家族」の命が一番大切と答えてはじめて、この議論の本質にせまることができるのであります。
つまり、「家族」の命のために「自分」の命を懸けるってことであります。「献身」であります。
実はこれがより明確なのが、一番大切なものは「仕事」であるとの答えなんであります。
「仕事」とは、自分のためではなく「他人」、すなわち「社会」にむかって「与える」ことを「仕事」と言うのであります。
そうです。勘のいい人はもうおわかりでしょう。
人にとって一番大切なもの。それは、「家族」でも「友人」でも「地域社会」でも、もちろん「仕事」でも、なんでもいいのであります。ただひとつ「与える」ものと言う条件さえついていれば。
かように考えれば、最初からこんな「条件」の必要のない選択肢である「仕事」こそ、「正解」と言えるのであります。
そしてこのお話は、そのまま前回の「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る」のテーマと直接かぶることがおわかりいただけるのであります。
先日学生時代の硬式庭球部の同期と新年会をしたのであります。みな工学部ゆえか技術畑を歩んでそろそろ定年。こどもたちはすっかり巣立って妻と二人だけの生活。
ではそのあと何するの?ノーアイデアとか。
やっぱり、「家族」も大事だけれども、一生続けられる「仕事」しかないのであります。
成人したみなさんにとって、これから40年か50年先のお話なんかまったくもって想像の埒外ではありますでしょうが、人生にとって最後に残るのは「仕事」であり、一生の「仕事」を得ることこそが人生の「宝」になることを、ほんのすこしだけでも心の片隅においていただければ、そんなあなたの一生は、きっとすばらしいものになると、KAIは思うのであります。 KAI
あたらしい年を迎え、等しくまたひとつ歳を重ねるのであります。そんな年男KAIの昇龍運を、本年はみなさまにおおくりするのであります。
その第一弾が、この言葉であります。これは、このKAI_REPORTの先日のエントリー「ジョブズはなぜ人の胸を打つのか?」の中で取り上げた野口芳宏氏の著書の中の一節であります。
「利他の心」こそが子どもを幸せにする
著者は、国語の「授業名人」と呼ばれ、50年以上教育現場で仕事を続ける、教育界のカリスマにして、プロ中のプロ。74歳の現在も大学の教壇に立ち、全国の研究会、講演会に引っぱりだこです。
本書は、「不断に学びつつ幸福に生きるために、いちばん大切なものは何か」、「人を教える者に必須の条件とは何か」等、教育と生涯学習の根本・本質・原点を真正面から問い直す、著者渾身の一冊。
「正論を自信を持って断言できる」大人が絶滅寸前の昨今、著者が堂々と展開する背筋の伸びた正論には、読んでいて快さを感じます。
中でも、「良き人生観とは、利他の心に尽きる」と明確に定義し、「手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る」と語る「よき人生観の確立を」の章は圧巻。長い人生経験に基づいた珠玉の言葉の数々は、我々が自らの足元を見つめなおすべきこの世相の中でこそ、いっそう輝くものでしょう。
(利他の教育実践哲学、小学館、野口芳宏、2010/7/20)
これからは、会社という組織が逆に膨れていくか、どんどん崩壊していくか、その両方がこれからどんどんこの今後の50年間で起こってきます。それで重要になってくるのが、これは日本経済新聞に載せた記事なんですけれども、会社と個人、あるいは自分のキャリア、仕事と個人というバランスシートがあって、日本の特に若い人に強く言いたいんですけれども、勘違いしているのは、若い人が特に勘違いしているのは、自分は会社とか仕事から得るものだけ得て、一番得た時点で次のステップに移っていくのがキャリアアップである、と。実はこれ大きい間違いでして、自分が与えたものと相手からいただいたものの中で、相手にあげた方の大きい場合に、次の仕事につながります。これはアメリカとかヨーロッパの契約社会で非常に重要な考え方で、得たものよりも与えたものの方が多いことが大切なんです。それでこの人間は優秀であるという名声が広がって、きちんとしたお給料なり、それに対する対価をいただいて、次の仕事をもらうという仕組みを作るのが、実はプロとして非常に大切なこと。なんか高校の話みたいですみません。プロの皆さんを前にして。ただ、非常にその基礎が日本に帰ってきて成り立っていないのでびっくりしました。
(いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロ、デザイナー奥山清行による「ムーンショット」デザイン幸福論)
この問題に関し、KAIのサラリーマン時代を含めた長い経験から言えることがあるのであります。
それは、「オーバーアチーブメント」の人間はその業績に比して給料への文句をまったくと言っていいほど聞かないのに、「アンダーアチーブメント」の人間は100%、その給料の多寡に拘るのであります。いわゆる「金にうるさい」のであります。
そのわけは、なんとなく理解したつもりでいたのでありますが、先ほどの奥山清行氏の発言からこれがより鮮明になったのであります。
すなわち、「オーバーアチーブメント」人間にとってその給料を増やすことは、与えたものから得たものの差である「利益」を減らすことになり、自分の次の仕事にとって何のメリットもないと言うことであります。これに対して「アンダーアチーブメント」は、すでにあるのは「利益」ではなく「損失」であると言うことであります。つまり彼らが給料と言う「得るもの」に拘るのは、端からこの「利益」と言う「のりしろ」を持っていないためだったのであります。
ただここで重要なことは、「得るもの」とは決して「給料」などと言う金銭的価値ではなく、それとまったく異なることを問題にしていると言うことであります。
「得るもの」としての「給料」の価値に対応する「与えたもの」の価値とは、通常「労働」と言う時間的定量的価値に他なりません。
しかし、今回とりあげた表題の言葉も、奥山清行氏の講演も、決して給料の問題ではないことは自明であります。
そうではなく、「得るもの」も「与えるもの」も、金銭的価値とはまったく次元の異なる価値、社会的有用性価値すなわち「アプリケーション価値」であるのであります。(アプリケーション価値については「Fusion-ioが考えるイノベーションはとってもシンプルかつプリンシプル」を参照)
すなわち、人と言うものは、仕事においても教育においても、その社会的有用性の方法とその意味をその活動を通して「学び」、「授け」、これを「実践する」ことをその目的とするのであります。
この意味において、人が「手に入れたもの」とは、その人に「与えること」の意味である社会的有用性をすべて失うのはもっともであり、これを人に「与えたもの」である社会的有用性、すなわちあなたの「信頼」のみが残ることになるのであります。
これは決して、貨幣価値のようなモノ対モノの方向性のない価値観では起こりえないものであり、人間対人間と言う方向性のある価値観である「アプリケーション価値」の時代になって初めて人の生き方そのものを、決定的に変えていく「考え方」であり「哲学」なんであります。
そして、ここで言う「方向性」のあるなしこそ、きわめて重要となるのでありますが、お話がややこしくなってきましたので、ひとまずこれで今年はよろしくお願いするのであります。 KAI